太田述正コラム#10690(2019.7.21)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その82)>(2019.10.9公開)

 19世紀後半の世界においては産業上の先進国が後進国の将来のイメージを示しているという命題は、当時の日本にとって自明でした。

⇒果たして「自明」だったでしょうか?↓
 「平安前期は、支配者層の教養として漢文学と<支那>思想を重視する文章経国(もんじょうけいこく)が盛んであったことから、<支那>の学問知識を「漢才(からざえ)」と呼んで尊重していながらも、実生活上の知識や行動・人柄などを「やまとだましひ」といって日本固有の文化大切にした。幕末になると欧米の学問が入ってきて和魂漢才から和魂洋才に変化していく。海外の情報を持っていた層は、いち早く西洋の科学を取り組むことを目的とした。佐久間象山は「東洋道徳、西洋芸術」とのべ、和魂洋才のあり方を示した。・・・日本が西洋列強に比べて軍事には圧倒的に劣っていることを認め、・・・東洋の伝統的精神のうえに西洋文化<の>知識・技術・科学<を>積極的に摂取し、国や国民を豊かにすることを説いた。」
https://hitopedia.net/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E8%B1%A1%E5%B1%B1/
は常識的な記述だと思いますが、私見では、横井小楠も島津斉彬も、「和魂洋才」を当然の前提として、「西洋文化<の>知識・技術・科学<を>積極的に摂取し、国や国民を豊かにする」ことによる「軍事」力の整備、すなわち、富国強兵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%9B%BD%E5%BC%B7%E5%85%B5
を図ったのです。(太田)

 日本は、当時の世界の中心であったヨーロッパ先進国、とりわけ英国でつくられた後進国の将来像に従って、近代の歴史形成に着手したのです。

⇒「後進国の将来像」と言われても、ミスプリかもしれないけれど、訳が分かりませんが、百歩譲って「先進国像」ということであれば、欧州諸国が、英国でつくられたそれ「に従って、近代の歴史形成に着手した」ことは確かですが、日本もまた、欧州諸国のかかる営みを参考にはしたでしょうが、すぐ上で述べたことから推察できるように、それは、欧州諸国と違って、英国化それ自体を追求したわけではありませんでした。(太田)

 そのモデルがヨーロッパ先進国でした。
 しかし当時の日本にとって、将来の到達すべき目標は自明でしたが、それに到達する過程や方法は不明であり、未知でした。
 ヨーロッパというモデルはあったものの、ヨーロッパ化のモデルはなかったのです。

⇒三谷は、「ヨーロッパ」を連発していますが、薩摩藩が最初に留学生・・視察員4名を含む19名・・を送った先は、広義の(すなわち地理的意味での)「ヨーロッパ」ではあっても、狭義の(すなわち文明的意味での)「ヨーロッパ」ではない、英国でした
http://ssmuseum.jp/contents/history/
し、長州藩が最初に留学生・・5人・・を送った先も、やはり、英国でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E4%BA%94%E5%82%91 
 つまり、薩長にとって、モデルとすべき最先進国が、当時の世界覇権国でもあった英国であることは自明だったのであり、当然のことながら、薩長出身者達が中心となった明治新政府の指導者達も同じ認識を抱いていたはずです。
 150年を超えた昔の日本の識者達には自明であったところの、英国と欧州の決定的な違いすら、三谷を含む現在の日本の識者達は分からなくなっているようです。
 まことに遺憾ながら、日本における識者の恐るべき退化が見られる、と言わなければなりますまい。
 ちなみに、幕府は、最初に、まず留学生を米国に送ろうとして南北戦争中ということで断られ、結局、オランダに・・職人7名を含む16名・・を送っています。
https://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_6.html
 一応、広義のアングロサクソン文明に属するところの、米国を選んだのは、セカンドベストでしたが、断られた時点で、当然、英国に送らなければならないところをオランダに送ってしまった、という一点だけでも、幕府に、日本の新しい時代を引き続き担いうる見識が欠如していたことが分かろうというものです。(太田)

 もし日本の近代に何らかの歴史的独創性を認めるとすれば、少なくとも東アジアにおいては、それが前例のないヨーロッパ化の実験であったことにあるというべきでしょう。・・・
 日本のヨーロッパ化の先導者たちは、歴史的実態としてのヨーロッパを導入可能な諸機能の体系(システム)とみなしました。
 そして制度や技術や機械その他の商品を通して、19世紀後半のヨーロッパ先進国が備えていた個々の機能を導入し、それを日本において作動させることによって日本のヨーロッパ化を図ろうとしたのです。

(続く)