太田述正コラム#10776(2019.9.2)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その7)>(2019.11.21公開)

 「・・・大名たちに、軍備によりはむしろ享楽に富を費すことを奨励するのが、徳川の政策の一部だった・・・。
 こうして武士貴族の古き厳格なる道徳は、平和と閑暇(レジャー)とによって腐食されつつあったのである。

⇒ここは、サンソム、そもそも、間違っています。
 享保の改革、寛政の改革、は、どちらも倹約令を伴っていましたし、天保の改革は、倹約令に加えて、江戸の「歌舞伎や寄席を弾圧。市川團十郎の江戸追放や、公演場所移転、内容は勧善懲悪ものへ。絵草紙、錦絵、人情本、合巻など出版の統制を実施。人情本作家の為永春水「春色梅児誉美」、合巻作家の柳亭種彦「偽紫田舎源氏」らが処罰され・・・た。」
http://bird.blue.coocan.jp/forarai/edo_kaikaku.html
という有様だったからです。
 なお、「江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事<である、>・・・天下普請」
https://kojodan.jp/badge/23/
が諸大名に「富を費」させることが目的であったかのような誤解が一部にあるけれど、「城普請役<等の天下普請>は、元和偃武後、将軍から大名に対する軍役に代わる主要な奉公となり、石高に応じて割り当てられた。大名はそれを家臣に知行高に応じて転嫁し、それぞれの間で主従関係が強化された」
http://nozawanote.g1.xrea.com/02entrance_examination/todai/2011tokyo_univ3.html
ものであり、結果としてはともかく、目的においてそんなものではありませんでした。(太田)

 こうした状況は新しい中産階級の成長の一助となった。
 主として大都市に限られたが、彼らは気楽なくらしのできる収入をもち、また娯楽<(注4)>に熱心であった。・・・」(242~243)

 (注4)「江戸時代の娯楽は、現在の娯楽と大きな違いはありませんでした。今でいうサーカスや、ギャンブル、現在でも大人気の歌舞伎。時代は変われど人間の娯楽は大きく変わらないのかもしれません。落語もこの江戸時代に生まれました。・・・
 当時の見世物小屋は大きく分けると3種類ありました。
 一つは手品や力持ちなどの技術系の見世物小屋。・・・2つ目は珍しい動物や植物などを見せる天然物系の見世物小屋。・・・3つ目は、粘土細工のようなものや人形、籠、貝、紙、菊などの細工物系の見世物小屋。上の2つとは違い、珍しいものやびっくり人間とは違い、職人の技術を見せる、見世物小屋だったのでしょう。
 これらの見世物小屋は、農村では村祭りのときに1週間ほど興行されるだけでした。
 江戸では浅草寺、上野山下、江戸橋広小路などで頻繁に開かれていました。・・・
 江戸時代には「闘犬」「闘牛」「闘鶏」などをはじめとしたギャンブルが流行していたみたいです。これだけに収まらずクモやウグイスもギャンブルの対象になっていたようです。・・・
 これらのギャンブルよりも一番人気だったのが、サイコロ賭博でした。・・・
 当時の宝くじは「富くじ」と呼ばれ、各地の寺社が運営していました。
 この富くじは自社の修復費の費用集めとして行われていました。寺社の中でも谷中の感応寺、目黒不動、湯島天神の富くじが「江戸の三富」と呼ばれていました。・・・
 江戸で「芝居」といえば、歌舞伎の事を指していたようでした。・・・
 天保の改革では、各地にあった芝居小屋が1か所にまとめられ、猿若町と名付けられました。この町が現在の浅草です。ここに中村座、市村座、森田座の江戸三座、その他に人形浄瑠璃の芝居小屋が建てられていました。」
https://tate-school.com/archives/536

⇒ですから、「注4」も踏まえれば、「中産階級の成長」に、「諸大名<が>・・・享楽に富を費」したことが「一助となった」とは、いかなる意味においても言えそうもありません。(太田)

(続く)