太田述正コラム#10758(2019.8.24)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その116)>(2019.11.12公開)

 現在においても、中国をめぐる問題が、世界と日本を揺るがしています。・・・
 <しかも、>その行動は中国周辺諸国には脅威感を与えるほどに、拡大主義的でさえあります。・・・

⇒かつての欧米帝国主義諸国や戦後の米国と比して、中共が「周辺諸国には脅威感を与えるほどに、拡大主義的でさえあ」る、とは到底言えないと思うのですが・・。(太田)

 かつて1870年代に沖縄をめぐって、緊張関係にあった日清両国は相互に緊張緩和に努力し、戦争を回避することができました。
 その際日清両国の間に立って、両国の平和への努力を助けたのは、元米国大統領のユリシーズ・グラントでした。

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[琉球処分とグラント]

 「<1879年>3月、・・・琉球を訪れた・・・琉球処分官<の>・・・松田道之・・・は、・・・軍隊300余、警官160余を率いて武力を背景に要求を提示するとともに、琉球藩を廃し沖縄県を設置する旨3月11日付けで布達し、同31日限りで王宮首里城を明け渡すよう激しく迫った。その結果、<国王の>尚泰が臣下とともに城を出たため、琉球王国は崩壊し廃藩置県が達成されることになった。
 しかし、明治政府の強行的な処分に反対する空気は根強く、不服従運動をはじめ、清国へひそかに渡航して清国当局に嘆願する動き(脱清運動)が出るなど不穏な情勢となった。清国も琉球に対する宗主権を保持するとして外交的手段を用いて日本に厳重な抗議を行ったため、琉球問題は一気に日清両国の重大事件に発展することとなった。清国当局者の一部には武力発動も辞さないとする強硬派もいたが、李鴻章は来訪中の<米>前大統領グラントに琉球問題の調停を依頼した。1879年7月、清国から来日したグラントは明治政府に対して問題の平和的解決を勧告し、これを受けて政府は清国との間に外交的折衝を開始、翌80年10月、分島・増約案を提示した。その内容は大きく分けて二つの点からなっている。一つは琉球領内のうち宮古・八重山を清国に割譲すること、一つは、そのかわりに日清修好条規(1871年締結)にうたわれている日本の最恵国待遇規定をさらに有利に追加する、というものであった。日清両国はこの線に沿って琉球問題の妥結をみたが、清国がやがて内容を不利と判断して調印を拒んだため、この案は土壇場で実現されなかった(分島問題)。」
https://kotobank.jp/word/%E7%90%89%E7%90%83%E5%87%A6%E5%88%86-149567
 松田道之(みちゆき。1839~82年)は、鳥取藩士の子。藩校と咸宜園に学び、明治維新後に内務官僚となり、明治9年(1876年)に「琉球処分官として沖縄を視察。以後、明治12年(1879年)まで琉球処分官として琉球・沖縄を三度訪問し、明治12年(1879年)の琉球処分断行に尽力した。同年、東京府知事に就任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E9%81%93%E4%B9%8B
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⇒上の囲み記事に、以前(コラム#10150で)言及したことがある、琉球を日清が分割帰属することを中心とするグラント案が出ているところ、この案を巡って日清両国政府が外交交渉をしたことは確かですが、それでもって緊張緩和したとか、戦争を回避することができたとかは、言えそうもないのであって、要は、清側は、洋務運動(1860年代前半~1890年代前半)の一環として、北洋艦隊を含む海軍建設を行ってはいた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%8B%E5%8B%99%E9%81%8B%E5%8B%95
ものの、まだ緒に就いたばかりであり、また、日本側も、明治維新後、最初は陸軍重点主義がとられた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%B5%B7%E8%BB%8D
こともあり、互いに海上を主戦場とする戦争を行いうる態勢になどなかったのが実態だと思われます。
 その5年前の台湾出兵の時に、日本は軍艦を2隻派遣した(できた)だけでしたし、その折、清は何の軍事的対応もとらなかった(とれなかった)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5
ことを思い出してください。(太田)

 今日の米国が沖縄の周辺をめぐって再び対立する日中両国の間に立って、危機の回避のために貢献することは十分に可能です。
 おそらく、そのことが日中米三国それぞれの「国益」に資することと信じます。・・・

⇒三谷には、戦後日本が、米国の属国でしかなく、従って「国益」と言えるようなものの国際主体たりえない、といった発想が皆無であるようですね。(太田)

(続く)