太田述正コラム#10558(2019.5.16)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その22)>(2019.8.4公開)

 幕藩体制における権力の抑制均衡のメカニズムとして注目すべきものとして、第二に挙げられるのが、権力の分散です。
 身分とか地位とかいった名目的な権力と実質的な権力とが制度的に分離されていたということです。
 実はこの点を高く評価していたのが福沢諭吉でした。・・・
 <彼は、>権力の分散が制度化されていたという点については、明治国家の立憲主義につながる非常に重要な要素であるということを指摘しているのです。・・・
 帝国議会が開設された1890(明治23)年12月から23日にかけて公表された<時事新報の>論説・・・の中で、・・・福沢は・・・「将軍の権力も朝廷の為めに平均せられて円満なるを得ず」と指摘します。

⇒このくだり全体に関わるのですが、福澤は、ここでは、歴史学者というよりは、政治評論家として、自由民権運動や開設された帝国議会に影響を与えるために江戸時代の話を、彼の政治評論の目的に沿うように「加工」して利用している可能性がある、ということを忘れてはなりますまい。(太田)

 これはいわゆる権力と権威とが分離していたということです。
 さらに「これを第一の平均として、是(これ)より諸侯と公卿との釣合を見れば、公卿は位高くして禄少なく、諸侯は禄豊にして位卑し。…

⇒ここまでは、権威(名目的な権力)と権力(実質的な権力)の分離の話であると言えるけれど、必ずしも「権力の分散」の話とは言えないでしょう。(太田)

 徳川にては小臣執権の制を定めて将軍の同族は勿論、都(かつ)て大諸侯の一類は幕政に参るを許さず。」「老中は政権を以(もっ)て大諸侯を御すること大人の小児に於けるが如くなれども、家の実力身分の一点に至りては遥(はるか)に下流に位して之に近づかんとするの念慮もある可(べか)らず。」「双方共に強きが如く又弱きが如く」すなわち老中は一方で強いように見えるけれども、実際はコントロールする大諸侯に対して非常に弱い面がある。
 また「愉快なるが如く又不愉快なるが如く」一方で老中は権力の快感を味わうかと思うと、しかし実際は他方でそれを減殺するようなメカニズムが働いている。
 「中央の命令常に能(よ)く行はれて執政者の跋扈したることなし。」
 すなわち中央の命令は非常によく行われていたのだけれども、しかし、それを実際に行使する執政者が跋扈したということは実は幕藩体制においてはなかった。
 体制全体として見れば、権力の配分は「平均の妙を得たるものと云ふ可(べ)し。」
 これが幕藩体制権力の実際についての福沢諭吉の評価であったのです。・・・

⇒福澤には申し訳ないが、これは、幕藩体制が、その字義通り、(現在の日本を含む近現代諸国家の中央政府に比して権限の小さい中央政府たる)幕府と(同じく権限の大きい地方政府群たる)諸藩から成っていた・・将軍は中央政府の長である、と同時に、天領というスーパー藩の支配者たるスーパー大名である、という2法人格を有していて、中央政府の長たる将軍と大名達とは、かつまた、将軍を含む各藩の大名達とは互いに、権力を分有していた・・というだけのことであって、老中(達)は、大名(達)ならぬ老中(達)としての立場においては、中央政府の長たる将軍の最高スタッフでしかなかったのですから、彼らが、大名達、就中大大名達、と権力を分有していたわけではないでしょう。
 (彼らは、自身の大名(達)としての立場においては、将軍も含むところの、他の大名達との間では相互に権力を分有していましたが・・。)(太田)

 幕政最上の権は老中の手に握り、参政の若年寄<(注20)>と雖も容易に喙(くちばし)を容るゝを許さず。

 (注20)「若年寄<は、>・・・江戸幕府の職名。老中に次ぐ重職。老中が朝廷,寺社,諸大名など幕府外部の諸勢力を管轄することによって国政を担当したのに対して,若年寄は,旗本,御家人などを指揮,管理することにより,将軍家の家政機関としての幕府内部のことを掌握し・・・譜代小藩の大名が当たった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%8B%A5%E5%B9%B4%E5%AF%84-153900

⇒ここも福澤には申し訳ないが、老中は、中央政府の長である将軍の最高スタッフであったのに対し、若年寄は、天領というスーパー藩の支配者たるスーパー大名である将軍の最高スタッフであって、全く異なる仕事をしていたのですから、互いに「容易に喙を容るゝを許さず」だったのは当たり前でしょう。(太田)

 然るに目付なる者は、老中に属せずして、若年寄の支配下に在りながら老中を弾劾するの権を有し、…又目付の支配下に徒(かち)目付<(注21)>、其下に小人(こびと)目付あり。

 (注21)「目付の支配に属し、江戸城内の宿直、大名登城のとき玄関の取り締まり、評定所、伝奏屋敷、紅葉山および遠国への出役、ならびに幕府諸役人の公務執行状況の内偵にあたり、裁判、検使、拷問、刑罰の執行にも立ち会った。百俵、五人扶持(ぶち)。約六〇人。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%92%E7%9B%AE%E4%BB%98-463966

 小人目付は常に徒目付に随従して事を執(と)る小吏なれども、此の小吏には時として上役の徒目付を差置き直(じか)に目付に面して事を具申し、又徒目付を弾劾するの権あり。

⇒目付は、「旗本・御家人の監察などに当たった」
https://kotobank.jp/word/%E7%9B%AE%E4%BB%98-141466
ところ、「万延元年遣米使節で小栗忠順が目付として赴いた際には「目付とは<古代ローマの>Censor<(ケンソル)>である」と主張し<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E4%BB%98
わけですが、ケンソルは、要するに監察官兼国勢調査官であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AB
けれど、目付はその職務の前半分に相当する職位である、と、幕府自身、考えていたということでしょう。
 福澤は、大目付には触れていませんが、大目付が「老中の下にあって、・・・大名および幕政全般を監察することを職務とし<た>」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%9B%AE%E4%BB%98-39622
、ということから分かるように、目付は天領というスーパー藩の支配者たるスーパー大名である将軍のための監察官、大目付は中央政府の長である将軍のための監察官であったことから、形式的に、前者は若年寄の下に、後者は老中の下に置かれたけれど、それぞれ、事実上、将軍に直結して、必ずしも若年寄、ないしは、老中、の指揮命令に服すことなく(、各大目付や各目付、更には、各徒目付や各小人目付、が)、独立して職務を行う場合もあり、また、大目付と目付の職務には、観察という職務の性格上、事実上、オーバーラップする部分があった、というだけのことでしょう。
 (但し、大目付は、「江戸時代中期になると、従来の監察官としての色彩よりも伝令(幕府の命令を全国の大名に伝える役)や殿中(江戸城中)での儀礼官としての色彩が濃くなり、名誉職・閑職とみなされるようになっていった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%AE%E4%BB%98
ところです。)
 いずれにせよ、種々の監察官達が存在したからといって、それが、監察官(達)と監察官以外の職位に就いている者達、との権力の分有を意味すると言えるかどうかは微妙ではないでしょうか。(太田)

(続く)