太田述正コラム#10774(2019.9.1)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その6)>(2019.11.20公開)

 「・・・封建政治の型自体は固定したものであったが、それでも政治から遠く離れた分野では、ある程度の自由を許すに十分なほどリベラルであったから、18世紀には、日本は法と特権とに基づき、厳しい方針で支配されておりながら、なお実際においては、すぐれた都会風の上品さと様式とを達成する社会を発展させていたのである。
 その社会は外界の影響からは閉ざされており、それ故に、当時西洋世界で吹き始めていた新しい原理の風にあたることはできなかった。
 けれども、たぶん当時のヨーロッパのどの社会でも、日本以上に文明化され、洗練されていたとは思われないのである。・・・」(238~239)

⇒このような江戸時代の文明化度、洗練度の同時代の欧米に比しての高さについて、サンソムの具体的な説明を聞きたかったところです。(太田)

 「・・・封建支配下にあった<徳川時代>以前の時代に、すでに社会を兵士・農民・職人・商人の4つの階級に峻別する習わしがあった。
 この区別は、後期に向うほどこわれていく傾向を示したにもかかわらず、徳川時代を通じて存続した。
 17世紀と18世紀初頭には、この区別がなお原理として維持されており、ひとつの階級から他の階級へと移ることは困難であり、かつ異例であった。
 商人は社会階級の最下層に位したが、それは、農業の支配する経済のもとでは、農民が国家の支柱だからである。・・・」(241)
 
⇒ここは、サンソム、当時までの日本史の通説に拠っているので無理からぬものがあるのですが、皆さんもご存知のように誤りです。(太田)

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[江戸時代の身分制度]

 「1990年代になると[部落史研究を含む]近世史の研究が進み、士農工商という身分制度や上下関係は存在しないことが、実証的研究から明らかとな<った。>・・・
 江戸時代の諸制度に実際に現れる身分は、「士」(武士)を上位にし、農、商ではなく、「百姓」と「町人」を並べるものであった。また、「工」という概念はなく、町に住む職人は町人、村に住む職人は百姓とされた。・・・百姓・町人身分は「平人」身分としてくくら<れた。>・・・
 <このほか、>「えた」「ひにん」などと呼ばれた・・・賤民<がいた。>・・・
 <彼らに対する>差別の発生は・・・江戸以前の中世から既に存在した血や死などの「ケガレ」に関わる職業の人間への畏怖や畏敬といった感覚が、一般民衆の間で徐々にマイナスの差別意識へと変貌していった事も原因だった・・・

⇒「えた」「ひにん」差別意識は、第二次縄文モード化の帰結の一つ、と言えそうだ。(太田)

 江戸時代の職業は世襲が原則とはいえ、百姓・町人の間では職業(身分)の移動は比較的容易であり、武士の下層(徒士)や足軽との身分移動もあった。ただし、武士の中上層には身分移動はほとんどなかった。身分移動の手段としては、以下の方法が採られた。
・養子縁組・婿入り。
・御家人株の買得。
・武家奉公人からの登用。
・用人としての雇用。・・・
・帰農。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E8%BE%B2%E5%B7%A5%E5%95%86
https://www.tokyo-shoseki.co.jp/question/e/syakai.html#q5 ([]内)
 「御家人株<とは、>・・・金銭で売買される御家人の家格。江戸時代の中期以後、生活に困窮した御家人が、表面上は養子縁組みの形で、その家格を農民や町人などに売り渡すことが行なわれた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E5%AE%B6%E4%BA%BA%E6%A0%AA-500197
 「武家奉公人<とは、>・・・非武士身分の中間や小者を指<す。>・・・
 中間<とは、>・・・脇差1つを挿し・・・雑用を行った。大名行列等では奴(やっこ)の役を務めた。・・・年季契約や、必要な時のみ口入れ屋から雇い入れるということがしばしば行われた・・・
 小者<とは、>・・・私的武家奉公人。住み込みで主に雑用を行った。小人(こびと)、下男(げなん)とも言う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%A5%89%E5%85%AC%E4%BA%BA
 「用人は、主君の「公的な用向き」を藩内・家中に伝えて、相手方と折衝して庶務を司ることを役目とする。・・・
 大雑把に云って、大藩であるほど上級家臣の中でその地位は相対的に高くなく、小藩であるほどその地位は相対的に高い傾向があることは疑いがない。
 諸藩の用人は、いずれも馬上を許された上級家臣である・・・
 一部の藩では藩校の校長や助教授に用人職や用人格を兼務させており、用人として武鑑に記載される場合もあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E4%BA%BA
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(続く)