太田述正コラム#10487(2019.4.11)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その29)>(2019.6.29公開)

  第二十四章 受動的抵抗 (1940-1941)

 ・・・<南進作戦の立案は、>陸軍において、台湾で設立された第82部隊と呼ばれる研究組織によって行なわれた。それは、板垣大将・・・の司令下でなされた。だが、その組織の背後の実際の頭脳は、後の 「マレーの虎」 こと、山下奉文中将のそれであった。・・・

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[第82部隊について]

 「・・・1940年12月25日、大本営は、上陸作戦と熱地作戦を特色とする南方作戦の準備のため、現地での研究機関として台湾軍司令部内に研究部・・・第82部隊と秘称・・・を設置し、翌1941年1月18日に、同研究部に対して、南方作戦に必要な、諸兵種の戦闘方法、南方諸国の軍事事情・兵要地理ならびに兵器・経理・給養・衛生防疫に関する事項の研究・調査・試験を行い、同年3月末までに報告するよう指示した。・・・
 また同月、南支那方面軍司令官に対しても、南方作戦における戦闘及び陣中勤務に必要な研究を命じ、台湾軍研究部の研究試験への協力を指示している。・・・
 研究対象地域とされたのは、英領マレー、英領ボルネオ、フィリピン、蘭領インド、インドシナ、タイおよびビルマ。・・・
 部長は台湾軍参謀長・上村幹男少将、実務的責任者は軍司令部附の林義秀大佐。総人員は30名前後で、第1課(企画課)には辻政信中佐、・・・らが配属され、指導的役割を務めた。・・・
 台湾軍研究部は、大本営および関係する軍団・官庁、学校、南方関係の民間商社などと密接に連絡しながら、調査・研究業務に専念した。特に台湾総督府とその管下で10数年前から南方調査を続けてきた南方協会、台北大学(医学部・気象部)、石原鉱業等の協力が貢献大だった。また南方遍歴直後の大谷光瑞師から事情を聞いたり、南方海洋での航海歴の長い諸船長から海洋気象や予想上陸点付近の状況を確認したりもした。
軍情調査については成果が上がらなかった。・・・
 1941年6月下旬、研究成果を検証するための実地演習が、研究部の主宰により海南島で実施され、歩兵1大隊・砲兵1中隊基幹の部隊が、敵前上陸に引き続き、自動車・自転車による熱地長距離踏破の機動演習を行った。・・・
 海南島の1周約1,000キロメートルが、上陸地点の南タイからシンガポールまでの距離に相当していたとされる。・・・
 台湾軍研究部は1941年7月頃閉鎖された。台湾軍研究部による調査・研究および海南島での演習の結果は、『部外秘 これだけ讀めば戦は勝てる』と題した小冊子にまとめられ、太平洋戦争の開戦にあたり、南方作戦のため輸送船に乗船する部隊の将兵に配布された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%A0%E3%81%91%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%81%B0%E6%88%A6%E3%81%AF%E5%8B%9D%E3%81%A6%E3%82%8B ☆
 1941年に、ビルマ工作を海南島、次いで台湾で行った南機関と「第82部隊」との関係までは確かめられなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%A9%9F%E9%96%A2
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⇒板垣征四郎及び山下奉文、や、このすぐ後に登場し、☆(前掲)でも登場する、林義秀、辻政信、大谷光瑞、のうち、林を除く2人のそれぞれのウィキペディアには、第82部隊への言及はありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E5%A5%89%E6%96%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%BE%A9%E7%A7%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E6%94%BF%E4%BF%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E7%91%9E
 山下については不明ですが、「支那事変の勃発に際して<台湾軍>隷下の台湾守備隊は上海派遣軍の指揮下に編入、中国大陸に派遣され「台湾混成旅団」を経て第48師団に改編された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
ことから、第82部隊発足時に、支那派遣軍総司令部の初代参謀総長であり、その時の部下に辻がいたところの板垣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E5%BE%81%E5%9B%9B%E9%83%8E
が、第82部隊発足に関わった可能性はあります。(太田)

 山下中将は、第82部隊への自分の提案が動き始めたことを知る以前の1940年11月、・・・〔ヨーロッパに〕 派遣された。そうして山下が留守中、陸軍諜報部出身の評判かんばしくない大佐、林義秀<(注43)>が第82部隊の指揮についた。・・・

 (注43)1891~1978年。和歌山中学校を経て、陸士、陸大。「台湾歩兵第1連隊長の際に日中戦争に従軍。台湾軍研究部員、・・・1941年10月、陸軍少将に進級。太平洋戦争を第14軍参謀副長兼軍政部長として迎え、フィリピン攻略戦に参加した。・・・陸軍中将に進級し終戦を迎えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%BE%A9%E7%A7%80

 1941年1月1日、辻は第82部隊に配属され、南進策でもっとも困難とみられていたシンガポール攻略の作戦立案を担当した。その部下の士官たちは、フィリピンや蘭領東インドに対する掩護攻撃の研究に配置された。第82部隊の最初の任務は、東南アジア――・・・1934年以降、台湾には諜報機関の民間工作員が集結していた――についてのおびただしい情報を選りすぐり結合することだった。
 台湾の辻やその部下<の>・・・ため、天皇裕仁は、大谷光瑞<(前出)> 〔こうずい〕 伯爵――母の義理兄弟――を代表として派遣した。大谷は、京都の西本願寺の異端法主であった。1912年、大谷伯爵は、寺の財宝を売り、寺の金を私的満足に使用したと告発された。彼は、日本でもっとも大規模かつ有力であった同宗派の法主を辞任し、中国や東南アジア各地に末寺を建立する布教活動を行った。1920年代中頃、彼は寺の資産に購入した霊山のための借金の利息を払わず、それゆえジャワを追われた。ボルネオやマラヤのサルタン 〔イスラムの王国〕 の彼のいくつもの寺は、地元の政府から破壊組織とみなされて閉鎖された。しかし、彼はヤホールのサルタン――英領マラヤに最上のゴム園を所有している富豪――の友人だった。・・・1930年以降、彼は自分の関心を、東京の南進派国会議員と、台湾を拠点とする南進植民地事業者の二方面に注いでいた。<(注44)>

 (注44)大谷のウィキペディアに、「生前は<神戸の>二楽荘の他、大連(浴日荘)、上海(無憂園)や台湾の高雄(逍遥園)、インドネシア(環翠山荘、耕雲山荘)などに別荘を設けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E7%91%9E 前掲
という記述があるだけだ。

 大谷伯爵の幅広い後見のもとで、辻大佐とその第82部隊の士官たちは、台湾の日本の事業者および宗教団体が収集した東南アジアに関する地理、民族、そして政治的情報のすべてを利用することができた。・・・三月には、辻とその部下たちは、日本の商業飛行操縦士と海軍沿岸警備隊員とともに、既成の地図にある空隙部分の上空飛行を開始した。それと同時に、山下の要望により、海南島に選抜奇襲部隊が編成され、北西インドシナ地区の森林で、ジャングル潜入技術の鍛錬や、サンゴ礁で囲まれた島への水陸両用作戦の訓練が始められた。・・・
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_60_24_1.htm

(続く)