太田述正コラム#10485(2019.4.10)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その28)>(2019.6.28公開)

  第二十章 2・26事件

 紹介すべき部分はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_50_20_1.htm
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_50_20_2.htm

 第五部 軍紀の粛正

  第二十一章 鎮圧(1936)  

 紹介すべき部分はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_50_21_1.htm
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_50_21_2.htm

 第六部 アジアの枢軸国

  第二十二章 対ソ中立化工作 (1936-1939)

 紹介すべき部分はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_60_22_1.htm
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_60_22_2.htm
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_60_22_3.htm
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_60_22_4.htm

  第二十三章 枢軸国への加盟 (1940)

 ・・・1940年7月19日、<近衛首相>と各大臣は、日本を反英国に変えさせる中傷宣伝を始めることでドイツを満足させることに合意した。そうして7月27日・・・憲兵は東京地区の15名の英国人居住者を逮捕し、彼らを諜報活動員と非難した。彼らのほとんどは典型的な英国植民地の事業家で、彼らに雇われている使用人たちは、日本への優れた彼らの温情を傷付ける以外の何ものでもないと報告した。しかし、彼らは訓練された工作員で、巧妙な二重スパイを行っていると決めつける必要があった。だがそれを実演してみせるのは難題であったが、満州での経験を参考に、そこで一つの方法を発見した。
 7月29日月曜日、その15人の英国人逮捕者の一人――メルビル・コックスというロイター特派員――が、東京の憲兵隊本部の上層階の窓から投身し、下の舗道に墜落死した。その遺体を収容するようにと呼ばれた英国大使館の外交官は、彼の腕に35か所以上の鍼の跡を見つけた。
 他の14人の 「スパイ」 たちは、好ましからざる人物として、釈放されて国外追放された。そのうちの何人かは、抑制剤や幻覚剤を与えられていたと証言した。そのうちの一人は、取調べの間、開けられた窓辺にくると、そこから飛び出したい強い衝動を感じたことを思い出した。強い動物的直観から、彼はかろうじてその衝動を抑えていた。コックスの件を調査した英国の外交官は、コックスも同じように感じ、その誘惑に負けたとの結論を下した。<(注42)>・・・
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_60_23_1.htm

 (注42)コックス事件。「大谷<敬二郎(前出。但し、この箇所の典拠は1957の著書であり、異なる。)>・・・は、・・・コックスらを逮捕した理由について、1940年1月頃から特高課外事班が駐日外国人10数名をスパイ容疑者として偵諜しており、このうち英国人2人について軍事機密事項をスパイしている容疑が固まったために<憲兵隊が>検挙したのであり、特に排英のために英国人を検挙したわけではなく、結果として国内の親独伊派の排英・防諜意識高揚を助長することになっただけだ、としている。・・・
 英外務省は報復措置として英帝国内の異なる場所にいる10人の日本人の逮捕を提案し、内閣の承認を取り付けると、翌日以降・・・<ラングーン、ロンドン、シンガポール、香港>で日本人が逮捕・拘束された。・・・
 <これを受け、>日本の新聞各紙は、駐英大使の召還、英国との国交断絶など、強硬手段に出るべきだとの論調で伝えた。
 <また、>・・・日本各地で英国の日本人逮捕に抗議し、日本政府に強硬な対抗措置を求める大衆集会が開かれた。・・・
 <なお、>ロイター通信は、・・・コックスの死を報じ<た際>、独自の情報として、コックスには外部からの食料や書籍の差入れが許可されており、入浴の希望は拒否されていたが、憲兵隊での扱いは良かった、と伝えた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒バーガミニは、大谷の1959年の著書(前出)をそのまま引用している一方で、同じ大谷の1957年の著書(上出)・・読んでいない方とは考えにくい・とは反対の主張をしているわけであり、結論先にありきで、その結論に都合の良い記述のある著書等を引用している、と言わざるをえません。
 それにしても、この事件に対する英国政府の対応はお粗末過ぎの自傷的なものです。
 当時、英外務省のキャリア達の質が落ちていたとは考えられず、また、当時の外相のハリファックスも優秀そう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89_(%E5%88%9D%E4%BB%A3%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E4%BC%AF%E7%88%B5)
であるけれども、彼のインド総督としての経験(上掲)が、日本人を、植民地根性で堕落させられてしまったところのインド人、と大差ない存在である、と誤解させ、見下してしまっていた可能性があるように思われます。(太田)

(続く)