太田述正コラム#10562(2019.5.18)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その24)>(2019.8.6公開)

 「<これらに>伴って、非常に精密な相互的監視機能というべきものが幕藩体制の中には作動していました。・・・
 初代英国公使のラザフォード・オルコック<(注22)>は、有名な回想録『大君の都』(1883年)において、・・・次のように書いています。

 (注22)Rutherford Alcock(1809~97年)。「ウェストミンスター病院とウェストミンスター眼科病院で1年間教育を受けた後、1828年までパリに留学し、解剖学、化学、自然史を修め、またフランス語だけでなく、イタリア語も身につけた。勉学の傍ら、彫刻家のアトリエに通い、彫刻の手ほどきを受けている。ロンドンに戻った後、上の2病院で研修医として2年間過ごし、1830年に王立外科学校から外科の開業医としての免許を得た。 」その後、英軍軍医、外務省入省、清で3か所の領事を務め、アロー戦争を引き起こし、初代駐日総領事、そして、初代駐日公使。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF

 幕藩体制においては「どの役職も二重になっている。
 各人がお互いに見張り役であり、見張っている。
 全行政機構が複数制(つまり合議制)であるばかりでなく、完全に是認されたマキアヴェリズムの原則に基づいて、人を牽制し、また反対に牽制されるという制度の最も入念な体制が当地では細かな点についても、精密かつ完全に発達している」と指摘しているのです。
 
⇒この『大君の都』を読み返してみる労は省きますが、オールコックは、月番制と目付制をごっちゃにして書いている印象を受けます。
 いずれにせよ、月番制の方は、既に指摘したことからして、「相互牽制制度」では必ずしもありませんでしたし、目付は監察官であるところ、それに相当する職位は欧米諸国にもあったはずであり、たまたま、幕府が、「幕末期、外国との会談・交渉の際に、目付を同席させた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E4%BB%98 前掲
ことが、オールコックに、このような極めて不正確な認識を抱かせたのでしょうね。(太田)

 これは相互不信の制度化です。
 あたかもジョージ・オーウェルが1949年に刊行した『1984年』という小説に出て来るグロテスクな逆ユートピア体制と非常に共通する面を持っていたともいえるでしょう。
 
⇒『1984年』の舞台における、「物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/1984%E5%B9%B4_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
は、公私監視カメラの普及によって既に現実化していますが、こういうものの先駆形態を江戸時代に求めるのであれば、幕府内の制度よりも先に、五人組
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BA%BA%E7%B5%84_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2)
を持ち出すべきでしょう。(太田)

 将軍ですらも、相互監視の対象であることを免れませんでした。
 将軍の寝所には将軍と寝所を共にする女性以外の第三の女性が入り、そこでの将軍の会話を逐一聴取することが公然の慣習とされていました。・・・
 幕藩体制においては、将軍もまた自由な人格ではなかったのです。

⇒信憑性に疑問符が付く典拠ですが、「将軍と女中は、閨房で2人きりになれ<ない>。御伽坊主と“御添寝役”と呼ばれる別の御中臈も床をのべ<る>。衝立をたて、将軍サイドに御添寝役、御中臈側には御伽坊主がおり、情事に聞き耳をたて、翌朝には御年寄に逐一報告<する>・・・
 しかも、寝所の隣室では障子一枚を隔て御年寄と<もう一人>の御中臈が寝ている。・・・ただし、御台所だけは御伽坊主と御中臈の入室を拒むことができた。」
https://www.news-postseven.com/archives/20101214_8156.html
というのですから、三谷は、「正室を除き」という一文を入れるべきでした。
 そもそも、これは、将軍を「監視の対象」としたとか、将軍が「自由な人格ではなかった」とかが理由では必ずしもなく、「五代将軍綱吉のとき、寵臣の柳沢甲斐守吉保が、自分の意のままになる中﨟をつかって、公方さまと床を一つにされていた最中に100万石の加増をねだらせたという。この一件は未然に防がれ・・・たが「柳沢騒動」と<称されることとなり>、以来、・・・監視中﨟が付くようになった」
http://bungetsu.web.fc2.com/
という経緯に照らせば、将軍というよりは、中臈達、ひいてはその背後の上級幕臣達、の監視の一環であったのですからね。(太田)

(続く)