太田述正コラム#10772(2019.8.31)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その5)>(有料読者:2019.8.2)(2019.11.19公開)

 「1637年(寛永14)には徳川幕府にとって・・・大大名たちの誰かが、外国人–スペイン人、ポルトガル人、またはオランダ人–と共謀して彼らと武器の取引を行ない、火砲や船舶を入手するため彼らの援助を得、その上、陸海の軍事的援助をも彼らに求めさえしかねないという恐れを抱くに十分な理由が存在した。・・・
 <そこで、>徳川家の指導者たちは、・・・可能な限り、外国の影響に対して国を閉じることによって、その危険を取払う手段を講じたのである。・・・」(228)

⇒ここは、同意です。(太田)

 「・・・19世紀の終わり頃から政治的目標をもって展開された、いわゆる「国家神道」は、チュートン民族の神話のもつ国家社会主義的こじつけとよく似かよった、そして実にそれを予想した一個の発明なのである。・・・」(229)

⇒ここは、サンソムの勉強不足です。
 国家神道は、形式的にはかつての国家神道の復活でしたし、実質的には、ずっと維持されてきたものである(コラム#10702)、からです。
 そして、現在でもまた、実質的には維持されています(コラム#10710)。
 それに、国家神道は、ナチスドイツのこじつけならぬ、サンソムの国であるイギリスの英国教的なもの、と、復活当時の日本の指導者達に認識されていました(コラム#10700)。(太田)

 「・・・委任という慣習が日本の政治生活の、そして実に社会生活の特徴だ・・・。

⇒私が指摘したところの、エージェンシー関係の重層構造(コラム#省略)、に類した指摘をサムソンが行っていることは面白いですね。(太田)

 ちょうど家族の問題が形式的には家長によって規制されながら、実際には家族会議によって規制されているように、政府の諸機能もまたしばしば支配者個人によってではなく、彼を支援する一グループによって遂行されるのである。
 そのグループがしだいに永久的な、時に世襲的な地位さえもつようになり、時の経つについれて名もない代理者たちや従属者たちの前に事実上(デ・ファクト)の権威を失ってゆくのである。

⇒ここは、私見とは少し違います。
 「支配者」は権威は維持しつつも、権力を委任していくのです。(太田)

 したがって日本史を学ぶものは、実権がどこに存在するかを見出すのに途方に暮れることがしばしばなのである。
 もちろん階級の階段を下へ向かって権威が下降する事実については、[歴史上]他の類例があるが、日本の場合、委任制度はきわめて長期にわたって維持されてきたのが特徴である。・・・
 この制度は、・・・ある種の利点をももっていた。
 <すなわち、>身分は低いが高い能力をそなえた人々に機会を与えることによって、時おり日本人の生活のもつ階層制的傾向を妨げてきたのである。・・・」(234)

⇒ここは、同意です。(太田)

 「戸外の訓練と学問的探求の両者の均衡をうまく保つような逸材は、ほんの稀れにしか現れなかった。
 五代将軍綱吉の時代(1680~1709、延宝8~宝永8)になると、武芸は無視され、シナ文学への興味が熱狂的に流行するようになった。・・・」(237)

⇒例えば、「柳生宗厳<(石舟斎)>・・・の孫・利厳は御三家尾張徳川家初代当主・徳川義直に仕えて兵法を伝授し、尾張徳川家御流儀としての新陰流の地位を確立した。その後も尾張藩では代々新陰流は特別の格式を以て遇され<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%AE%97%E5%8E%B3
ところ、利厳の更に孫の柳生厳包(としかね。連也斎。625~94年)も、尾張藩初代藩主の二代藩主の徳川光友の指南役を務め、新陰流を伝授しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%8E%B3%E5%8C%85
「綱吉の時代」においても、尾張藩士達が藩主に倣って剣道の訓練に励み、また、連也斎らが、藩士にとって一つのロールモデルになっていたことは、間違いないでしょう。
 同じことは、柳生本家が仕えた将軍家(幕府)にも、その他の諸藩についても言えるはずです。
 よって、このくだりのサンソムの記述には大いに疑問符が付きます。
 幕府、御三家、親藩、譜代を中心に、武士が文偏重になったのは、その約1世紀後に、幕府に昌平坂学問所が設けられてから(コラム#省略)、ではないでしょうか。(太田)

(続く)