太田述正コラム#10684(2019.7.18)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その79)>(2019.10.6公開)

 1970年代にはいると、それまで米国のアジアにおける「地域主義」構想を成り立たせてきた条件が急速に変化していきます。
 第一はアジアにおける冷戦(とくに米中冷戦)の終焉です。
 1971年の中国の国連代表権獲得、1972年のニクソン訪中とその後の紆余曲折を経て1979年初頭に実現した米中国交正常化、さらにその間におけるヴェトナム戦争終結がそれへの画期となったことはいうまでもありません。
 これによって、従来の日本を中心とするアジア地域主義は、少なくとも冷戦戦略としては意味を失っていきます。

⇒「共産主義、とくに中国共産主義の進出を抑止しうるアジア独特の国際秩序」と書いた三谷の魂胆が分かりました。
 これを言いたかったからだったのですね。
 世界覇権国時代の英国が、全球的には、ロシアを最大の潜在敵国とみなし続けたところ、英国を継いで世界覇権国となった米国が、日本によって、全球的に、かつての英国同様にロシアを最大の潜在敵国と見る「正常」な状態へと覚醒させられ、米ソ冷戦を始めさせられるわけですが、かつて英国が自らの相対的衰亡を自覚し、東アジアにおける対露抑止を日本に下請けに出した顰に倣い、今度は、やはり自らの相対的衰亡を自覚した米国(注89)が、東アジアで、(もともと、米国が事実上支那における政権を奪取をさせた・・これも日本がそう仕組んでわけですが・・ところの、)中共にかつての日本と同じ役割を演じさせようとした、という史実に対し、三谷が、我田引水的脚色を施しているわけです。

 (注89)1969年11月3日の一般教書演説で打ち出された、ニクソン米大統領のニクソン・ドクトリンは、「最初に、<米>国はそのコミットメントをすべて維持する。次に、核保有国が我々との同盟国の自由、あるいは我々の安全保障に不可欠であるその同盟国の存続を脅かす場合、我々は防衛力を行使する。第3に、他のタイプの攻撃を含む場合、条約に従って軍事力と経済援助を要求された時、我々はそれを供給する。しかし、国家の防衛は当事国が第一義的責任を負うべきである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3
は、米国の相対的衰亡の率直な表明だった。

 つまり、米ソ冷戦が続いていたからこそ、米国は対中政策を変更せざるを得なくなった、というのに、世界だろうがアジアだろうが、三谷が、まるでこの頃米ソ冷戦が終焉したかのように読者を誤解させる書き方をしてはいけないのです。
 もとより、この時代は、「冷戦体制下の1960年代末から1970年代末にいたる米ソの政治対話が行われるようになった、いわゆる米ソデタント」の時代ではあったところ、それには様々な背景があった(注90)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E3%82%BD%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88 (α)
わけですが、とにもかくにも、それは、あくまで「冷戦体制下」の「米ソデタント」以上でも以下でもなかったのですからね。

 (注90)「ソ連主導でデタントを進めることになった背景には、ソ連をはじめとする東側諸国の農業政策の失敗、非効率な食糧流通(年間3,000万トンの小麦が流通過程で失われていた)により、食糧自給が不可能になり、<米国>との良好な関係を維持する必要に迫られたことが大きい。・・・また<米国>でも、・・・ケネディ政権によりはじめられ、その後泥沼化の一途をたどったベトナム戦争により膨らんだ軍事出費の増加を抑える必要があったことと、1969年に就任したニクソン大統領がベトナム戦争からの早期撤退を公約としており、その実現のためには北ベトナム政権を支援していたソ連との関係改善が必要だったという背景があった。・・・<なお、>1979年のソ連のアフガニスタン侵攻により、デタントは崩壊する。」(α)

 ですから、仮に三谷が主張するように戦後も米国主導下で「従来の日本を中心とするアジア地域主義」が続いていたのだとすれば、それは、三谷の指摘に反し、デタント以降においても米国の対ソ「冷戦戦略として」、引き続き「意味」を持ち続けたはずだ、ということになるはずです。
 そして、実際、デタント以降において、戦後の米国の対ソ戦略、そして、その対ソ戦略における日本の役割、に何の変化もなかったことを、防衛庁務めをしていた私は、知っています。
 で、この先、「第二は」、そして、「第三は」、と続くのですが、どちらも、三谷によるところの、一層バカバカしい諸主張なので、引用、コメント、することなく、その先へと進みたいと思います。(太田)

(続く)