太田述正コラム#10732(2019.8.11)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その103)>(2019.10.30公開)

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[軍人勅諭]

 「『軍人勅諭』は、1882年(明治15年)1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』という<(注128)>。

 (注128)教育勅語は、正式には『教育ニ関スル勅語』だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E5%8B%85%E8%AA%9E 前掲

 西周<(注129)>が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正されたとされる。

 (注129)1829~97年。「石見国津和野藩(現、島根県津和野町)の御典医の家柄・・・漢学の素養を身につける他、・・・藩校・養老館で蘭学を学んだ。安政4年(1857年)には蕃書調所の教授並手伝となり・・・哲学ほか西欧の学問を研究。文久2年(1862年)には幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学し、・・・法学・・・カント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。・・・明治3年(1870年)には乞われて明治政府に出仕、以後兵部省・文部省・宮内省などの官僚を歴任・・・。明治6年(1873年)には・・・明六社を結成・・・西洋哲学の翻訳・紹介等、哲学の基礎を築くことに尽力した。・・・「哲学」・・・「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」「心理学」「意識」「知識」「概念」「帰納」「演繹」「定義」「命題」「分解」など多くの哲学・科学関係の言葉は西の考案した訳語である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%91%A8_(%E5%95%93%E8%92%99%E5%AE%B6)

⇒西は、元々は幕臣ではなかったこともあり、また、出身の津和野藩の最後の「藩主が神道を信奉し、国学の発展に力を注いだ。幕末には長州藩の隣藩であったが、中立を維持した。だが、その距離の近さから藩士の中には長州藩と行動を共にするものもあ<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%92%8C%E9%87%8E%E8%97%A9
ことも与っていると思われるが、明六社に参加する前までに、或いは、参加後に島津斉彬コンセンサス信奉者になっていたと思われる。(太田)

 下賜当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものとされ、1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡<(注130)>が元になっている。・・・

 (注130)「西南戦争後の1878年8月,近衛砲兵の反乱である竹橋騒動が起こった直後,陸軍卿山県有朋の名で数万言を費やした〈軍人訓誡〉が出された。起草者は西周であるが,軍人精神の未発達を指摘したうえで,軍人精神維持の三大要素を忠実・勇敢・服従にあるとし,くわしい解説を加えた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BB%8D%E4%BA%BA%E8%A8%93%E8%AA%A1-832090

⇒西は、明六社の縁で、その法匪的、便利屋的能力を買われ、井上ないし福澤から、山縣有朋に引き合わされ、軍人訓誡や軍人勅諭の起草をする運びになったのではなかろうか。
 なお、縄文性の活性化・維持を目的とする教育勅語より、弥生性の活性化・維持を目的とする軍人訓誡/軍人勅諭の発布の方が先行したのは、幕府系藩校群出身軍人達や徴兵軍人達の弥生性の欠如の矯正が取り組むべき喫緊の課題視されたのに対し、縄文性の方に関しては、ほぼ全国民が一応備えていたからだろう。(太田)

 内容は、前文で「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」と天皇が統帥権を保持することを示し、「下級の者が上官の命令を承ること、実は直ちに朕が命令を承ることと心得よ」と言い渡し、続けて、軍人に忠節・礼儀・武勇・信義・質素の5つの徳目を説いた主文、これらを誠心をもって遵守実行するよう命じた後文から成る。
 特に「忠節」の項において「政論に惑わず政治に拘わらず」と軍人の政治への不関与を命じ、軍人には選挙権を与えないこととした。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BA%BA%E5%8B%85%E8%AB%AD

⇒軍人訓誡の3つの徳目や軍人勅諭の5つの徳目はともかくとして、軍人勅諭の「天皇が統帥権を保持することを示し、「下級の者が上官の命令を承ること、実は直ちに朕が命令を承ることと心得よ」」というくだりの目的が問題になる。
 本文は次の通りだ。↓

 「・・・昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし<(注131)>給ひし・・・打續ける昇平に狃れて朝廷の政務も漸文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壯兵の姿に變り遂に武士となり兵馬の權は一向に其武士ともの棟梁たる者に歸し世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ・・・」
https://ja.wikisource.org/wiki/%E9%99%B8%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA%E3%81%AB%E8%B3%9C%E3%81%AF%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%82%8B%E5%8B%85%E8%AB%AD

 (注131)「しろしめす【知ろし食す】・・・お治めになる。御統治になる。」
https://kotobank.jp/word/%E7%9F%A5%E3%82%8D%E3%81%97%E9%A3%9F%E3%81%99-297353
 しる=知るには、「一、認識する、理解する。二、支配する、領有する。<の二つの意味があるが、>二の意味の場合、・・・シラス、シラシメス、シロシメスといった尊敬語の形で表れることが多い。・・・「知る」が支配する意味となる背後には、現代のような情報化社会とは異なり、古代においては支配者のみが支配地の隅々にいたるまで、様々な情報を手に入れることができるという論理が隠れている。・・・その論理は、動詞「聞く」がキコシメス、キコシオスといった尊敬語の形で支配する意味となることにも通じている。支配者は奏上を「聞く」ことによって天下を「知る」のであり、それが天下の支配の象徴と見られていたのである。」
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68614

 上掲の本文を踏まえ、天皇は統治に関してはシラス的(シロシメス的)天皇だが、こと軍事に関してはウシハク的天皇でなければならないことを、天皇と臣民達の双方に周知徹底する目的があった、と私は解するに至っている。
 帝国憲法における天皇の諸大権中、統帥権が最も注目され、強調され続けた背景はここにある、とも。
 以上を踏まえれば、「政論に惑わず政治に拘わらず」の趣旨が、政治(統治)、すなわち、シラス的世界、に惑ったり拘わったりしていると、軍人に期待されているところの、ウシハク的な意識が鈍磨しウシハク的な行動がとれなくなるので控えよ、であることが分かろうというものだ。(太田)
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(続く)