太田述正コラム#10602(2019.6.7)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その43)>(2019.8.26公開)

 さらに注目すべきことは、政府主導の資本主義化を推進するための財政的基礎の確立です。・・・
 明治政府は徹底してこれを租税(特に地租)に求め、外資の導入には極めて消極的でした。
 確かに1870(明治3)年と1873(明治6)年とに、それぞれ100万ポンドおよび240万ポンドを英国から外国債として調達してはいます。
 前者は鉄道建設、後者は秩禄処分<(注46)>を目的とするものでした。

 (注46)「秩禄処分は、かつての華士族の特権であった禄を強制的に取り上げ、期限付きでわずかな利子しか受け取れない公債に替える急進的な改革であった<が、>・・・支配層がほぼ無抵抗のまま既得権を失ったという点で、世界史的にも稀な例とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%A6%84%E5%87%A6%E5%88%86

⇒投資支出である鉄道建設とは違う、こんなもののための外国債を、英国の投資家達が、よく買ってくれたものです。(太田)

 しかしこれら以外には、1899(明治32)年までの26年間、外国債は一切募集されたことはありません。

——————————————————————————-
[明治政府の最初の外国債?]

「明治政府の外国からの最初の借入れは、旧幕府の借入金の担保を解除するために行われた。鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍が、1868年5月に旧幕府の横須賀製鉄所(造船所)の接収に臨んだところ、製鉄所は担保にとられており、旧幕府の未払いを理由に担保が没収されようとした。68年3月(慶應4年2月)に徳川幕府がフランスのソシエテ・ジェネラルから横浜と横須賀の製鉄所を担保に、期間7ヵ月、金利10%の条件で、洋銀50万ドルを借り入れていたからである。
 そこで、成立直後の明治政府は1868年9月12日に、ソシエテ・ジェネラルへの償還資金である洋銀50万ドル(洋銀1ドル=4シリング3ペンス)をイギリスのオリエンタルバンク(Oriental Bank Corporation)の横浜支店長ロバートソンから融資を受けて、担保を解除し没収を免れた・・・。融資の条件は、償還は2年据置き、1870年10月以降71年7月まで毎月5万ドルを返済、金利は残高に対して年15%、担保は横浜港の関税収入であった。」
https://books.google.co.jp/books?id=_Q1gBwAAQBAJ&pg=PA207&lpg=PA207&dq=%E5%B9%95%E5%BA%9C%EF%BC%9B%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%EF%BC%9B%E5%A4%96%E5%82%B5&source=bl&ots=jrlQojIjRr&sig=ACfU3U2fz0wqtBSoTMA3bSPamNeRKbXRHw&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwif-dKA7c_iAhW1y4sBHboVCBIQ6AEwBnoECAcQAQ#v=onepage&q=%E5%B9%95%E5%BA%9C%EF%BC%9B%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%EF%BC%9B%E5%A4%96%E5%82%B5&f=false
 前掲

 日本国内での借款とはいえ、相手は外国人(外国会社?)だし、ドル建てなのだから、明治政府の最初の外国債は、これではないのか。
 ちなみに、横須賀製鉄所が担保にとられていたのは、「<18>64年<に>幕府<が>横須賀製鉄所建設のためフランスから240万ドル借款し<てい>た」
file:///C:/Users/Nobumasa%20Ohta/AppData/Local/Packages/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bbwe/TempState/Downloads/kogyogijutsu33_014-019_OCR%20(3).pdf
ためだ。
 それにしても、1864年時点で、既に「世界通貨」がポンドではなくドルになっていたらしいことにはちょっと驚く。
——————————————————————————-

 このことは、明治日本の経済建設、特に大久保が率先し、松方が継承した初期資本主義化の大きな特徴です。
 その理由は、もちろん一つは不平等条約に由来する対外信用の低さのゆえに、外国債が利率、手取り額、担保について不利な条件を強いられ、事実上その募集の道を閉ざされたからです。

⇒少し前では、「関税自主権の欠如」を理由に挙げていた三谷ですが、いつの間にか、それが、治外法権を含む不平等条約全体へとすり替わっています。
 しかも、二つも外国債募集の事例が挙げられていることが示しているように、明治維新直後の日本が「事実上<外国債>の募集の道を閉ざされ<てい>た」わけではないことが明らかであるところ、一体、三谷の頭の中はどうなっているのでしょうかね。(太田)
 
 しかし同時に、明治政府が外国債の固定化による外国の経済支配を強く警戒し、それが政治支配にまで及ぶ可能性を排除しようとしたからでもあるのです。

⇒結局、このことに尽きるのでしょうね。(太田)

 <振り返ってみれば、>幕末に幕府はフランスからの外債によって権力を対内的に強化し、長州藩をはじめ各藩の廃絶によって福沢諭吉のいう「大君之(の)モナルキ」を実現しようとしました。<(注47)>

 (注47)三谷自身が別著で指摘しているところによれば、「福沢諭吉は、幕末期には長州再征のために幕府に対してフランスから借款するよう求め、その後は外債発行について、『文明論之概略』(明治7年)では消極論を展開し、明治10年代には再び積極論に転じたという。」(上掲)

⇒勘ぐれば、福澤は、薩摩藩が幕府に送り込んだスパイとして、幕府に外国からの借款を勧めて薩摩藩に幕府批判の材料を与え、維新後は、薩摩藩系の政府要人達の意向を踏まえて借款消極論を唱えた、という可能性があります。
 では、再び積極論に転じたのは? さあて。(太田)

 薩長諸藩はこれに反発したのです。
 幕府内部にも政治的安定の見地から幕藩連合を支持し、幕府権力の絶対主義化に反対する勝海舟に代表されるような意見もありました。
 外債反対論は反幕府勢力結集の促進要因となったといえます。
 それは形を変えた「尊王攘夷」論とさえ見ることができるのではないでしょうか。・・・

(続く)