太田述正コラム#10658(2019.7.5)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その68)>(2019.9.23公開)

 <結局、>朝鮮・台湾領総督の地位の格差<は>維持され・・・<台湾総督と違って>朝鮮総督が内閣総理大臣ではなく、天皇に「直隷」するという位置づけ<が>堅持さ<れつつ、>・・・総督は・・・内閣総理大臣を経て上奏を為し裁可を受く<こととされましたが、>・・・<劣後する>台湾総督<の方は、>・・・原は文官起用に踏み切り、山県系の・・・田健治郎<(注76)>を・・・充てました。・・・

 (注76)1855~1930年。現在の兵庫県丹波市の豪農の子で無学。「後藤象二郎に見いだされ中央官界への道をつかみ・・・<その後、>衆議院議員・貴族院議員(勅選)・逓信大臣・農商務大臣・<1919年10月>台湾総督・枢密顧問官等を歴任。・・・田英夫(参議院議員)は孫。・・・平田東助・清浦奎吾・大浦兼武らと共に元老・山縣有朋系の官僚政治家として活動・・・原敬と山縣有朋の仲介役」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%81%A5%E6%B2%BB%E9%83%8E

⇒「山縣側近の中で、陸軍の側近が桂太郎・児玉源太郎・寺内正毅らとすれば、平田・・・らと並ぶ官僚系の山縣側近として人脈を形成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E6%9D%B1%E5%8A%A9
ということになっていますが、官僚系の山縣側近の中に原も含めるべきだ、ということです。
 当然のことながら、彼等全員が、私の言う、島津斉彬コンセンサス信奉者でずっとあった、ないしは、信奉者になっていた、と私は見ています。
 (平田こそ、米沢藩の藩医の子で、島津斉彬コンセンサスとの接点は、福澤諭吉の慶應義塾で学んだことくらいしかなく、その後は、長州藩出身者とのご縁が深く、その関係で山縣との接点ができた、という人物ですが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E6%9D%B1%E5%8A%A9
田は、「注76」に出てきたように、土佐藩士出身で、だからこそ、島津斉彬コンセンサス信奉者であったと見られる(同藩士出身の)後藤象二郎によって世に出ることができたわけですし、清浦は、そもそも、肥後藩の寺の子であり、咸宜園に学んだ時に日田県令を勤めていた、どちらも薩摩藩士出身の、松方正義と野村盛秀、の知遇を得ていますし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B5%A6%E5%A5%8E%E5%90%BE
大浦は、そもそも、薩摩藩主の島津家の分家である宮之城島津家の家臣として生まれています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B5%A6%E5%85%BC%E6%AD%A6
から、いずれも、山縣との接点ができるより前から既に島津斉彬コンセンサス信奉者であったと思われます。)
 山縣は、原を使って、政友会を、陸軍と並ぶ、島津斉彬コンセンサスの推進母体へと作り変えることを目指した、と私は見るに至っていますが、1921年11月の原の暗殺によって、その夢が絶たれたわけであり、「山県の権威を損なうことになった宮中某重大事件に加えて<、この>原<の>暗殺」のショックにより、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
翌1922年2月に、彼は、83歳で逝去するのです。(太田)

 以後、朝鮮では遂に一度も文官総督が出現しなかったのとは対照的に、台湾総督には9代にわたって文官が任命されます。
 二・二六事件後に広田弘毅内閣が南方進出を打ち出した「国策の基準」<(注77)>に沿って、1936年9月、小林躋造<(注78)>海軍大将が就任するまでの17年間、文官総督が続いたのです。

 (注77)「東亜新秩序構想の萌芽は,〈帝国指導の下に日満支三国の提携共助〉の実現を決めた1933年10月21日の斎藤実内閣の閣議決定にあった。それは満州事変勃発前後の〈日満ブロック〉構想を一歩進め,〈日満支ブロック〉の実現を国策として決定したものであり,36年8月7日の広田弘毅内閣下の5相会議決定〈国策の基準〉に受け継がれた。<そして、>・・・日中戦争<が>・・・37年7月7日に勃発した」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E7%AD%96%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%BA%96-1316909
 (注78)1877~1962年。せいぞう。広島藩士の子。海兵、海大。「海軍次官、連合艦隊司令長官、・・・1936年(昭和11年)3月30日に海軍を追われ予備役に編入されるが、半年後<の9月2日>に台湾総督に親補される。・・・翼賛政治会総裁、小磯内閣の国務大臣などを歴任・・・
 小林は4年半の<台湾総督>任期中に南進基地化と台湾の「皇民化」政策を推進した。南進策が固まり現役将官が総督となるのは、後任の<海軍の>長谷川清からである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E8%BA%8B%E9%80%A0

⇒「二・二六事件後、小林の命運が大きく変わった。陸軍はこのクーデターで多数の将官を免職させたが、陸海軍のバランスを取るために、海軍からも3名の大将を予備役に編入することになった。犠牲になったのは山本英輔・中村良三・小林である。陸軍皇道派を積極的に支持していた山本と、第四艦隊事件の責任を取って艦政本部長を降りた中村には各々に思い当たる節があったが、次官就任以後は全く落ち度がない小林の更迭は意外なものとして受け入れられた。」(上掲)というのですから、これは、当時、陸軍参謀次長だった杉山元が、翌年の陸相時に毛沢東と示し合わせて日支戦争を起こし、更に将来は、対英(マライ等)対米(フィリピン等)開戦・・海軍の全面的協力が不可欠・・を起こす含みで、有能なロボットの廣田首相に「国策の基準」を決定させた上で、台湾を日支戦争等の準備拠点とすべく、(海軍に圧力をかけて、無理やり、)あらかじめ予備役に編入させられていた小林を、予備役のまま、これまた廣田に、台湾総督に任命させた、ということでしょうね。(太田)

(続く)