太田述正コラム#8592005.9.9

<ローマ帝国の滅亡(その2)>

 このように、ヒーザーは、(西)ローマ帝国滅亡の原因として、(フン族とゲルマン人という)蛮族侵入説を主張すると同時に、ローマ帝国は大混乱の中で滅亡したとして、平穏滅亡説を批判したのです。

 しかし、何ということはない、ヒーザーの言っていることは、少なくとも私にとっては、三分の一世紀以上前に高校の世界史の教科書に書いてあった話・・恐らく当時における英米の通説・・と基本的に同じであり、面白くも何ともありません。

 どうやら、この三分の一世紀の間に、英米におけるローマ帝国滅亡論は、一回りして元のところに戻ってきた、ということのようですね。

 これに比べると、下掲のパーキンスの言っていること・・ただし、一部私の言葉に置き換えてあります・・は、斬新であるだけでなく、さまざまなことを考えさせられます。

3 パーキンスの平穏変容説批判

 ローマ帝国が滅亡(fall)した直接の原因は、ヒーザーの言うとおりだろう。また、彼が平穏滅亡説を批判しているのももっともだ。

 しかし、376年までローマに一切衰退(decline)の兆しがなかったとヒーザーが主張している点については、判断を留保したい。人口減少説が正しい、という可能性だってあるのだ(注7)。

 (注7)蛮族侵入以前の3世紀と4世紀の間に、イタリア中部の大部分とガリアの一部で人口が減少していた徴候がある。

 それはさておき、私は、平穏変容説は間違っていると考えている。

 ローマ帝国の滅亡から西欧に中世社会が成立するまでの過程は、私が研究したところによれば、以下述べるように、すさまじいものだったのだ(注8)。

 (注8)これはあくまでも滅亡した西ローマ帝国の旧領内での話であり、東ローマ帝国は繁栄を続けていたことを忘れないようにしよう。

 思い出してもみたまえ。4世紀末にローマがブリテン島から撤退すると、急速かつ完全に、ブリトン人等の生活水準はローマが侵攻してきた以前の鉄器時代の昔に戻ってしまった。ローマが持ち込んだろくろ・レンガ・タイル等は、3世紀の長きにわたってブリテン島から姿を消したのだ。

 同じようなことが、ローマ帝国滅亡(滅亡前の大混乱期を含む)後、5世紀から7世紀にかけて旧帝国領全体で起こったのだ。

 例えば、土器の品質は著しく低下し、生産量も極端に落ち込んだ。

 穀物の生産性は低下し、家畜の大きさまで小さくなった。

 また、4世紀まで盛んに使われていた貨幣(銅貨)は、それ以降姿を消し、それとともに市場がなくなり、交易活動もとだえてしまった。

 水道もなくなり、闘技場や劇場や公衆浴場といった娯楽の場もまたなくなった。

教育活動は行われなくなり、識字率は比べようもないほど低下した。

 キリスト教会の大きさは小さくなり、治安も乱れに乱れた。

 そして、ローマ市のすぐ北の地域の住居跡の規模を発掘土器数から推定すると、紀元100年と紀元400?700年とでは、四分の一になっている。人口も四分の一になったとは言わないが、人口の大幅な減少があったことは間違いなかろう。他の地域も推して知るべしだ。

 まさにローマ帝国の政治・軍事機構が壊滅するや、経済もまた壊滅し、ローマ文明・・要するに文明・・そのものが、急速に滅亡するに至ったわけだ。

 こんなことは、はからずも旧ローマ領の支配者となったゲルマン人達の予期と期待に全く反することだったが、彼らにはどうすることもできなかったのだ。

 以上です。

 私の感想は、あえて記さないことにします。

 皆さんの感想はいかがですか。

(完)