太田述正コラム#10738(2019.8.14)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その106)>(2019.11.2公開)

——————————————————————————-
[美濃部達吉と教育勅語]

 表記について、三谷は、具体的に書いてくれていないので少し調べてみたが、取敢えず分かったのはこれくらいだ。(忘れないうちに書いておく。)↓

 「戸沢(重雄)検事が詔勅の批判をしてもよいかを尋ね、イエスの答を得て『しかし勅語、ことに教育勅語は批判してはいけないという説がありますが、それについてはどう思いますか』と尋ね、それは単なる俗説にすぎませんと美濃部さんは言下に言い切った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC

 この時、戸沢が、どうして、教育勅語、と、同じく大臣の副署のない軍人勅諭、の両方に言及することなく、教育勅語だけを持ち出したのかが不思議だ。
 また、美濃部が副署のない勅語も批判してよい理由をどう考えていたのかも知りたいところだ。
 私としては、美濃部が、東大時代に一木喜徳郎<(注136)>・・内務官僚経験のあって天皇機関説を日本の学界で初めて唱えた・・に師事し、1897年から99年まで内務省に勤務した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E9%83%A8%E9%81%94%E5%90%89
ところ、この間の内相が、板垣退助(土佐藩)→横山資紀(薩摩藩)→芳川顕正(山縣系官僚)→板垣退助→西郷従道(薩摩藩)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%8B%99%E5%A4%A7%E8%87%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
と、島津斉彬コンセンサス信奉者達ばかりであったことから、前にも記したように天皇機関説は当時の内務省のいわば省論であったと思われるところ、この説が前提としている「天皇」は「シラス的天皇」であったとも想像され、このような意味での天皇機関説が、当時の島津斉彬コンセンサス信奉者達の間で広く共有されていた、と、私は想像している。

 (注136)1867~1944年。遠江国佐野郡倉真村(現在の静岡県掛川市)に生まれ、大学予備門、東大文(政治)入学・東大法卒、1887~1890年内務省勤務。独留後東大法教授。法制局長官、文相、内相、枢密顧問官、宮相、枢密院議長、等を歴任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9C%A8%E5%96%9C%E5%BE%B3%E9%83%8E

 仮にこの想像が当たっているとすればだが、シラス的天皇の行う公的行為は、「みんなが決めた事」でなければならず、それ「を天皇が発表するの<が>【詔<(注137)>】」(注122参照)なのだから、みんなの総意ではない、或いは、もはやみんなの総意ではなくなった、と判断した者が、詔書や勅語の内容を批判することは当然許されることになる。

 (注137)みことのり(詔・勅)。「天皇の命令を直接に下す文書。養老令の公式令(くしきりょう)には詔と勅の二つの様式が規定されており、詔は臨時の大事の場合、勅は尋常の小事の場合の文書とされる。勅は漢文体で書かれ、詔には漢文体のものと宣命体のものがあり、宣命体のものは宣命使が直接に、官人・衆庶に読み聞かせた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A9%94%E3%83%BB%E5%8B%85-390439

 なお、詔書や勅語が、内面的な命令(道徳に係る天皇の命令)の場合は所管大臣が存在しないので副署なしで、外形的な命令(法規に係る天皇の命令)の場合は所管大臣が存在するので大臣の副署ありで、発布される、ということだろう。
——————————————————————————-

 これに対して、憲法は大学教育の前段階ではほとんど教えられることはありませんでした。
 一般にイデオロギー教育と区別される政治教育は、憲法によって(あるいは憲法を通して)行われますが、その意味で大学教育を受けない多数の国民に対しては、政治教育はなかったといってもいいすぎではありません。・・・
 大学で憲法の講義を聴く者は、勅語との同一性よりも、異質性に強く印象付けられるものが少なくありませんでした。・・・
 典型的なリベラル・デモクラットであった公法学者美濃部達吉は、敗戦後の憲法改正には消極的でしたが、その理由は大日本帝国憲法のもっている立憲主義的で自由主義的な側面を、彼自身が確立した憲法学説、つまり、1935年の天皇機関説事件の過程で政府によって禁止された憲法学説の復活によって将来拡充していく可能性への確信に由来していると思われます。
 逆に、1935年以降の昭和期の反体制運動(「国体明徴」)を掲げる「革新」運動)を推進した諸勢力は、憲法の立憲主義的で自由主義的な側面を支持する諸勢力を攻撃し、事実上の「憲法改正」を目指しました。
 日本の近代においては「教育勅語」は多数者の論理であり、憲法は少数者の論理だったのです。
 昭和戦前から戦中にかけての日本の政治は、こうした両者の原理的あるいは機能的矛盾によって引き起こされた亀裂が、国外の環境の変動と連動しながら、その不安定化を促進していったのです。・・・

⇒(私見ではその見せ金性にも由来するところの)帝国憲法の規範性のなさを、美濃部であれ、国体明徴派であれ、自覚していたということではないでしょうか。
 なお、私見では、「「教育勅語」は多数者の論理・・・憲法は少数者の論理」なのではなく、「密教たるシラス的天皇観に立脚する「教育勅語」/憲法観は多数者の論理・・・顕教たるウシハク天皇観に立脚する「教育勅語」/憲法観は少数者の論理」、といったところでしょうか。(太田)

(続く)