太田述正コラム#10566(2019.5.20)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その26)>(2019.8.8公開)

 森鴎外・・・の『井澤蘭軒<(注25)>』や『北條霞亭<(注26)>』<(注27)>は、廉塾<(注28)>という山陽道の一宿駅を拠点とする、ささやかな知的共同体が及ぼした全国的なコミュニケーションのネットワークを、飛躍を伴わない徹底した考証学的方法–これは鴎外が敬愛して止まなかった澀江抽齋<(注29)>の学問的方法ですが–によって描写したのです。

 (注25)1777~1829年。「備後福山藩の藩医の子として江戸の本郷に生まれた。儒学・医学・本草学を学んで福山藩に仕えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%B2%A2%E8%98%AD%E8%BB%92
 (注26)1780~1823年。「江戸時代の漢学者。志摩的矢<(まとや)>出身。・・・儒医・・・の長男として誕生したが、家督を弟に譲って各地を遊学し、・・・文化5年(1808年)には的矢に帰郷し、隣国伊勢にある林崎書院で講義をした。文化10年(1813年)に菅茶山の門人となり、その私塾の監督を委任され、やがて茶山の姪敬を娶った。文政2年(1819年)には備後福山藩に招聘され、藩校弘道館で講釈に励んだ。翌年には江戸に移り定住することとなった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%9C%9E%E4%BA%AD
 (注27)「森鴎外最晩年の文業を飾るものは、「渋江抽斎」、「伊沢蘭軒」、「北條霞亭」の、今日史伝三部作と称される作品群である。・・・これらを改めて取り上げ、鴎外の最高傑作と位置づけなおしたのは昭和の碩学夷齋居士こと石川淳である。石川淳は三部作のうち「抽斎」と「霞亭」をより高く評価し、次のように書いている。
―「抽斎」と「霞亭」と・・・この二編を措いて鴎外にはもっと傑作があると思っている人をわたしは信用しない。「雁」などは児戯に類する。「山椒大夫」に至っては俗臭芬々たる駄作である。」
https://japanese.hix05.com/Literature/Ogai/ogai09.siden.html
 「作家の・・・丸谷才一氏は、森鴎外が・・・晩年の五十代に書いた三つの伝記文学─『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』─を高く評価し、特に、最初の二つを「近代日本文学の最高峰」とまで激賞しています。」
https://www.amazon.co.jp/%E6%A3%AE%E9%B4%8E%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%8F%B2%E4%BC%9D%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%90%8D%E4%BD%9C%E2%80%95%E3%80%8C%E6%B8%8B%E6%B1%9F%E6%8A%BD%E6%96%8E%E3%80%8D%E3%80%8C%E4%BC%8A%E6%B2%A2%E8%98%AD%E8%BB%92%E3%80%8D%E4%BB%962%E7%B7%A8-%E9%9F%BF%E6%9E%97%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A3%AE%E9%B4%8E%E5%A4%96-ebook/dp/B00Q3B6202
 (注28)「江戸時代の儒学者・菅茶山によって備後国(現・広島県福山市神辺町)に開かれた私塾。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%89%E5%A1%BE
 (注29)1805~58年。「江戸時代末期の医師・考証家・書誌学者。・・・、弘前藩の侍医・・・の子として江戸の神田に生まれる。儒学・・・<及び、>伊沢蘭軒から・・・医学・・・<を>学び、儒者や医師達との交流を持ち、医学・哲学・芸術分野の作品を著した。<弘前藩主にその支藩たる黒石藩主時代から>仕えて江戸に住む。考証家として当代並ぶ者なしと謳われ、漢・国学の実証的研究に多大な功績を残した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B1%9F%E6%8A%BD%E6%96%8E

 北條霞亭の先任者として、一時期菅茶山<(注30)>の委嘱を受け、廉塾塾頭を務めた頼山陽の『日本外史』その他の著作は、「文芸的公共性」の一つの結実です。

 (注30)1748~1827年。「江戸時代後期の儒学者・漢詩人。・・・農業・菅波久助の長子として生まれる。茶山が生まれ育った神辺は、山陽道の宿場町として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、京都<で>・・・朱子学<、及び、>古医方<等>を学んだ。・・・故郷に帰り、1781年(天明元年)頃、神辺(現在の福山市)に私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした。塾は1796年(寛政8年)には福山藩の郷学として認可され廉塾と名が改められた。茶山は1801年(享和元年)から福山藩の儒官としての知遇を受け、藩校弘道館にも出講した。化政文化期の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E8%8C%B6%E5%B1%B1

 それが幕末の政治的コミュニケーションを促進する媒体の役割を果たしたことはいうまでもありません。

⇒このくだりに関しては、廉塾についてだけ、私にとって初耳だったのですが、廉塾について教わっただけでも、三谷のこの本を読んだ意義はあった、くらいのことは、たまには言っておきましょうか。
 それにしても、蔵書に父譲りの鴎外全集があるので、そろそろ、名前だけはよく知っている鴎外の史伝3部作、いずれ読破しなければいけませんね。
 なお、3部作の主人公達が、皆、医者たる文人達であったからこそ、(同じ境遇の)鴎外はこの3人に関心を寄せたわけですが、最近の日本の医者達は医学や医者の世界に閉じこもっている人ばかりになってきているように見受けられるのは残念です。
 また、菅茶山のケースは、江戸時代において、「門閥」も「封建制」も、学問で世に出ることの妨げではなかったことを示す絵に描いたような事例ですね。(太田)

(続く)