太田述正コラム#10762(2019.8.26)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その118)>(2019.11.14公開)

 そもそも日本近代に対する私の視野は限定されており、それはせいぜい政治経済的な分野以外には広がっていません。
 それは歴史家としてオールラウンドに全体を考察することができない私の能力の問題に原因することであるとともに、日本近代を見る歴史家として、避けることができない私特有の視覚にも由来すると思われます。
 ふりかえって、総論的なものに目標を設定しながら結果としては各論的なものを脱することができなかったことを反省しています。・・・

⇒この本が失敗作であること、ひいては、自分の研究者としての至らなさ、を自覚しているように読めそうですが、三谷が、80歳を過ぎて、なお批評眼を失わず、自分にも厳しいところは、高く評価したいと思います。
 しかし、いかんせん、どこが至らないのかが分かっていないことが、まさに三谷の致命的な問題点なのです。
 既に、記したと思いますが、「視野」が「政治経済的な分野」に「限定」されていることも褒められたことではありませんが、近現代政治史学者にとって基本中の基本であると私が考えるところの、「軍事の分野」に無知であることこそが最大の問題点であるというのに・・。
 私に言わせれば、三谷は、「オールラウンドに全体を考察することができない」以前に、「考察するための前提となる基礎的素養に欠けている」のです。
 もっとも、これは、彼の先生である丸山眞男を含め、日本の戦後の近現代史学者のほぼ全員にあてはまることですが・・。(太田)
 
 再三述べましたように、本書は私が意図したところよりも内容的には平凡であり、むしろ平凡であることがその長所の一つであるかも知れないとさえ思っています。

⇒意味不明ですし、開き直っている印象があるところは、失礼ながら、80歳過ぎという三谷の年齢を思い出させます。
 但し、但し・・。
 私がスタンフォード大学に留学して、痛感したことの一つが、ゼミ形式の授業が中心で、その場合、とにかく、何でもいいから学生が発言することが奨励されていたところ、そのメリットです。
 どんなに、くだらない発言でも、一定レベル以上の学生の発言には、それを聴かせれる側に同等以上の能力があることに加え、センスがあればですが、当該学生の挙げる事実なり論理なりが思索を深めるよすがになる場合が少なからずあります。
 ほぼ同じことが、この本に盛り込まれた三谷の諸記述についても言える、とは思いましたね。
 それがどういうことかは、この、大長編になってしまったシリーズにお付き合いいただいた読者の方々の多くには、よくお分かりのことと思います。(太田)

 私はもちろん本書が現世の読者に読まれることを望みますが、できれば後世の読者にも読まれることを望みます。
 それが不遜の言であることはよくわかっていますが、本書が試みた日本近代の初歩的な概念的把握と近代後の日本および世界への展望がどの程度に有効なものであったかを、後世の立場から検証してもらいたいと願うからです。・・・」

⇒三谷さん、まことにもって僭越ながら、「現世」の私が検証させていただいた限りにおいては、全く「有効」ではない、という結論が既に出ていますよ。(太田)

3 終わりに

 Chaseさんのご要望に応えて、まことに気が進まなかったけれど、自らを叱咤しつつ、この本を読んで批評してきたわけですが、予想通り・・いや予想未満かも・・のレベルのものであったことで、私の危機意識は一層募っています。
 というわけで、戦後の日本の近現代史の研究が絶望的に非生産的な状態であり続けてきたことが改めて確認できたところ、今や、日本の中央政治家達に加えて官僚達の劣化も目を覆うべき状態にある、というのですから、何をかいわんや、です。

(完)