太田述正コラム#10756(2019.8.23)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その115)>(2019.11.11公開)

 ワシントン体制の特質の第三は、それが当事国間の経済的金融的提携関係によって支えられていたことです。
 その一般原則を打ち出したのは、ワシントン会議と踵を接して開催されたジェノヴァ会議<(注150)>でした。

 (注150)英語読みでは「ジェノア会議」(1922年4月10日~5月19日)。「34カ国の代表者が集まって第1次世界大戦後の貨幣経済について話し合った。会議の目的は、<中欧>と<東欧>を再建する戦略をまとめ、また、<欧州>の資本主義経済と新ロシアの共産主義経済との間の調整を行うことであった・・・。
 この会議では、参加国の中央銀行が部分的には金本位制に復帰するという提案も決議された。当時、金本位制は、戦費をまかなう紙幣を発行するために停止されていた。しかし中央銀行は、金の裏づけがある経済の方が貿易の障壁は減り経済は安定すると考えており、その現実的な方法として、金を金庫室に保管して維持したまま日々の取引を金と交換できる印刷紙幣で行う方法での金本位制を望んでいた
 部分的に金本位制に復帰する方法として、中央銀行に対して、保有通貨の一部を自身が直接金貨と交換できる通貨とすることが認められた。ただし、この新しい金本位制(金地金本位制、戦間期金本位制)では、かつての金本位制で主流だった金貨本位制と違い、国民は紙幣を両替して金貨を受け取ることはできなかった。
 金地金本位制を取り入れた<英国>や他の<欧州>諸国で、国民は、紙幣を大きな金地金に交換することだけができるようになった。地金は日々の取引に使うには不向きだったが、金庫に金として保管したい、という望みだけはかなえることができるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%82%A2%E4%BC%9A%E8%AD%B0

 そこで将来の金為替本位制を根幹とする国際金融体制の構築が決議されたのです。
 そのための当事国間の経済的金融的提携関係が東アジアにおいて具体化されたのが、1920年に成立した中国に対する日米英仏四国国際借款団<(注151)(コラム#10624)>で・・・です。

 (注151)「四国借款団<は、>・・・1910年2月、清朝政府に対し鉄道建設などのために結成された借款団。中国に対する列強の金融支配の典型とされている。ドイツ・独華銀行、フランス・インドシナ銀行、<英国>・香港上海銀行、<米国>・モルガン商会などで構成された同借款団は、11年の幣制改革借款1000万ポンド、湖広鉄道借款600万ポンドなどを計画したが、そのほとんどが実現しなかった。それは、鉄道借款が清朝による鉄道国有化政策と結び付いていたため、・・・ブルジョアジーや民衆の激しい反対運動を呼び起こしたためであった。清朝にとって鉄道国有化は命取りとなり、辛亥革命が起きた。なお、20年にも<英国>、<米国>、フランス、日本の四国銀行家による借款団が成立したが、これは新四国借款団とよばれる。このほか、1913年に袁世凱と結んで2500万ポンドに及ぶ「善後借款」を行った五国借款団(日、英、仏、独、露)も有名である。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%80%9F%E6%AC%BE%E5%9B%A3-1541906

 しかし四国借款団の本来の目的である対中借款供与は、投資対象である中国の政治的経済的不安定、中国自体が中国の財政的自主性を損なうとして国際借款団を敵視したことなどから、遂に一度も行われませんでした。
 ところが反面で四国借款団を媒介として、四国間(特に日米両国間)の経済的金融的提携関係は強められ、それがワシントン体制を支える基礎となりました。
 その意味で四国借款団はワシントン体制の「経済的金融的部分と見ることができるのです。

⇒酒井一臣は、この四国借款団について、服部龍二が「ワシントン体制への準備過程とはとらえ得ない」とし、平野健一郎が「むしろウィルソン主義の登場に反発する旧勢力の主導する方策であった」としている、と指摘しており、
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/239639/1/shirin_084_2_268.pdf
英米仏の研究者の見解も知りたいところですが、いずれにせよ、この箇所の三谷の見解は必ずしも通説ではなさそうですから、三谷が自説を史実であるかのように書いたのはいかがなものかと思います。(太田)

 1930年の日本の金為替本位制復帰(金解禁)の背景にも、このような密接な日米間の国際金融提携が重要な要因として働いていました。
 それが、金解禁の必要的前提措置としての金準備のための英米両国金融資本による対日クレジット<(注152)>の設定を実現させたのです。・・・

 (注152)「ここでいうクレジットは一般の借款とは違い、ある国が金本位制下で正貨の尽きそうな事態に陥ったとき他の国が資金を供給するという互助の一環として設定された。信用収縮や金本位制破綻の回避を目的としていた。・・・クレジット・・・は次の契約内容で無事に設定された。
総額:<米国>2500万ドル、<英国>500万ポンド
契約当事者:
 日本側;横浜正金銀行(政府・日銀が支払い保証)
 米国側;モルガン商会、クーン・レーブ、ナショナル・シティー銀行、ファースト・ナショナル銀行
 英国側;ナショナル・ウエストミンスター銀行、ロスチャイルド、香港上海銀行など
契約期間:金解禁省令公布(昭和4年11月21日付で井上準之助が交付した)の日より1年間」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%A7%A3%E7%A6%81

⇒米英の契約当事者を見る限り、日露戦争当時の借款団(コラム#省略)そのまま、という印象を受けますが、三谷の主張とは違って、このクレジットは、酒井一臣も上掲典拠中で示唆しているところの、今でいう国際金融マフィア的な銀行家等の個人的繋がりの結実のような気がしないでもありませんが、深入りは避けることにします。(太田)

(続く)