太田述正コラム#10576(2019.5.25)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その31)>(2019.8.13公開)

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[天皇親政を忌避した明治天皇]

 表記が私の見立てなのだが、以下、その理由を説明する。
 明治天皇(1852~1912年)は、中沼了三(注33)、次いで、元田永孚(注34)に師事したが、中沼、元田のどちらも、天皇親政論者だった。

 (注33)中沼了三(1816~96年)
 「・・・隠岐国(島根県隠岐の島)で医師の・・・三男として生まれる。・・・
 山崎闇斎の流れを汲む崎門学派浅見絅斎の学統で・・・儒学を学んだ。天保14年(1843年)、・・・京都で開塾。学習院講師、孝明天皇の侍講となる。門人には西郷従道、桐野利秋、川村純義・・・らがあり、中沼塾は薩摩藩士が多<かった>・・・明治2年(1869年)明治天皇の侍講・・・しかし、維新後に政府の実権を天皇でなく自ら把握しようとした三条実美、徳大寺実則らと対立し、明治3年(1870年)12月に官を辞した。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%BC%E4%BA%86%E4%B8%89
 (注34)元田永孚(1818~91年)「・・・熊本藩士・・・の子・・・横井小楠・・・と知り合いその感化を受け、実学党(小楠中心の藩政改革派)の1人として活動した。・・・
 明治4年(1871年)・・・5月に藩命および大久保利通の推挙によって宮内省へ出仕し明治天皇の侍読となり、以後20年にわたって天皇への進講を行うことになる。・・・
 名実共に天皇を頂点とした政治体制を主張し<続けた。>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%94%B0%E6%B0%B8%E5%AD%9A

 父親の孝明天皇が師事したのも中沼だったから、明治天皇は、父親からも、天皇親政論を吹き込まれたはずだ。 
 なお、中沼については弟子に薩摩藩士が多かったこと、また、元田についてはその経歴、から、前者は島津斉昭コンセンサス信奉者になっていった可能性が大、後者は間違いなく島津斉彬コンセンサス信奉者であった、と思われる。
 だから、中沼は多分、そして元田は間違いなく、明治天皇が、島津斉彬コンセンサス信奉者達の総帥となって同コンセンサスの完遂に向けて日本を積極的に率いていくことを期待していたことだろう。
 ところが、明治天皇には弥生性が欠如していた・・ということは、天皇は、島津斉彬コンセンサス信奉者や横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者たりえなかった・・ように思われる。
 というのも、幼少時から、彼の趣味の中に武術的なものは、15歳から嗜むようになった乗馬以外には全く見られない
https://www.touken-world.jp/tips/9177/
し、そもそも、武術的なものを習わされたこともなさそうだし、いわんや、兵学など齧ったこともなさそうだからだ。
 「1864年8月<の>・・・禁門の変<の時、>宮中に不審者が300人以上侵入するという騒ぎが起こり、パニックの中で・・・一時卒倒した。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
という挿話が、明治天皇・・当時11歳・・の良く言えば優しさ、悪く言えば柔弱さを如実に示している。
 また、40歳を過ぎてからの、下掲の2挿話は、明治天皇の、平和志向の表明、というよりは、武力紛争的なものへの忌避感の率直な表明、と見るべきだろう。↓

 「・・・日清戦争<(1894~95年)>のとき・・・明治天皇は・・・伊勢神宮や孝明天皇陵への勅使派遣を拒否し、宮中三殿での奉告祭にも出席しなかったといわれてい<る>。・・・つまり、明治天皇は「この戦争は不本意なものだから、堂々とご先祖様に報告する気になれない」と思っていたことにな<る>。・・・
 <また、>日露戦争<(1904~05年)>開戦前にも「四方の海 みなはらからと 思う世に など波風の たちさわぐらん」という歌を詠んでい<る>。・・・」
https://bushoojapan.com/tomorrow/2019/01/28/105853/2

 ところが、明治期の日本は、元和偃武からペリー来航までの江戸時代とは一転し、国家首脳に、高度の弥生性が求められるに至ったのであり、明治天皇も、「若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者・元田永孚<ら>・・・の影響を強く受けて、・・・自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
ものの、実質的にも国家首脳であり続けることは、弥生性の欠けている自分には荷が重すぎて不可能だと悟ったのではなかろうか。
 だから、一般に、伊藤博文初代首相の提案とされている、1886年の「機務六条」(注35)だが、私は、明治天皇が、自分の荷を軽くするために、伊藤に頼み込んで、強引に「締結」させた、と見ている次第だ。

 (注35)「1886年(明治19年)、・・・伊藤<初代首相>は「機務六条」を提案し、天皇も多少の条件を付けたのみで内容そのものは受け入れた・・・
 第1条では、太政官時代には(実際の事例は少ないものの)原則として天皇はいつでも閣議に臨御して自由に意見を述べることが出来たが、今後は総理大臣の要請がない限りは閣議には加わらないことになり、総理大臣が閣議の主宰者であることを確認した。
 第2条では、天皇の国政に関する顧問は所管大臣と次官に限定した(元田の存在は例外であったが、専門の教育問題や天皇の個人的な問題以外での発言は事実上封じられることになった)。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E5%8B%99%E5%85%AD%E6%9D%A1

 というのも、仮に、「機務六条」が伊藤の提案に係るものであったとすると、伊藤が「締結」直後に起草を始めた大日本帝国憲法(注36)を、文面上も構成上も、天皇親政を前提としたものにしたのはどうしてか、を説明するのが困難だからだ。

 (注36)「・・・伊藤博文<(1841~1909年)は、>・・・明治15年(1882年)3月・・・明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ<たところ、>・・・<首相当時の>明治20年(1887年)・・・6月から・・・伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎らとともに憲法草案の検討を開始する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
 「大日本帝国憲法・・・は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行され<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95

 伊藤としては、天皇が再考してくれることを期待したのだろう。
 ところが、その期待に反して、明治天皇が憲法施行以降も親政忌避姿勢を堅持したため、伊藤は、憲政の常道(事実上の議会主権)が始まるまでに、というか、始められるまでに、時間はたっぷりあると見込んでいたというのに、緊急避難的に、維新の元勲達の「談合」に基づくところの、政治を行いつつ、不本意ながら、予定を変更、前倒しして可及的速やかに憲政の常道体制への移行を期すこととし、自ら立憲政友会を1900年(明治33年)9月15日に結党し、その初代総裁となり、総裁として数代の内閣を組織して政権を担うこととした、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E5%8F%8B%E4%BC%9A
と、私は見るに至っている。
 当然、それは、その時点における明治天皇の意向にも沿っていたはずだ。↓

 「政党に不信感を持っていた明治天皇は伊藤の政党結党に対して強く反対したが、伊藤は議会の中に天皇と国益を重んじる政党が必要であることを力説して了承を得る(このとき、伊藤を通じて下賜金2万円が政友会に与えられた)。」(上掲)

 引用文の前段の部分は、「機務六条」の時同様の、対世間向けのメーキングであって、天皇が、まだ海のものとも山のものともつかぬ一政党に助成金を下賜した、というところに、天皇の真意が現れている、と見るべきだろう。
 なお、明治天皇の後を継いだ大正天皇は、今度は心身虚弱のために親政ができず、その更に後の昭和天皇は、既に事実上先例化していたところの、明治、大正両天皇の親政「忌避」を踏襲されることとなり、ここに、大日本帝国憲法の下での天皇非親政が完全に定着したわけだ。
 (その更なる根底的な背景について、後述する予定。)
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(続く)