太田述正コラム#10754(2019.8.22)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その114)>(2019.11.10公開)

 ワシントン体制の特質の第二は、それが軍縮条約を基本枠組みとするものだったことです。
 大戦以前の国際関係を組織していたのは、日英同盟のような二国間の軍事同盟条約もしくはそれに準ずるもの(日露協商のような軍事同盟の潜在的可能性をもっていたもの)でした。

⇒いや、1882年の三国同盟(独墺伊)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F_(1882%E5%B9%B4)
と、それに対抗するところの、1894年の露仏協商と1904年の英仏協商と1907年の英露協商によって事実上作られた三国協商・・これに1902年の日英同盟に加わっていた日本が1907年に日仏協商及び日露協商を締結し、事実上参加した・・が対峙した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8D%94%E5%95%86
のが第一次世界大戦前の基本的状況であり、三谷が「二国」を強調するのはいかがなものかと思います。(太田)

 ところがワシントン体制では、国際関係が非軍事化され、軍事同盟ではなく、軍縮条約によって組織されることになったのです。

⇒秘密の軍事協力条項を含むラパッロ条約が独ソ間で1922年に締結されています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%91%E3%83%83%E3%83%AD%E6%9D%A1%E7%B4%84_(1922%E5%B9%B4)
が、ワシントン体制外の話とはいえ、すぐ下の「第一次世界大戦後の国際関係の非軍事化」に真っ向から反する話であるだけに、このあたりの三谷の記述には疑問符を付けざるをえません。(太田)

 なお、第一次世界大戦後の国際関係の非軍事化を象徴するものとして、軍縮条約とならんで不戦条約があります。
 不戦条約もまた軍縮条約と同じく、多国間条約として各国間に締結されました。

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[不戦条約について]

 A:「・・・条約批准に際し、<米国>は、自衛戦争は禁止されていないとの解釈を打ち出した。また<英国>と<米国>は、国境の外であっても、自国の利益にかかわることで軍事力を行使しても、それは侵略ではないとの留保を行った。<米国>は自国の勢力圏とみなす中南米[(モンロー主義の対象地域)]に関しては、この条約が適用されないと宣言した。・・・<また、>1928年12月7日、ケロッグ国務長官は<米>議会上院の不戦条約批准の是非をめぐる討議において、経済封鎖は戦争行為そのものだと断言した<(!!!(太田))>・・・」 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84
 「<英国は、>・・・英連邦モンロー主義・・・<すなわち、>植民地・・・は自衛権<の対象>に含まれると解釈した・・・」
https://toyokeizai.net/articles/-/238244?page=2
https://toyokeizai.net/articles/-/238244?page=3 []内も

 B:「・・・45年(昭和20年)・・・ニュルンベルク裁判・・・<に関し、>米英仏ソ4か国は、・・・8月に締結した協定で「国際軍事裁判条例」を定め、第6条で「平和に対する罪」、「通例の戦争犯罪」、<等>・・・を定義した。・・・これは・・・「極東国際軍事裁判所条例」でもそのまま使われた。・・・
 弁護側・・・の主張は、一、侵略戦争はそれ自体不法ではなく、戦争を放棄した28年の不戦条約は戦争を犯罪であるとはしていない、二、戦争は国家の行為であり、国際法上個人的責任はない、三、「平和に対する罪」は事後法であり、従って不法だ–というものだった。・・・
 <結局、>判事団は、原則は残すが、極刑を科した7名は広田を除き、「通例の戦争犯罪」・・・の責任を併用することで・・・非難をかわす手法をとった・・・」
https://www.yomiuri.co.jp/special/70yrs/main/honsho_5_04.html

⇒私は、杉山元らは、Aを踏まえ、(Bまで予想していたかどうかはともかく、)欧米のアジアにおける植民地解放のための戦争や植民地解放を目指す原住民の蜂起への軍事的支援が違法となったことを深刻視し、だからこそ、島津斉彬コンセンサスの前倒し完遂を目指す杉山構想を策定した、と見ているわけだ。(太田)
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⇒三谷にも、すぐ上の囲み記事内の私見的な認識の片鱗くらいは記して欲しかったところですが、そんなことを望むのは野暮というものでしょうね。(太田)

 いうまでもなく、不戦条約は現行の日本国憲法第9条、特にその第1項「日本国民は…国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という文言の歴史的先例となったものです。
 現行憲法が公布された1946年11月3日当時の吉田茂首相は、不戦条約が調印された1928年8月当時の田中義一首相兼外相の下での外務次官(当時の外交の実際上の責任者)でした。
 第9条(第1項のみならず、第2項を含めて)を導入した現行憲法に対して、首相兼外相として憲法正文に副署した当時の吉田には大きな抵抗感はなかったと思われます。

⇒何ということをおっしゃる。
 第1項と第2項とは全くの別物であり、後者に「大きな抵抗感はなかった」とすれば、吉田が異常だったのです。
 実際、吉田は、1963年の著書『世界と日本』の中で、こんな憲法(事実上、その第2項)を甘受した首相当時の自分の「責任を痛感」しているところです。(コラム#1651)(太田)

(続く)