太田述正コラム#10498(2019.4.16)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その6)>(2019.7.5公開)

 バジョットの「近代」概念にとって重要なのは、「前近代」との関係でした。
 バジョットの場合、「近代」と「前近代」との間には断絶と連続とがありました。
 「近代」は「前近代」を否定し、それから断絶することによって成立すると同時に、「前近代」のある要素を蘇らせることによって出現すると説明するのです。
 「近代」から断絶される「前近代」の要素とは、固有の「慣習の支配」です。
 それは「近代」を特徴づける「議論による統治」とは相容れません。
 ただ、「前近代」にも、古代ギリシャに見られるように、「慣習の支配」と対立する「議論による統治」の先駆的形態が形成されていました。・・・

⇒バジョットが古代ギリシャに言及していたということなのでしょうが、こういう時に、それよりは相当時代が新しいけれど、どうして三谷は、「それ事はひとり断(さだ)むべからず。かならず衆とともに論(あげつら)うべし。・・・」を、十七条憲法のしんがり、恐らくは最も重要な条文、に入れたところの、聖徳太子(なら7世紀初)、ないし日本書記執筆者(なら8世紀初)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95
を持った、日本に言及しないのでしょうね。(太田)

 そのような「前近代」における「議論による政治」の伝統は、アテネに代表される古代ギリシャの他にも古代ローマ、中世イタリア諸共和国、封建ヨーロッパの諸共同体や身分議会にも共有され、特別な影響力をもっていました。

⇒身分制議会は、欧州で官僚機構が未発達であった時代において、過激に表現すれば、各階級の代表者達を君主のもとに呼び集めて、広義の軍資金確保のための徴税を上意下達する場に他ならなかった(コラム#9455)ことから、ここで登場させるのは場違いである感があります。(太田)

 それらはそれぞれの影響力をそれらのもつ「自由」に負っていました。
 そこではのちに国家に集中することになる「主権的権力」(sovereign power)が分割されており、各権力主体の間で議論が行われていたのです。

⇒例えば、イタリアが地域名としてしか存在していなかった、欧州の中世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8E%8B
における、どちらも、イタリア半島に本拠を構えつつも、地中海世界に広く植民地を有し続けたところの、ヴェネツィア共和国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95
であれ、ジェノヴァ共和国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A1%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
であれ、それらは(イタリア半島の?、それとも地中海世界の?)「「主権的権力」(sovereign power)が分割されて」いたうちの一単位などではなく、それ自体が「主権的権力」だったのであり、三谷の記述は杜撰過ぎ、というものです。(太田)

 それはバジョットによれば、政体の如何とは関係なく「自由国家」(free state)というべきものでした。

⇒「封建ヨーロッパの諸共同体」が、一体、いかなる意味において「自由国家」だった、と三谷は言いたいのでしょうか?(太田)

 それが「近代」における「議論による統治」を生み出す「自由」と歴史的に連続していたのです。

⇒さっぱり意味が分かりません。(太田)

 その意味でヨーロッパにおいては、古代史や中世史は近代史の一部でもあったということでしょう。・・・

⇒上のセンテンスに輪をかけて、全くもって、意味が分かりません。
 なお、私が、古典ギリシャ及び古代ローマ史は、そもそも欧州史には属さない、という見解である(コラム#省略)ことはご承知の通りです。(太田)

(続く)