太田述正コラム#10694(2019.7.23)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その84)>(2019.10.11公開)

 以上のような日本の近代化を推進した機能主義的思考様式は、日中戦争以後の昭和戦時期の統制経済論にも顕著にみられます。
 この時期の代表的な経済ジャーナリストであり、近衛文麿を中心とする「新体制」運動をイデオロギーや政策の面で支えた昭和研究会のメンバーである笠信太郎<(注100)>の著書『日本経済の再編成』はその一例です。

 (注100)1900~67年。福岡市出身。東京商科大学(現・一橋大学)卒。「1928年4月大原社会問題研究所研究助手、1931年同研究員を経て、大内兵衛が朝日新聞社主筆で中学・大学の先輩でもある緒方竹虎に推薦して、1936年1月朝日新聞社に入社し、同年9月論説委員となる。同じく朝日新聞社論説委員の佐々弘雄や記者の尾崎秀実らとともに近衛文麿のブレーン組織「昭和研究会」に参加してその中心メンバーの一人となり、近衛を取り巻く朝食会(水曜会)のメンバーともなった。
 昭和研究会には稲葉秀三や勝間田清一ら企画院の革新官僚とソ連スパイ尾崎秀実をはじめとする転向左翼ら所謂「国体の衣を着けたる共産主義者<」>(近衛上奏文)が結集しており、彼らはマルクス主義に依拠して戦争を利用する上からの国内革新政策の理念的裏付けを行い、国家総動員法の発動を推進し、近衛新体制生みの親として大政翼賛会創設の推進力となった。
 笠は昭和研究会の東亜政治研究会委員、東亜経済ブロック研究会委員、文化問題研究会委員、政治動向研究会委員、経済情勢研究会委員を務め、1939年12月に笠が出版した『日本経済の再編成』(中央公論社)は、国家総動員法の広汎な発動により日本経済を自由主義的市場経済から公益優先主義的計画経済に移行させる第二次近衛内閣の経済新体制の理論的支柱となった。
 笠は、日本経済の再編成の中で、第三次近衛声明後の我が国の軍事行動は、「治安工作と並行して抗日勢力の徹底的破砕を目指して進められねばならぬ」と主張し、企業が利潤確保の為やむを得ず闇市場に物資を流し闇価格を高騰させ或いは商品の品質や労働者の待遇条件を落とすこと等、政府の物資統制や戦時インフレ抑止政策が発生させる様々な弊害の除去に藉口して、物資のみならず企業の利潤および経営にまで統制の範囲を拡大させる必要性を説いて国家総動員法の発動を推進し、また『中央公論』昭和十四年十一月号「事変処理と欧州大戦」という座談会(出席者は、笠信太郎、和田耕作、平貞蔵、牛場信彦、西園寺公一、聽濤克己、角田順、後藤勇)の中では、公然と自由経済の復活と複数政党政治と言論の自由を否定した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E4%BF%A1%E5%A4%AA%E9%83%8E

 それは計画経済を主軸とする「経済新体制」の枠組みを提示したものでした。
 笠はその経済分析のための主要な道具をマルクス経済学から引き出しましたが、それを1939(昭和14)年当時の戦時の必要に応じ得る日本経済の「再編成」のために駆使したのです。
 国家の死滅を予定するマルクス主義の世界観および哲学を母胎とする経済学を、逆に国家目的に奉仕させようとしたわけです。
 当時日本ではマルクス経済学は非イデオロギー化され、大国ソ連の経済建設の試練を経た最も実用的な計画経済の理論とみなされていたといえます。

⇒やれやれ。
 マルクス経済学は、資本主義経済を対象とする経済学であり(注101)、スターリン主義(マルクス・レーニン主義)の下での社会主義経済とは直接関係がないはずであり、三谷のこのあたりの記述もまた、意味不明です。
 なお、スターリン主義(国全体が一つの私の言う固い組織。トップダウン)のソ連は、その社会主義経済の経済学を構築できないまま、自国の経済を最終的には崩壊させたのに対し、人間主義(国が私の言う柔らかい組織の重層構造。ボトムアップ)の日本もまた、その社会主義経済の経済学こそ構築できなかったけれど、自国の経済の持続的高度成長に成功したわけです。
 (そもそも、資本主義のイギリスは、アダム・スミス出現以前から存在していたことを想起すれば、特定の経済体制に関する経済学を構築できるかどうかなど、どうでもよさそうですが、スターリン主義の社会主義経済に関しては、指令経済なんだからそうはいかないのかもしれませんがね。)(太田)

 (注101)「マルクス<は、>『資本論』で・・・資本主義社会の全体像を概念的に再構成<した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6

 日本近代に特有の学問に対する機能主義的で実用主義的な態度の一つの典型をそこに見ることができるのです。・・・

⇒戦間期から戦中期にかけて形成された日本型政治経済体制ですが、それが、経済体制、社会体制、政治体制の順に、いずれも杉山元の意向を受けて形成された、ということを前に(コラム#10448で)総括的に記したところですが、その中の経済体制だけについてここで補足しておきますと、「宮崎正義<は、>・・・1936年(昭和11年)に「満洲産業開発5カ年計画」、1937年(昭和12年)5月に内地用の「重要産業5カ年計画要綱」を作成する。前者は1936年10月の湯崗子会議で決定された。1936年秋に宮崎機関は近衛文麿、池田成彬、結城豊太郎、鮎川義介、木戸幸一、林銑十郎など政財界の有力者に計画を説明している。1937年6月15日の近衛内閣の「我国経済力ノ充実発展ニ関スル件」で重要産業5カ年計画要綱は閣議決定される。しかし、同年の日中戦争で双方の計画は大幅に変更され、4月から始まった前者は鉱工業生産を中心に増額修正され、満州でも内地と同じ物資動員計画がつくられる。後者は1939年1月17日の平沼内閣による「生産力拡充計画要綱」まで本格的な実施は待つことになる。1937年10月に物資動員を担当する資源局と生産力拡充を担当する企画庁が合体して企画院が設立され、当時の近衛首相に頼まれて企画院調査官の秋永月三<(注102)>のもとで「日本綜合国策案」を作成するなど宮崎機関の活動は企画院に吸収された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E7%BE%A9
という次第であって、経済体制の形成に関し、昭和研究会の出る幕などなかったことを感じとっていただけるのではないでしょうか。

 (注102)1893~1949年。旧中津藩地区で生まれ、陸士、陸大。大佐時代に商工省、企画院、少将時代に同第1部長、その後一時陸軍に復帰し、中将時代に軍需相中国軍需監理部長、内閣綜合計画局長官。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%B0%B8%E6%9C%88%E4%B8%89

 同じことが、政治体制についても言えるはずです。
 なお、三谷が社会体制に言及していないのは片手落ちではないでしょうか。
 では、どうして、帝国陸軍、つまりは杉山元は、昭和研究会を立ち上げさせたのでしょうか。
 全くの仮説に過ぎませんが、昭和研究会は、帝国陸軍が、自ら形成したところの、日本型政治経済体制(総体)の一般向けの説明の仕方のヒントを得るために設立させたものの、その目的のためには余り役には立たなかったけれど、実は無能な操り人形でしかなかったところの、近衛文麿に、帝国陸軍(杉山元)の指示を受動的に、ではなく、昭和研究会が提案した諸施策を、自分が、主体的に、実行に移している、という、実際は錯覚でしかないけれど、一定の達成感を抱かせ、やる気を起こさせることがあったとすれば、その限りにおいては成功であった、といったところではないでしょうか。(太田)

(続く)