太田述正コラム#10752(2019.8.21)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その113)>(2019.11.9公開)

 このような「パックス・ブリタニカ」後の国際政治の多極化の現実に対応して、第一次世界大戦後には新しい国際政治秩序が形成されます。
 その東アジア版がワシントン体制<(注148)>でした。・・・

 (注148)「ワシントン体制とはワシントン会議で締結された九カ国条約、四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約を基礎とする、アジア・太平洋地域の国際秩序を維持する体制のことを言う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E3%82%AB%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84
 「<米国>は、太平洋地域に権益を持つ自国と日本、<英国>、フランスとの間における太平洋における領土と権益の相互尊重と、諸島における非軍事基地化を取り決めた「四カ国条約」の締結を提唱し、同盟国であり歴史的に関係の深い<英国>にこれを強く進言した。 日本を5大国の一国に押し上げる原動力の1つとなった日英同盟を妨害する意図があったとも言われる。結果的に1921年に「四カ国条約」が締結され、満期の来た日英同盟は更新されなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E3%82%AB%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84

 ワシントン体制前の日本の外交の基本路線は日英同盟でした。
 そして、これを補完していたのが、日露協商・日仏協商(利益範囲と協力関係についての二国間了解)でした。
 要するに、英国をはじめとするヨーロッパ列強との二国間条約ないし協商によってつくられた国際関係を前提としていました。
 それを多国間条約を枠組みとする国際関係を前提としたものに変えたのが、ワシントン体制だったのです。

⇒この文脈においては、三谷は、ワシントン体制というよりは、より端的に四カ国条約(「注148」参照)に言及して欲しかったところです。
 また、それが、米国のゴリ押しの結果であったことにも言及して欲しかったですね。(太田)

 米国は伝統的に孤立主義的外交路線でした。

⇒ここは、米国の孤立主義はモンロー主義であって、中南米諸国に対しては孤立主義的でなかった(注149)、ということへの言及が欲しかったですね。(太田)

 (注149)汎アメリカ会議。「1889年アメリカのJ・ブレーン国務長官が、中南米諸国との通商拡大や紛争の平和的処理法の協議のためにワシントンで最初の会議を開催。米州諸国の協力、交流の促進を図るため、米州共和国国際事務局(のちに汎アメリカ連合Pan-American Union)が設立され<た。>・・・通商協定・仲裁裁判の取り決めを行ない、以後定期的に各国の首都で開催。一九四八年米州機構に継承された。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B1%8E%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BC%9A%E8%AD%B0-156606

 特定国との間で政治的あるいは軍事的コミットメントを伴う二国間条約に関しては消極的でした。

⇒ここでは、英領北米植民地(13州)が、独立宣言をした後に、仏米同盟条約(Treaty of Alliance)を締結した(1778年)・・「この同盟は1800年のモルトフォンテーヌ条約の締結まで続いた。ただし、1798年に<米>議会が条約を無効として<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E7%B1%B3%E5%90%8C%E7%9B%9F%E6%9D%A1%E7%B4%84
・・こと、つまりは、米国の対英「勝利」と独立の達成、に、米国が結んだ二国間条約が極めて大きな役割を演じた、という史実に触れて欲しかったですね。(太田)

 そのような立場をとってきた米国がワシントン体制に参入したのも、それが多国間条約を基本枠組とするものだったからです。
 第一次世界大戦後、国際関係を組織する原則が二国間(bilateral)関係を前提としたものから、政治的軍事的コミットメントのより小さい多国間(multilateral)関係を中心としたものに変わることになったために、米国は国際政治に対して、より積極的になりえたのです。

⇒米国に汎アメリカ会議の経験(「注149」参照)があったことも忘れてはなりますまい。(太田)

(続く)