太田述正コラム#10582(2019.5.28)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その34)>(2019.8.16公開)

 米国憲法の起草者たちも、本来、権力分立制の狙いとして意図したのは、議会多数派による国家支配を阻止するということでした。
 つまり権力分立制は、米国憲法の起草者たちが最も警戒した多数の圧政(the tyranny of the majority)に対する防波堤だったのです。・・・
 しかし、アメリカの場合も日本と同じように、高度に権力分立的な憲法は、それだけでは国家を統治する有効な道具とはなりえませんでした。
 米国の場合にも、大統領制を補佐する何らかの非制度的な主体、憲法に書かれていない非制度的な体制の統合主体というものが必要となったのです。
 米国においてその役割を担ったのは、結局、大統領の選出母体としての二つの全国的政党でした。
 しかも、これら二つの全国的政党は、ともに本来は反政党的な立場をとっていた憲法起草者たち自身、すなわちファウンディング・ファーザーたち自身によってつくられるということになったわけです。・・・
 元来、「反政党的な憲法(Constitution-against-parties)」<であった>・・・アメリカの憲法・・・を救い、それを統治の有効な道具たらしめたものこそ、まさに政党であったという逆説をホーフスタッター<(注37)(コラム#1028、2892、6405、6468、9303)>は1969年の著書の中で指摘しているのです(The Idea of a Party System: The Rise of Legitimate Opposition in the United States, 1780-1840. University of California Press, 1969)。・・・

 (注37)ホフスタッター(Richard Hofstadter。1916~70年)。「ホフスタッターの方法<と>・・・対照<的なもの>としてわかりやすいのは、当時<米国>の進歩的で急進的な歴史解釈として定着しつつあった、政治現象を経済的利害によって動機づけるやり方である。チャールズ・ビアードの『合衆国憲法の経済学的解釈(An Economic Interpretation of the Constitution of the United States, 1913)』に代表されるような、マルクスの唯物史観からドイツ哲学の背景を抜き去った単純な歴史理解にホフスタッターは反対し・・・<米国>史の複雑さを再発見した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC

 先に見たように、この点は日本も全く同じでした。

⇒無茶苦茶言わんといて、三谷さん、と混ぜっ返したくなります。
 米国の憲法と政党との関係は、ホーフスタッターの言う通りかもしれませんが、「この点は日本も全く同じでした」はないでしょう。
 米国では大統領がいくら頑張っても、政党抜きでは「国家を統治する有効な道具とはなりえ」なかったけれど、・・いや、政党ができてからさえ、実は、その状態が続いていて、これまで米国が破綻しなかったのは、体制に対する最大の脅威であるところの、米国本土に対する安全保障上の脅威が(英国以外には存在せず(コラム#省略)、その英国が便益を超える費用がかかる戦争なんぞは20世紀になるまでは基本的に行わなかった特異なお国柄であったことから、)存在しなかったことに加え、(英国の脅威がなくなり、米国が英国に代わって世界覇権国になり、かつ、)核時代になったことで、核保有国である米国の本土が他国の軍隊によって席巻されるような事態は全く考えられなくなった(コラム#省略)からに過ぎないのに対し、・・明治憲法の場合は、明治天皇さえ、同憲法で想定されていた、従って「非制度的」ならぬ「制度的」な「体制の統合主体」としての言動を行ってくれておれば、同憲法は「国家を統治する有効な道具と」「なりえ」ていたはずなのですからね。(太田)

 日本においては、大正の終わりから政党政治が本格的に作動しはじめたものの、満州事変や五・一五事件に象徴される1930年代初頭の相次ぐ内外からの衝撃によって、政党政治はその権威を揺るがされていきます。

⇒三谷さん、あなたも自虐史観なんですねえ、と、思わず嘆息したくなる箇所です。
 私なら、日英同盟の解消とその後の英国の反日化、ロシア(ソ連)の脅威の高まり、容共ファシスト勢力の中国国民党による支那統一への動き、米国発の世界恐慌とそれに伴う諸欧米列強による経済ブロック化、そして、政党の堕落・腐敗、等、を挙げるところですが・・。
 (杉山構想の話をひとまず脇に置いておけば、満州事変も五・一五事件も、これらの「内外からの衝撃」に対する日本サイドからのささやかな反作用であるところの2事例でしかありません。)(太田)

 政治学者の中にも「デモクラシーの危機」が叫ばれるようになります。
 そして「デモクラシー」の代替イデオロギーとして一種の「立憲主義」・・・<である、>「デモクラシー」なき「立憲主義」・・・が浮上していくのです。
 その主唱者は、当時の尖端的な政治学者であり、行政学者であった蝋山政道<(注38)>でした。

 (注38)1895~1980年。一高、東大法(政治)。東大法助手、助教授、教授(行政学)。1939年に平賀粛学の際に抗議の辞任。戦後、「民社党結成と同時に発足した同党の政策を理論的に補完する民主社会主義研究会議の議長に就任し、理論的イデオローグとして特に日米安保肯定論で民社党の外交・防衛政策を理論づけた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%8B%E5%B1%B1%E6%94%BF%E9%81%93

(続く)