太田述正コラム#10481(2019.4.8)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その26)>(2019.6.26公開)

 1933年7月10日に起こった神兵隊事件<(注37)は、>・・・東久邇親王が・・・練り上げてきた、反裕仁陣営<(北進派)>を万遍に揺さぶる手品師のたくらみだった。・・・

 (注37)「1933年(昭和8年)7月11日に発覚した、愛国勤労党天野辰夫らを中心とする右翼によるクーデター未遂事件。・・・
 血盟団事件、五・一五事件などの流儀を受け継ぎ、・・・閣僚・元老などの政界要人を倒して皇族による組閣によって国家改造を行おうと企図した。<特高>・・・東京・渋谷の金王八幡神社の集結所で天野辰夫ら約50人が検挙され、内乱罪が適用されたが、刑は免除された。・・・
 統制派将校が背後にいたといわれる<が、>・・・安倍源基は、・・・<それ>は全くのデマであると述べている。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%85%B5%E9%9A%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 安倍源基(1894~1989年)。山口県士族の子で東大法卒。「内務官僚、政治家、弁護士。警視庁<初代>特別高等警察部長、警視総監、内務大臣を歴任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%BA%90%E5%9F%BA

⇒バーガミニは、デマを真に受けている、というわけです。(太田)

 その東久邇の策謀とは、表面上は単純なものだった。3千6百人の筋金入りの右翼を全国各地から呼び集め、宮参りに見せかけて、東京に集合させようとするものだった。東京西部の森に囲まれた明治天皇を祀るその神社に、参拝として集合し、その神主から、 「神の兵隊」 としての祈祷を授かるというものだった。そしてその集団参拝の後、彼らは分散し、東京を混乱に落とし入れるというものだった。さらにその計画によれば、第一の決死隊は荒木陸相を、第二は斉藤首相と政友会の指導者たちを暗殺する。警視庁は占領され、刑務所を襲撃して、井上教導師や血盟団員を解放する。さらに、その司令官の山口三郎<(注38)>は海軍航空隊の最高将校の一人で、東京上空を飛行し、抵抗拠点を爆撃する。そして東京が制圧された後、東久邇親王ないしは秩父親王が首相となる、というものだった。・・・
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_50_17_2.htm

 (注38)「海軍兵学校39期。山口は米沢藩士族の出身・・・英国の航空学校で航空戦術などを学び、航空隊の教員や飛行長、飛行隊長を歴任。・・・神兵隊事件では7月7日に首相官邸、警視庁を爆撃する予定であったが、同月11日に延期となるうちに計画が発覚。山口は逮捕され、予審中に死去した。・・・
 山口が神兵隊事件に参加した背景には、井上日召とのつながりが指摘されている。井上の長兄は海兵33期出身の井上二三雄中佐であるが、井上中佐は山口に操縦技術を教えた教官であった。また海軍青年将校運動の指導者であった藤井斉は井上と盟約を結んでいたが、山口の教え子である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E4%B8%89%E9%83%8E_(%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA)

 引用すべき部分はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_50_17_3.htm

 1934年1月22日、<北進論の>荒木は陸軍大臣を辞任し、彼の忠臣、真崎大将は、陸軍教育総監という、名目的重要性はありながら影響力の少ない地位に就いた。神兵隊事件も同じ穴の狢と化した。1936年の国際的情勢に適合すべき北進論という戦略的構想も、天皇の難色をかって、雲散霧消しようとしていた。・・・
 晴れて南進に心置きなく準備できるようになって、裕仁はまず、優秀な海軍機を作ることに取り組んだ。それまで、日本で製造される進んだ軍用機は、ほとんど輸入された部品に頼って、レーシングカーを作るように、一機づつ手作りで組み立てられていた。荒木の辞任が避けられなくなっていた1934年1月、<南進論>クラブのメンバーたちは、航空力の欧米製部品への依頼から自立するよう、それぞれに努力を傾け、日本独自の必要に適合するよう、国内で設計した日本製航空機を開発しようとしていた。1月12日、そして2月9、13両日、東久邇親王、大兄の木戸、そしてスパイ秘書の原田が、陸軍、海軍、東京帝国大学の共同による航空研究所を設立するため、それぞれ、航空機工場の幹部、および両軍の航空隊司令部の将官と会った。数ヵ月後、木戸の<実>弟で航空技師の和田小六<(注39)>(チャールズ・リンドバーグ大佐の友人)、および、77歳の物理学教授の田中館愛橘(天皇の航空学の講師)の指揮のもとで、航空研究所は設立された。

 (注39)1890~1952年。学習院、一高、東大(造船学科)、同院(航空工学)。祖父の木戸孝允の生家である和田家を継ぐため、和田小六に改名。1920年より文部省留学生としてイギリス、アメリカ、ドイツ、フランスへ留学。
 1923年に東京帝国大学工学部の教授に就任。1932年、斯波忠三郎の後を受けて、所員間の選挙で[東大に置かれた]航空研究所の所長に選出された。航研機の開発を指導し、この機は1938年5月13日に千葉県木更津の海軍飛行場を離陸して、千葉県銚子を経て群馬県太田の中島飛行機株式会社の本館上空で左旋回し、神奈川県平塚海岸の航空灯台を回って、木更津の基点に戻る1周401.759kmの3角コースで11,651kmという長距離飛行の世界記録を樹立した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%B0%8F%E5%85%AD
https://hakameguri.exblog.jp/30244945/ ([]内)

 同研究所は、まず、英国ソップウィズ社の有能な設計家、ハーバート・スミスを雇った(83)。スミスは、第一次大戦中に活躍したソップウィズ・キャメル戦闘機――安定性を欠くが操縦性能が良い――で、その名声を博していた。その一年後、スミスと三菱のチームの協力をえて、同研究所の専門家たちは、卓越した日本製戦闘機の試験飛行にこぎつけた。この戦闘機、A5M<(注40)>こそ、有名なゼロ戦の原型機で、二次大戦勃発後の数ヶ月、連合軍のホークやバッファロー戦闘機の操縦士を恐れさせることとなった。・・・
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_50_17_4.htm

 (注40)九六式艦上戦闘機。三菱で(ゼロ戦の開発にも携わることになった)堀越二郎が開発担当。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%85%AD%E5%BC%8F%E8%89%A6%E4%B8%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F

⇒和田小六は、戦前~戦中における、日本の航空開発基盤を確立したのであって、彼とゼロ戦を直に結び付けるのは牽強付会の感があります。
 とまれ、杉山元は、航空課長当時、児玉常雄を通じて木戸幸一と知り合ったと私は見てきた(コラム#10369)ところ、直接、或いは、木戸を通じて、和田小六とも間違いなく知り合っていたはずであり、(いや、或いは、和田を通じて木戸と知り合った可能性すら・・、)東大に航空研究所を設置させたのも杉山である可能性が高い、と思います。
 輪舞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E8%88%9E
ではありませんが、杉山を巡って、マジ、ところてん式に、戦前~戦中期の重要人物や重要事件が全て繋がっているわいな、と改めて感じ入った次第です。(太田)

(続く)