太田述正コラム#10656(2019.7.4)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その67)>(2019.9.22公開)

 朝鮮における三・一独立運動以後、植民地統治体制の改革の基本的方向として打ち出されたのが文化的「同化」、特に教育に重点を置いた文化的「同化」政策でした。

⇒朝鮮における旧植民地統治体制が、いわゆる「武断政治」であって、それが、「総督は天皇に直属し,陸海軍大将があてられ,政務統轄と並んで陸海軍を統率した。また憲兵司令官が警務総監を兼ね,憲兵,警察官を指揮した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B7%8F%E7%9D%A3%E5%BA%9C-98027
であることを(前半については、改めて)書いてくれないと、話について行きづらくなってしまいます。
 なお、これも三谷は書いてくれていませんが、その背景を、帝国陸軍が、「鉄道、金融、そして統治機構を通した「鮮満一体化構想」・・・を追求し<てきてい>た」から、
http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/04-0j_moriyama_j.pdf
とする見方は説得力がありますね。(太田)

 そして、これを裏打ちしようとしたのが、植民地統治<、とりわけ朝鮮統治、>における文官のイニシアティヴの確保でした。・・・

⇒原個人に焦点を当てるのではなく、少なくとも、「三・一独立運動に衝撃を受けた大日本帝国政府は武力だけで朝鮮支配は不可能と判断し、また、大正デモクラシー期における政党内閣の登場や、武断政治批判の日本内地世論にも配慮し、武断政治を一部変更した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B7%8F%E7%9D%A3%E5%BA%9C
といった、書き方を三谷にはして欲しかったところです。
 私なら、「シベリア出兵に端を発した米騒動への対応を誤った寺内内閣が内閣総辞職に追い込まれ」た後を襲って、この日本国内の軍縮志向ムードの中で、1918年9月に後継首相となった原としては、「1921年<の>・・・ワシントン海軍軍縮会議出席のために・・・海軍大臣が・・・外遊するにあたって・・・海軍大臣の代行をする」という空前絶後のスタンドプレイを行って国内世論にアピールするとともに、「対華21ヶ条要求などで悪化していた中華民国との関係改善」を図る
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
ためにも、また、直接的には、「1918年1月・・・<に米>大統領ウィルソンによ<る>”十四か条の平和原則”<の>発表・・・を受け<て>、民族自決の意識が高ま<って、>・・・朝鮮人<達が、>・・・1919年3月<に起こした>・・・三・一独立運動」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E9%81%8B%E5%8B%95
のような動きに「対処」するためにも、朝鮮統治の軍事色を薄めようとした、と書くところです。
 実は、原は、その一方で、「軍事費にも多額の予算を配分し、大正9年(1921年)予算<を>同6年(1917年度)予算の2倍を超える15億8,000万円にまで膨れ上が<らせていた>」のですから、原は島津斉彬コンセンサス信奉者であって、これら全ては、メンターの山縣有朋と示し合わせて行ったものだ、と、私は見るに至っています。
 そう見ないと、「山縣有朋<が>原の<暗殺>死に衝撃を受けたあまり発熱し、夢で原暗殺の現場を見るほどであ<り、>その後「原という男は実に偉い男であった。ああいう人間をむざむざ殺されては日本はたまったものではない」と<まで>嘆い<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC 前掲
ことの説明がつかない、というものです。
 以下の三谷の原に係る記述も、そういう視点で皆さんが読めば、より、腑に落ちるはずだ、と私は思っています。(太田)

 原は政治的狡知を駆使し、それを具体的には山県有朋の養嗣子で朝鮮総督府の文官の最上位である政務総監を務めていた山県伊三郎<(注75)>の起用によって果たそうとしますが、さすがに山県有朋はそれを容れず、寺内前首相も同意しませんでした。

 (注75)1858~1927年。山縣有朋の[萩藩士に嫁いだ]姉の・・・次男。「[文久元年(1861)、山県有朋の養嗣子となる。明治4年(1871)岩倉遣外使節に随行してドイツに留学。帰国後、外務省翻訳見習を経て、ベルリン公使館在勤。16年太政官に入り、・・・]内務官僚として徳島・三重県知事、地方局長、内務次官などを歴任した。1906年に第1次西園寺内閣で逓信大臣として入閣。・・・1910年には韓国副統監となり、韓国併合後は朝鮮総督府政務総監とな<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E4%BC%8A%E4%B8%89%E9%83%8E
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/492.html ([]内)

 そこで原は不本意ながら田中陸相の勧告に従い、いわば妥協的な措置として、旧来の総督の任用資格(現役の陸海軍大将)を撤廃し、文官総督を可能にする制度改正を行う一方で、実際には明治末から大正初頭にかけて原の内相時代に同じ内閣(第一次・第二次西園寺内閣および第一次山本内閣)の海相を務めた海軍の長老であり、海軍予備役大将であった斎藤實を特に現役に復し、総督に任用したのでした。・・・

(続く)