太田述正コラム#10580(2019.5.27)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その33)>(2019.8.15公開)

 それでは、衆議院を支配する政党の方はどうかというと、これも克服し難い弱点を持っていました。
 つまり、明治憲法下では衆議院の多数というのは、それだけでは権力の獲得を保障しなかったからです。

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[「藩閥」について]

 「自由民権運動においては批判の対象とされ、大正デモクラシーでは「打破閥族・擁護憲政」が合言葉とされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E9%96%A5
と、明治・大正期の日本で、罵るためのいわばキャッチコピーとして、「藩閥」、が用いられたことは事実だが、それに見合う実態があったかどうかは疑問。
 自由民権運動を担った人々は、発祥期の愛国公党を結成したところの、後藤象二郎(土佐)、江藤新平(佐賀)、副島種臣(佐賀)、ら、自身も「藩閥」だったし、後の自由党を結成した板垣退助(土佐)も立憲改進党を結成した大隈重信(佐賀)も「藩閥」だったからだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%85%9A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC_1881-1884)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E9%96%A5 前掲
 そもそも、彼ら全員が政府の要職を襲っている。
 後藤象二郎は、大阪府知事、逓信大臣、農商務大臣、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E8%B1%A1%E4%BA%8C%E9%83%8E
江藤新平は司法卿、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
副島種臣は外務卿、外務事務総裁、枢密院副議長、内務大臣、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%AF%E5%B3%B6%E7%A8%AE%E8%87%A3
板垣退助は内務大臣(2回)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9
大隈重信は大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、外務大臣(2回)、内務大臣(2回)、外務大臣、内閣総理大臣(2回)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1
といった具合だ。
 以上を踏まえれば、自由民権運動も、初期における諸政党の結成も、どちらも、「藩閥」内の権力闘争に他ならなかった、ということになりそうだ。
 従って、「藩閥」という言葉は、客観的な、記述用語、分析用語、としては用いない方がよいのではないか。
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 藩閥の体制統合能力には限界があった。
 逆に政党の勢力拡大にも限界があった。
 この現実を藩閥と政党の双方が認識した結果、双方からそれぞれの限界を打破するために相互接近が試みられます。
 これが大体、日清戦争後あたりから始まるのです。

⇒直上の囲み記事を踏まえれば、ここの三谷の記述もまた、意味不明です。(太田)

 この藩閥と政党双方の相互接近の過程で、まず藩閥の組織の希薄化が進みます。
 要するに藩閥の組織の母体は旧藩ですから、これは時の経過とともに消滅していく。
 そして最終的に藩閥はその母体を失って政党化せざるをえなくなります。

⇒ここも同様ですが、それに加えて、三谷が、私の言うところの、島津斉彬コンセンサス信奉者、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者、それ以外、といった、「出身」ならぬ「構想」、というか、「抱懐する世界観・価値観」、の違い、に無頓着であることが、私には大変気になります。(太田)

 憲法の発布にあたって政党からの独立を鮮明にする超然主義の旗幟を掲げた反政党内閣論者の伊藤博文が、衆議院多数派を基礎として、貴衆両院を縦断する政治勢力を組織化するために、1900(明治33)年に立憲政友会の初代総裁となる。
 そしてこれに対立する反政友会勢力もまた、貴族院多数派を拠点として政党化に踏み切り、立憲同志会に始まり、憲政会、そして立憲民政党にいたる第二の政党の系列を発展させていく。
 このようにして貴衆両院が対峙する明治憲法下の議会制の中から、事実として複数政党制が出現したのです。

⇒幕末・維新史に引き続き、日本の憲政史についても、三谷は、(通説であるところの)諸勢力のせめぎ合いによる成行史観に拠っていますが、憲政史に関して言えば、囲み記事の[天皇親政を忌避した明治天皇]で私が指摘したような、伊藤博文の「構想」(抱懐する世界観・価値観)的なもの、を想定すべきでした。(太田)

 これに伴って、藩閥が担ってきた体制統合の役割は漸次政党に移行していきます。
 その意味で政党は藩閥化し、また藩閥は政党化する。
 いいかえれば、政党が幕府的存在化する。
 これが日本における政党制(party system)の成立の意味でした。

⇒三谷も憲政の常道(事実上の議会主権)への移行を議会幕府化と捉えているわけですが、繰り返しますが、誰も、当時、それを、そんなリクツで咎めた人はいなかったわけです。(太田)

(続く)