太田述正コラム#10610(2019.6.11)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その47)>(2019.8.30公開)

 自立的資本主義を志向する明治日本の経済的ナショナリズムと平和とが不可分であることは、国家の頂点に立つ明治天皇の確信でした。

⇒「自立的資本主義」は「資本主義」でなければならないわけですし、そんな「明治天皇の確信」があったとも思いませんが、先に行きましょう。(太田)

 このような明治天皇の確信の形成に大きな影響を与えたのは、1879(明治12)年に来日」した米国第18代大統領ユリシーズ・グラント(いわゆるグラント将軍<(前大統領)>)が天皇に対して行った直接の忠告です。・・・

⇒後に続く三谷の説明を読むまでもなく、彼が、グラントを単なる米大統領OBではない偉人である、と見ているとしか思えない点に違和感を覚える箇所です。
 米陸軍士官学校卒なのですから、卒業後、彼が文字通りの侵略戦争であった米墨戦争に従軍したことまでは問題にしないとして、かつまた、彼が「大統領在任中の・・・多くのスキャンダルおよび汚職により、歴史家から<米国>最悪の大統領のうちの一人と考えられている」ことにも目を瞑ることにしたとしても、 民間人になって久しい時点で勃発した南北戦争において、自身が募った大勢の志願兵達を引き連れて北軍に加わり、その後、北軍総司令官にまで上り詰めた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88
、ということは、彼は、(奴隷解放に藉口して)南部の平和的な連邦離脱を武力で阻止しただけの戦争(コラム#省略)に積極的に加担したのであって、グラントは、到底平和主義者であるとは言えないからです。
 しかも、その後、大統領時代を含め、「熱心な保留地政策の支持者<として>・・・、武力を背景<として、>・・・保留地囲い込みに従わない・・・インディアン・・・部族は絶滅させるとの姿勢<を堅持し続け、>「西部インディアン部族の最大反抗勢力であるスー族に対し、雪深い真冬に保留地への全部族員移動を命じて反感を増大させ、戦乱のきっかけを作った」(上掲)という、その反平和的にして人種主義的な事績からしても、グラントが「有色人種」たる明治天皇に忠告する資格などない人物であることは明白であるというのに・・。(太田)

 グラントは・・・日清間の戦争を想定し、そのような事態が両国の戦費調達のための外債発行を通じてヨーロッパ諸国の両国に対する内政干渉を誘発する危険を強調し<ました。(注50)>・・・

 (注50)「明治天皇はグラント夫妻の訪日を歓迎し、浜離宮を夫妻の宿舎として提供・・・。天皇とグラント将軍の会見は、天皇は自らが浜離宮を訪問するという前例のない形で行われ、2時間にも及んだ」
https://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150th/html/grant.htm

⇒「2時間にも及んだ」と書いてあるけれど、最初と最後には儀礼的ないし世間話的なやり取りがあったでしょうし、そもそも、通訳を介して行われたはずである以上、実質は30分強といったところでしょうね。(太田)

 こうしたグラントの外債に対する不信感は、・・・南北戦争<の時、>・・・英国が南軍を支持し、北軍側は戦費を外債によって調達することができず、内国債に依らざるをえ<なかったという>・・・体験に由来していると思われます。・・・

⇒これは理屈になっていません。
 南軍側だって外債による戦費の調達ができなかった
https://en.wikipedia.org/wiki/United_Kingdom_and_the_American_Civil_War
https://en.wikipedia.org/wiki/France_and_the_American_Civil_War
点では、北軍側と同じだったのですからね。(太田)

 以後グラントの忠告は、明治天皇の政治的信条となりました。
 <だから、>後年明治天皇が日清開戦に消極的であり、また日清戦争後の財政の方針として外債への非依存を貫くよう侍従長を通じて当時の松方蔵相に指示を与えたの<です。>

⇒「6年後の1885年、グラント氏は病に倒れた。その知らせは聞いた明治天皇は直ちに駐米大使を見舞いに遣わした。その年、グラント氏は他界する。駐米大使はその間、明治天皇の命を受け4回もお見舞いに行っている。」
http://news.livedoor.com/article/detail/14148496/
というのですから、明治天皇がグラントとウマが合ったことは事実なのでしょうが、だからといって、三谷のように、具体的な根拠を提示せずして「グラントの忠告は、明治天皇の政治的信条とな<った>」、と言い切るのはいかがなものかと思います。(太田)

(続く)