太田述正コラム#10578(2019.5.26)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その32)>(2019.8.14公開)

 明治憲法は表見的な集権主義的構成にもかかわらず、その特質はむしろ分権主義的でした。
 つまり、明治憲法が最終的に権力を統合する制度的な主体を欠いていたということを意味するからです。
 現実の天皇は常時、権力を統合する政治的な役割を担う存在ではもちろんありません。・・・

⇒いや、それはないでしょう。
 囲み記事内で説明したように、明治憲法は、「現実の天皇」が「常時、権力を統合する政治的な役割を担う存在で」「もちろんあ」ることを想定していたのです。
 例えば、どちらも明治憲法と大同小異であったところの、「1871年に制定されたドイツ帝国の憲法・・・<では、>皇帝は<、>宣戦の布告および和平の締結、対外代表、条約及び同盟の締結、大使の授受の諸権利を有す。ただし、防衛戦争を除く宣戦布告は帝国議会・連邦参議院の同意が必要・・・<更に、>帝国宰相の任命権・・・連邦参議院・帝国議会の召集権・・・法令の布告権・・・官吏任免権<、>を有する<。と規定されており>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E6%86%B2%E6%B3%95
また、「1906年・・・に公布された・・・ロシア帝国・・・国家基本法(憲法)・・・では<、>皇帝に最高統治権、法律裁可権、外交指導権、宣戦布告・講和締結権、官僚任免権などが認められており、国会閉会時における非常事態にも皇帝の広範な権力が認められていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%B3%95
ところ、日本帝国の明治、大正、昭和各天皇とは違って、ドイツ帝国の皇帝のヴィルヘルム1世、フリードリヒ3世、そしてとりわけヴィルヘルム2世、及び、ロシア帝国の皇帝のニコライ2世は、まさにそのような役割を担い続け、そのこともあって、ドイツとロシアは、第一次世界大戦において帝政の終焉を迎えることになったわけです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A02%E4%B8%96_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%9A%87%E5%B8%9D)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A42%E4%B8%96 (太田)

 <ですから、>そういう体制の軌範的(ママ)神話と政治的現実とを媒介する何らかの政治的な主体というものが不可欠だったのです。・・・
 まず登場したのが、いわゆる藩閥、憲法制定権力の中核としての藩閥でしした。
 これはいうまでもなく、かつての反幕府勢力を主導した薩長出身者を中心とする藩閥で、これが国家のさまざまな機関をいわば縦断する政治勢力(faction)として憲法を作動させました。
 そして藩閥の代表的なリーダーたちが事実上天皇を代行する元老集団というものを形成しました。
 この元老集団が分権性の強いさまざまな権力主体間の均衡をつくり出す、いわばバランサーの役割を果たしたのです。
 ところが、この藩閥の体制統合機能には非常に大きな弱点がありました。
 藩閥は分権的な体制の一つの分肢であるところの衆議院をどうしても掌握することができなかったのです。・・・
 藩閥はそもそも反政党を標榜し、自ら政党たることを拒否した以上、選挙には勝てず、どうしても衆議院を支配することができないのです。
 衆議院を支配することができなければ、予算も通すことができないし、法律も成立させることができない。・・・

⇒三谷の書いていることは意味不明です。
 ビスマルクは、ドイツ帝国の皇帝三代にわたって宰相を務めたけれど、(本人自身は、議会人としてキャリアをスタートさせたという過去があったにもかかわらず、)超然主義を貫き、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF
ロシア帝国で内務官僚出身で憲法/国会(ドゥーマ)導入後の第3代(実質的に初代)首相(1906~11年)を務めたストルイピン(1862~1911年)も、基本的に超然主義を貫いた、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%94%E3%83%B3
のに対し、囲み記事にも記したように、日本の初代首相の伊藤は、自ら立憲政友会を作り、その総裁になるほど下院掌握に努力し、結党翌月に成立した第4次伊藤内閣の時には陸相、海相、外相以外の閣僚を全て政友会員で占めさせ、伊藤に代わって西園寺公望が立憲政友会総裁の時でしたが、1902年の総選挙前は野党ではあったものの、政友会がその総選挙で衆院の過半数を制し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E5%8F%8B%E4%BC%9A 前掲
これを受けて、(桂太郎からの禅譲という形ではあったものの、)第1次西園寺内閣が成立し、政友会から「2大臣を送り<込み>、・・・つづく第2次桂内閣<の時>にも<引き続き>与党<を続け、その後の>第2次西園寺内閣のもとでは・・・党勢を拡大する。第3次桂内閣に対しては護憲運動を組織して倒閣に追い込み(大正政変)、1913年成立の第1次山本内閣の与党となった。・・・<そして、>原敬が1914年に総裁となる<と>大正デモクラシーの波にのって成長し、1917年第一党に復帰<し>、1918年<の>米騒動後、1918年(大正7年)に原敬が首班となって、日本最初の本格的な政党内閣を組織した。」(上掲)という次第であり、「藩閥は・・・反政党を標榜」するどころか、「自ら政党たること」とし、「選挙に」も「勝」ち、「衆議院を支配すること」も「でき」た、のですからね。(太田)

(続く)