太田述正コラム#9282005.10.31

<靖国神社問題の総括>

1 問題の所在

 靖国神社参拝問題を改めて取り上げてからの大方の読者の反応を見ていますと、外国からのA級戦犯合祀批判に反論している限りでは大いに関心を持ち、喝采を送りつつも、議論が憲法と宗教をめぐる論議になったとたん、腰が引けて目をそらしてしまった観があります。

 具体的に申し上げれば、コラムへのアクセス数やコラム読者数が減っています。

 しかし、目をそらしたとて、この問題が逃げていくわけではありません。

 この間、私のホームページの掲示板上でなされた議論も踏まえ、アクセス数や読者数が更に減ることは覚悟しつつ、私の考えを申し上げておきたいと思います。

2 私の考え

 (1)総論

 人間は誰しも、自然(その中には人間も含まれる)に対する尊敬と畏怖の念を持っており、その尊敬と畏怖の念を形に表したい、という気持ちも持っています。

 日本人だってそうです。

その証拠に日本人はほぼ全員、葬儀を行い、墓をつくり、墓参りをするではありませんか。

 日本人の大部分は、死後には何もないことを百も承知であるにもかからわず・・。

 その葬儀が、無宗教で行われる場合だけでなく、特定の宗教・宗派の儀礼に則って行われる場合であっても、故人(あるいは故人の親族)の親族・友人・知人・関係者の大部分は参列するだけでなく、その儀礼の一部(焼香とか賛美歌斉唱)を実行することすら厭いません。また、儀礼を司る宗教者が説教を行うことがありますが、その際に退席する人もまずいません(注1)。

 (注1)ただし、キリスト教の宗派の中のごく一部には、他の宗教(宗派?)の儀礼に則って行われる葬儀へ参列を禁止しているものがある。なお、宗教者は、葬儀の席上説教を行う場合、それが布教の色彩を帯びないように心がけるべきだろう。

 

 さて、親族・友人・知人・関係者ではなくても、多大の功績を挙げた故人や自然死以外で死に至った故人を哀悼したい、という気持ちも人間にはあります。

 ですから、大事故や大災害によって亡くなった人々の慰霊碑をつくり、その前で慰霊の儀礼を行うことは世界どこでも見られることですし、日本でもそうです。

 靖国神社もまさにかかる慰霊碑であり、かつ日常的に慰霊の儀礼が行われている場である、と言えるでしょう。

 その儀礼が特定の宗教・宗派の儀礼であるとすれば極めて不自然です。なぜなら、靖国神社で哀悼の対象として祀られている人々には無宗教者も含め、日本で行われているあらゆる宗教・宗派の信者がいるはずだからです。

 そこで、靖国神社もその一「宗派」であるところの神社神道が実質的な意味での宗教であると言えるのかどうかなのですが、これは儀礼の体系であって宗教ではない、と言わざるをえません(コラム#826919、及びホームページ(HP)の掲示板への私の投稿#1280参照)。

 神社神道が宗教だというのであれば、無宗教形式による葬儀でさえも宗教活動だ、ということになってしまうでしょう。違うのは、葬儀は(宗教が事実上禁圧されている中共や北朝鮮を含め)世界で普遍的に見られる一般的習俗であるのに対し、神社神道(の儀礼の体系)は日本だけにしか見られない一般的習俗である、という一点だけです。より直截的に言うと、神社神道の(というより神社神道と同値である)儀礼の体系は、無宗教形式による葬儀の儀礼(献花等)に相当する、ということです。(神道儀礼によって行われる葬儀もありますが、これは無宗教形式による葬儀の一タイプであるということになります。)

 このような考えから、首相を始めとする公務員の神社参拝は、たとえ職務の一環として行われたとしても合憲だ、と私は考えます。

 ですから、伊勢神宮参拝であれ、靖国神社参拝であれ、神社参拝が職務の一環として行われる場合、そのための経費は公費から支弁できますし、公務員は神社参拝ないし参拝に係る業務を命ぜられた場合、拒否することはできない、と考えるのです(注2)。

 (注2)公務員が殉職した場合でなくても、死亡すれば、その公務員が勤務していた役所は、葬儀に人手を出し智恵を貸し、供花料を支出し、更に当該役所からの参列者に執務時間中の葬儀列席を認め公用車の使用も認める。ただし、参列のために必要な交通費は支弁しないし、役所のトップないしそれに準ずる者を除き、香典の立て替えも行わない。参列は職務ではないし、香典は役所のトップないしそれに準ずる者を除き、たとえ参列者であっても義務的経費ではなく、また額が決まっているわけでもないからだ。以上の「一般的習俗」は、神社への参列の場合の範例に基本的になる、と考える。

 (民間企業は、そもそも憲法の政教分離規定の対象でないので、事情が異なります。当然社員は、命ぜられたならば、神社はもとより仏教寺院等への参拝ないし参拝に係る業務を拒否することはできません。)

 だからといって、政府や地方公共団体が、一般国民に神社参拝を強要することは許されません。これは、たとえ無宗教形式で行われるものであっても、特定の葬儀への一般国民の参列を強要できないのと同じことです。

 (2)各論

 神社神道に関する憲法判断を下したものとしては、1977年7月の津地鎮祭最高裁判決が有名です(HPの掲示板への私の投稿#1284中で紹介した判決要旨参照)。

 この判決は、神道の儀礼に則って行われる起工式(地鎮祭)は、憲法の政教分離規定の対象たる宗教行事にあたらない、という判断を示しました。

 私は、最高裁が、この判決を蹈襲しつつ、靖国神社参拝は慰霊であるから合憲、伊勢神宮参拝は初詣であるから合憲、という具合に、この判決の射程を個々のケースに即して拡大していくか、神道のすべてが「社会の一般的慣習に従った儀礼を行う」営みであって、「その<儀礼の>効果が・・他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められない」という形への判例変更を行うことを期待しています。

 それまでの間、首相等は堂々と、職務の一環として、公用車を用い、本来の儀礼に則り、初穂料等を公費で支払い、靖国神社や伊勢神宮に参拝を続ければよいのです。

3 感想

日本の防衛論議に関しても、話が核心部分に入ると腰が引けて目をそらしてしまうという点で、大方の読者の反応は極めて似ています。

(そもそも、防衛問題への啓発を主たる目的とするこのコラムへのアクセス数やコラム読者数が遅々として増えないのは、コラムのクオリティーはともかくとして、基本的にはそのためでしょう。)

これは、人間が誰でも自分と家族だけでなく、第三者(赤の他人や自分の属す集団)を危害から守ろうとする気持ちも持っている、という事実を直視しないことから来ています。

 靖国神社参拝「問題」は、日本国憲法の政教分離規定によって、日本人の、自然に対する尊敬と畏怖の気持ちの自然な発露が妨げられているために起こっているのに対し、日本の防衛「問題」は、日本国憲法の非武装規定によって、日本人の、第三者を危害から守ろうとする気持ちの自然な発露が妨げられているために起こっている点で共通しています。

 この歪んだ状況を抜本的に改めるためには、当面は判例の拡大適用・変更ないし政府公定解釈の変更で対応するとしても、日本国憲法をきちんと改正する・・非武装規定を廃止するとともに、一般的習俗と見なされる営みは宗教ではないという規定を設ける・・ことに勝る方法はないのです。