太田述正コラム#10692(2019.7.22)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その83)>(2019.10.10公開)

 ところが、このような機能的ヨーロッパ化を図るには、何よりも日本自身が機能の体系として再組織されなければなりませんでした。
 
⇒幕末の日本は「機能の体系」ではなかったと三谷は言っているわけですが、ではいかなる体系だったのか、説明してくれないのですから、何をかいわんやです。(太田)

 そしてその前提として、機能的ヨーロッパ化を推進する国民的主体に対して機能主義的思考様式の確立が要請されました。
 福沢諭吉が『文明論之概略』において「物の貴きに非ず、其働きの貴きなり」と説いたのは、まさに機能主義的思考様式の重要性を強調したものでした。・・・

⇒「物の貴きに非ず、其働きの貴きなり」という「引用」に書名しか典拠が付いていないところを見ると、これも丸山の本からの孫引きだと思われます。(太田)
 
 田口卯吉<(注96)>(うきち)<も、>・・・自己実現を追求するというよりも、自己を機能化し、役割化して生きることを選んだように思います。

 (注96)1855~1905年。幕臣の子。昌平坂学問所、沼津兵学校、中根淑の官学塾、医学修行、大蔵省翻訳局で学び、「<英>『エコノミスト』誌を範とした『東京経済雑誌』を創刊し、自由主義の立場での論陣を張<り、>」政治家、実業家としても活躍。「明治32年(1899年)には法学博士となる。・・・<彼の>『日本開化小史』<は有名。>・・・晩年『国史大系』、『群書類従』の編纂に道筋をつけた。ほとんど独力で行われたこれらの編纂・出版事業を評して鳥谷部春汀は「利益のみを目的としては決して企てることができない、文壇への慈善事業である」と賞賛している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%8D%AF%E5%90%89

⇒私は、「注96」等を踏まえ、三谷の主張とは反対に、田口は、「自己を機能化し、役割化して生きることを選んだ」というよりは、「自己実現を追求」し続けた人物だったようにしか見えないのですが・・。(太田)

 福沢、田口によって示されたような明治期の機能的合理主義を大正期において継承したのがジャーナリスト長谷川如是閑<(注97)>でした。

 (注97)1875~1969年。東京の幕府御用達棟梁の家系に生まれ、様々な教育機関で学ぶ。文学者、ジャーナリストとして活躍。「大正デモクラシー期の代表的論客の一人。・・・<また、>他者に先駆けてファシズム批判をおこなった・・・<更に、>如是閑は、日本を「職人の国」としての国柄を持っているとし、空理空論と離れた「実践」の気風を重視する文化風土のなかにあることを指摘した。すなわち、自らの「職分」に真剣に向き合って「佳き仕事」を誠実に実践しようとする人々に対しては、大抵の場合、惜しみない尊敬があたえられるのが日本である。如是閑は、このようなあり方が日本では多くの領域におよび、工芸や芸能、商売や料理等に至るまで不変の姿勢であることに着目し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%A6%82%E6%98%AF%E9%96%91

 長谷川は、自らが育った江戸時代以来の職人の伝統の中に、日本の近代化を推進する機能主義的思考様式の原型を見出したのです。・・・

⇒「注97」から分かるように、長谷川は、日本の工商に匠的な伝統があることに注目したわけですが、これは、士農に同様の伝統があったことを否定するものでは全くありません。
 三谷は、匠的なものを「機能主義的思考様式」と見ているらしいところ、長谷川の指摘を引用している以上、日本にも「機能主義的思考様式」の「伝統」があったことを、三谷自身が認めてしまっている格好ですが、そんな「伝統」はないからこそ「確立が要請」されたのではなかったのでしたっけ?
 ここでも、三谷は、自分が何を書いているのか、果たして分かっているのでしょうかねえ。(太田)

 田中王堂<(注98)>・・・は福沢の機能主義的相対主義的哲学を高く評価し、その名著『福沢諭吉』は後年の丸山眞男の著名な論文「福沢諭吉の哲学」にも強い影響を与えましたが、同様の影響は・・・石橋湛山<(注99)(コラム#1416、1633、2359、2634、2930、3809、4195、4514、8390、8406、8908、9348、9350、9737)>・・・にも及んでいます。

 (注98)1868~12932年。「東京同人社、東京英和学校(前・青山学院)、東京専門学校(前・早稲田大学)、京都同志社などに学ぶ。・・・ケンタッキー大学を経てシカゴ大学卒、同大学院卒。」<帰国後、>早大等で教鞭をとる(哲学)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%8E%8B%E5%A0%82
 (注99)1884~1973年。日蓮宗僧侶の長男。早大卒。「湛山は大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として、いち早く「民主主義」を提唱する。また三・一独立運動をはじめとする朝鮮における独立運動に理解を示したり、帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張するなど(小日本主義)、リベラルな言論人として知られる。1924年(大正13年)12月に<東洋経済新報>第5代主幹となり、翌年1月には代表取締役専務(社長制となるのは、1941年以降)に就任する。・・・ <戦後、>第55代 内閣総理大臣」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E6%B9%9B%E5%B1%B1

 田中を媒介として、石橋は福沢の思想的系譜の上に位置づけることもできるでしょう。
⇒田中についてはよく知りませんが、福澤は民間系の島津斉彬コンセンサス信奉者達の中の重鎮であった(コラム#省略)のに対し、石橋は典型的な勝海舟通奏低音信奉者(石橋に言及した過去コラム群参照)であり、両者は、私見では、「思想的系譜の上に位置づけることもできる」どころか、水と油なんですが・・。
 呆れるのを通り越し、三谷の、こういった裏づけなき、思い込みや思い付きの羅列を聞かされ、「洗脳」された、私の後輩たる法学部の学生達が余りにも可哀そうで、絶句してしまいました。(太田)

(続く)