太田述正コラム#8352005.8.25

<人口減少時代の到来(その1)>

1 人口減少時代の到来

 今年2月には、昨年10月1日現在の日本の推計人口が発表され、対前年度比で0.05%増えたけれど、男性は0.01%減ったことが明らかにされました。

 また8月23日には、日本の今年の上半期の死亡数が出生数を31,032人上回ったという統計が発表されました。半年単位で死亡数が出生数を上回ったことは、(統計のない戦時中を除けば)統計を取り始めてから初めてであり、今年年間を通じて、日本が予想されていた2007年より2年も早く人口減少時代に突入する可能性がある、というのです。

 人口とは、実際に日本に在住している人々の数であり、外国人を含む一方で、海外在住の日本人は含まれません。

 男性の人口数が先に減ったことからも分かるように、日本の企業のグローバル化に伴い、海外在住の日本人の数は増加傾向にあります。

 また、日本に在住している外国人の数はほとんど増えていません。

 そして日本人の数そのものが、合計特殊出生率が減り続け、既に1.3を割り込んでいるというとどまるところを知らない少子化の進展によって減少の一途を辿っているわけです。

 (以上、(http://www.tokyo-np.co.jp/00/sei/20050222/mng_____sei_____004.shtml(2月22日アクセス)、http://www.sankei.co.jp/news/evening/24iti003.htm(8月23日アクセス)、及びhttp://news.ft.com/cms/s/3c1f759a-13b9-11da-af53-00000e2511c8.html(8月24日アクセス)による。)

人口が減っていくのはゆゆしい問題です。

 それがなぜかをまずご説明しましょう。

2 なぜ人口が減るのが問題なのか

 (1)人口が減った文明は滅亡する

  ア ギリシャ文明

 紀元前2世紀にギリシャの歴史学者のポリビウス(PolybiusBC204?122年)は、「ギリシャを見渡すと、どこの地域でもまた全体としても人口減が甚だしく、都市は人影がなくなり農地は荒れ果てている。この国は戦争や疫病によって荒廃したわけではなく、その原因は明白だ。吝嗇と怯懦によって、人々は結婚しても持たなければならないだけの子供を持たず、育児を擲つようになった。彼らはせいぜい一人か二人の子供しか育てていない。かくしていつのまにか災厄が急速に訪れたのだ。矯正策はわれわれ自身の内心に存する。われわれは自らのモラルを変革しなければならないのだ。」と記しています。

 しかし、ギリシャ人はこの警告に耳を貸さなかったようです。

紀元前後のギリシャの地理学者にして歴史学者であったストラボ(StraboBC63?AD21年)は、当時のギリシャについて、「全く人影のいない土地だ。ローマの兵士は廃屋に駐屯している。アテネには彫像しか見あたらない。」と記しており、無人に近いギリシャはローマの支配するところとなり、ギリシャ文明は滅びるに至ったのでした。

  イ ローマ文明

 皮肉なことに、ほぼ同じ運命がローマに待ち受けていました。

 マルクス・アウレリアス(Marcus Aurelius161?180年)帝の治世のAD150年頃を頂点として、ローマの西半分(西ローマ)の人口は、その300年後の450年頃には80%も減ってしまいます。

 その結果ローマでは、都市や農場は人影がまばらになり、道路や上下水道は使い物にならなくなり、農場は蚊だらけの沼沢地帯に変わり、かつて果物がたわわに実っていた土地は羊の群れが草を食い尽くして不毛の土地になりました。

このようにして疾病が増え食糧が減ったため、少子化は更に募っていきました。

ついには、軍をローマの人々で埋められなくなり、ゲルマン蛮族に辺境の守りを依存せざるを得なくなり(注1)、そのゲルマン蛮族がやがて帝国中を略奪して回るようになり、ローマ文明はここに滅びるのです。

 (注1)ゲルマン蛮族にカネや食糧を与えて辺境の守りにあたらせたところから始まったが、やがてローマ財政が逼迫してカネや食糧を与えられなくなると、見返りとしてローマ領内への彼らの移住を認めざるを得なくなった(http://en.wikipedia.org/wiki/Foederati。8月24日アクセス)。

  ウ ビザンツ文明

 ビザンツ(東ローマ)帝国の首都コンスタンチノープルは9世紀には25万人、そして12世紀には60万から100万人の人口を擁していましたが、1453年にオスマントルコが占領する直前には10万人にまで減ってしまっていました。

 最新の研究によれば、ビザンチン帝国では人口減少によって辺境の守りを、帝国領内への移住を認めたアラブ人に依存せざるを得ない、という状況が7世紀から始まっており、この状態が進行するにつれてビザンチン帝国の領域は縮小し、最終的にオスマントルコによる首都の陥落、すなわちビザンツ文明の滅亡へと至ったのでした。

  エ 結論

以上見てきたように、ギリシャ文明もローマ文明もビザンツ文明も、その滅亡した主たる原因は人口の減少であり、ローマがギリシャ文明を滅ぼしたわけでも、ゲルマン蛮族がローマ文明を滅ぼしたわけでも、トルコ/アラブ人がビザンツ文明を滅ぼしたわけでもないのです。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.humanlifereview.com/2001_winter/demarcellus.php(8月24日アクセス)及び(http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/GH16Aa02.html(8月16日アクセス)による。)

ですから、人口が減り続ければ、いつかの時点で日本文明もまた滅びることは必至なのです。

(続く)