太田述正コラム#10712(2019.8.1)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その93)>(2019.10.20公開)

 <そもそも、>憲法・・・第1条に規定する統治の主体としての天皇と、第3条の天皇「神聖不可侵性」・・法解釈上は天皇は神聖である、故に政治的法律的責任を負わない・・・という・・・意味・・とは、法論理的には両立しなかったのです。

⇒例によって典拠が示されていませんが、このくだりに関しては、典拠が示せるはずがありません。
 そんなことを言いだしたら、プロイセン憲法自体、それぞれに相当する条項が盛り込まれている・・英訳第45条:The executive power shall belong to the king alone.・・・、英訳第43条:The person of the king shall be inviolable.
https://en.wikisource.org/wiki/Constitution_of_the_Kingdom_of_Prussia 前掲
・・ところ、法論理的には両立しない条項群から成っていることになってしまいます!(太田)

 そこで憲法ではなく、憲法外で「神聖不可侵性」を体現する天皇の超立憲君主的性格を積極的に明示したのが「教育勅語」だったのです。・・・

⇒よって、このくだりは、無理筋ですよね、三谷さん、ということです。(太田)

 以下の「教育勅語」成立過程に関する歴史的事実は、教育学者海後宗臣<(注114)>(かいごときおみ)の古典的名著『教育勅語成立史の研究』(発行者海後宗臣、1965年)に全面的に依拠しました。・・・

 (注114)1901~87年。茨城県出身。「祖父は桜田門外の変に参加した「十八士」の一人である海後磋磯之介(宗親)。」東大文(教育)卒、同大助教授、教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%BE%8C%E5%AE%97%E8%87%A3

⇒ということは、憲法第1条と第3条の話は、海後に「依拠」したものではなく、三谷オリジナルってことですね。
 そりゃそうでしょう。(太田)

 「教育勅語」の起点となったのは、1879(明治12)年8月天皇が侍講元田永孚に命じて起草させた「教学聖旨」<(注115)>です。・・・

 (注115)「明治天皇より参議伊藤博文・同寺島宗則(文部卿兼務)に出された教育方針。総論である「教学大旨」及び小学校教育に関する「小学条目二件」から構成されている。 学制以来の明治政府の教育政策が知識教育に偏っており、その弊害が見られることから、儒教を基本とする道徳教育を追加して知育と徳育のバランスをとること、効果的な徳育は幼少期に始めるべきこと、庶民教育は出身階層に合わせた実学を中心とすべきとする趣旨であった。・・・この文章の実際の執筆者が・・・侍補の元田永孚であることが分かると・・・伊藤<博文>は、ただちに「教育議」を執筆して元田の主張こそ現実離れの空論であると噛み付き、両者は激しく論争した。まもなく伊藤は侍補の廃止を決断する一方、高まる自由民権運動に対抗するために道徳教育の強化には同意して政府の教育政策の継続が認められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E5%AD%A6%E8%81%96%E6%97%A8

 <すなわち、>教育の第一目的は、「仁義忠孝」を明らかにすることにあり、「智識才芸」を究めることは、それを前提として初めて行われると・・・
 これに対して・・・同年内務卿伊藤博文の側近で内務大書記官であった井上毅によって起草され、伊藤の名において天皇に呈出された・・・「教育議」は社会における「風俗ノ弊」(制行ノ敗レ」および「言論ノ敗レ」)は認めながらも、これを是正するために、維新以来政府が進めてきた文明開化政策を変更し、「旧時の陋習」に服することがあってはならないとして、元田の「教学聖旨」の思想に反対したのです。

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[元田永孚と伊藤博文の対立]

〇これは、基本的には、横井小楠(1809~69年)から直接的、島津斉彬(1809~58年)から(大久保利通を通じて)間接的、薫陶を受けた元田(1818~91年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%94%B0%E6%B0%B8%E5%AD%9A 
に対するに、吉田松陰(1830~59年)から直接的薫陶を受けた伊藤(1841~1909年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87 前掲
、の対立、と見るべきだろう。↓

〇まず、元田についてだが、横井は、「深く三代之道<(注116)>に通じ、・・・万国の実情を知り・・・富国強兵の成果をあげて外国の侮りを受けないようにつとめなければならない・・・<但し、>決して洋風を尊ぶのではない。その主旨をとりちがえてはならない」と主張している
http://www.aichi-toho.ac.jp/wp-content/uploads/2016/07/201106004001_08.pdf

 (注116)三代とは、「夏・殷・周の三王朝を指す」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BB%A3
 「孟子が云うには、「夏殷周三代の王朝が天下を手中に収めることが出来たのは仁政によるものであり、天下を失うことになったのは不仁の政治を行ったからである。諸侯の興廃・存亡も然り。天子が不仁の身であれば天下を治めることは出来ないし、諸侯が不仁の身であればその国を治めることは出来ないし、卿大夫が不仁の身であればその家を治めることは出来ないし、士や庶民が不仁の身であれば自身の身の安全を保つことが出来ない。」(『孟子』離婁上)
https://blog.goo.ne.jp/shogo_74/e/86e36cefa2f1cd8a89b6a45f0e0b5a7e

ところ、ここでの三代之道とは程明道の「万物一体の仁」を当然指していると思われる(コラム#省略)けれど、横井はそうは書かなかったようであるし、それが、日本には存在しても支那には殆ど存在しなかったと横井が考えていたことも間違いないけれど、横井がそう書いた形跡もまたない。
 斉彬は、(私が思うに和魂洋才論の理論化等を目指し、)国学研究機関の設立を構想したけれど、実現する前に亡くなってしまったために、横井と斉彬・・2人は奇しくも同年生まれ!・・に影響を受けたとは雖も、元田は、「万物一体の仁」とまで踏み込んだ表現すらできず、「仁義忠孝」という、古色蒼然とした表現をせざるをえなかった、ということだと思われる。

〇他方、伊藤についてだが、彼は、「吉田松陰・・・ら<が唱えたところの、>武士以外の人々、すなわち豪農・豪商・郷士などの階層、そして武士としての社会的身分を捨てた脱藩浪士を「草莽」と称し、彼らが身分を越えて、・・・尊王攘夷運動や討幕運動に参加して・・・行くべきであると<いう、>・・・「草莽崛起」論」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E8%8E%BD
・・民主主義論!・・の薫陶を受けたところ、吉田は、彼の師事した佐久間象山や彼が薫陶を受けた横井の和魂洋才論を当然視していたと想像されるものの、それを松下村塾できちんと説いた形跡がなく、しかも、伊藤は、「身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったままの聴講に甘んじていた」上、吉田が「才劣り、学幼し。」と評した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87 前掲
ような人物であり、和魂洋才にいう「和魂」には無頓着で、「洋才」、具体的にはイギリス文明、の日本への継受・・直輸入できない部分は、例えば、英国教ならぬ国家神道という形で翻案する・・にこれ努めたところの、勝海舟とは違って英国オタク的な一風変わっていた、勝海舟通奏低音信奉者であった、というのが私の見方だ。
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(続く)