太田述正コラム#10496(2019.4.15)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その5)>(2019.7.4公開)

 また、マルクスは商品化された労働力の主体であるプロレタリアート<(注2)の政治的能動性を重視し、「近代」の資本主義的な生産様式の次に到来すべき「近代」後の新しい生産様式とそれに相応する社会を形成する主導的役割をプロレタリアートに期待しました。

 (注2)「フランスの二月革命など欧州各地で起きた1848年革命に強く影響を与えた、ドイツの法学者ローレンツ・フォン・シュタインが1842年に執筆・刊行した著書『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』で、この語を資本主義体制下の生産手段を持たない貧困階級の意味で使ったのが有意の初出とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88
 「マルクスはこの著作を読み、決定的な影響を受けたことが知られている。・・・
 またシュタインのこの著作の第1部第1章「プロレタリアート」には「(サン=シモン主義、フーリエ主義)この両者と並んで、共産主義という不気味で恐るべき幽霊が現れてくる」という一文があり、この文章はマルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって執筆された綱領文書『共産党宣言(共産主義者宣言)』(1848年)冒頭の一文と酷似している。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%A8%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 シュタイン(Lorenz von Stein。1815~90年)は、ドイツの法学者・思想家であって、「伊藤博文にドイツ式の立憲体制を薦めて、大日本帝国憲法制定のきっかけを与えた人物としても知られている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3
人物。

⇒マルクスの近代論は、彼の、唯物史観の一環であるわけですが、同史観には、三つの問題点があったように思います。
 (以下、マルクス自身の主張に関しては、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9%E5%8F%B2%E8%A6%B3
http://note.masm.jp/%CD%A3%CA%AA%BB%CB%B4%D1/
http://note.masm.jp/%A5%A2%A5%B8%A5%A2Ū%C0%B8%BB%BA%CDͼ%B0/
による。)
 第一に、近代、すなわち、資本主義社会、の分析に注力し過ぎ、唯物史観における最大のエポックであるはずの、階級社会、それはまずは農業社会の形で立ち現れたところから農業社会、しかも、階級社会としての歴史の圧倒的部分を占めるこの農業社会、の分析がおろそかになってしまったことです。
 第二に、このこととも関連しますが、農業社会を「古代(奴隷制)」社会、と、それが移行した、「封建(農奴制)」社会、の2種類(のみ?)、としたためか、イギリスが、古代も封建も抜きの、最初からの資本主義社会であったことを見落とした・・資本主義社会であったことから目を逸らしている?・・ことです。
 第三に、より根本的な問題ですが、文明論的視点が欠如していることです。
 しかし、マルクス自身、そのことに全面的自信がなかったのか、「アジア的生産様式」なる、原始共同体的生産様式の別名なのか奴隷制の古代アジア的形態なのか、説が分かれる「生産様式」を持ち出していることです。
 なお、「主導的役割をプロレタリアートに期待しました」についての私見の開陳は別の機会に譲ります。(太田)

 これに対して、バジョットは伝統的な議会制の下で出現した政党を基盤とする「内閣」(The Cabinet)による政治的能動性の集中を重視し、それを支持し補完する要因として、体制への畏敬と恭順とを喚起する体制の「尊厳的部分」(女王や上院)の役割とそれによって涵養される被統治者の政治的受動性に意味を認めました。・・・

⇒既に触れたように、イギリスは、17世紀に名誉革命を行い、18世紀にはスコットランドと連合王国を形成した後、同じ世紀中に、基本的に、国王を権威の首長、首相を権力の首長、とするに至ったということであり、世界史的に見れば、日本が、かつて、邪馬台国で行い、かつまた、10世紀末の摂関政治確立
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E9%96%A2%E6%94%BF%E6%B2%BB
以来、現在まで踏襲してきているところの、国政における権威と権力の分離・・そのことに言及したケンペルの本(コラム#10408)が1926年に英訳の形でロンドンで出版されている!
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%AB-61069
・・という国制を「継受」した日本以外の初めての国になった、と指摘したくなるくらいであるところ、いかに日本文明が先進的であったかを、我々は、ゆめゆめ、忘れないようにしたいものです。
 なお、バジェットが実際にどのように記述していたかは知りませんが、上院は、その最高裁的機能部分は従前通りで変わらず、また、議会としての機能部分は、これまた基本的に従前通り、下院に対するチェックとバランス役を演じ続けただけではないか、というのが私の認識です。(太田)

(続く)