太田述正コラム#10778(2019.9.3)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その8)>(2019.11.22公開)

 「・・・関ケ原戦後50年以内に約40万人の武士が浪人になったといわれる。・・・」(243)

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[浪人]

 「浪人(ろうにん)は、古代においては、戸籍に登録された地を離れて他国を流浪している者のことを意味し、浮浪とも呼ばれた。身分は囚われず全ての民衆がなりうる。江戸時代中期頃より牢人を浪人と呼ぶようになった。したがって牢人と浪人は正確には別義である。
 対して牢人は、主家を去って(あるいは失い)俸禄を失った者をいう。室町時代から江戸時代にかけての主従関係における武士のみに当てられる、いわば狭義の身分語であった。・・・
 江戸時代に入ると大名家では家臣の数が過剰になり、新規の召し抱えをあまり行わなくなった。また、儒教の影響で主従関係が固定化され、家臣が主君を見限って出奔した場合は、他の大名に「奉公構」を廻して再仕官の道を閉ざすことも行われた。・・・再仕官できない牢人が激増し、大坂の陣が起きたときには、豊臣方に10万の牢人が寄り集まっている。
 大坂の冬の陣・夏の陣で多数の牢人が殺されたが、その後も幕府の大名廃絶政策によって牢人は増え続け、三代将軍徳川家光の晩年にはその数は50万人にも達したとされる。平和な時代となり、再仕官の道は限られるようになった。新田開発や城下町建設などのために、各地で労働力が不足していたことを背景に、武士身分を捨てて町人や百姓になる者、または山田長政らのように朱印船で東南アジアへ出て、東南アジア諸国や<欧州>諸国の傭兵になる者もいたが、大部分は牢人のまま困窮の中で暮らしていた。
 当初、幕府は、大坂の陣や島原の乱に大量の牢人が加わっていたことを理由に、牢人を危険視して、市中から追放や居住制限、再仕官の禁止など厳しい政策をとった。また、幕府は、東南アジア地域における紛争を回避し、幕府の武威を守る観点から、東南アジア地域の傭兵となった牢人を国際紛争の火種として警戒した。

⇒「[シャムのアユタヤ王朝の首都の]アユタヤ日本人町は14世紀頃に始まったと思われるが、日本の戦国時代には主君を失った浪人が流れてくるようになり、急激な膨張がみられるようになった。この傾向が特に強くなるのが関ヶ原の戦い、大坂の役などの後である。当時ビルマ(現・ミャンマー)・タウングー王朝からの軍事的圧力に悩まされていたアユタヤは、このような実戦経験豊富な日本人兵を傭兵として雇い入れることでこれを阻止しようとしたねらいがあり、これが浪人のアユタヤ流入を生んだ。また、アユタヤ君主・ソンタムの治世に、ポルトガル人鉄砲隊がアユタヤによって雇い入れられていたが、タウングー王朝側もポルトガル人傭兵隊を雇い入れていたために、同士討ちを恐れたポルトガル人傭兵隊が発砲せず全く使い物にならなかったということがあり、アユタヤがポルトガル人以外の軍事力を必要としていたことも、浪人のアユタヤ流入に拍車をかけた。
 この日本人傭兵隊の勢力は200あるいは800人とも言われる勢力に膨張し、政治的にも大きな力を持つようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A6%E3%82%BF%E3%83%A4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E7%94%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%A6%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%A4%E3%83%BC%E9%83%A1 ([]内)
 山田長政(1590?~1630年)は、「日本とシャムの親善に尽くし・・・通交を求めるソンタム国王の国使に副書を託したり,幕府の重臣に手紙,贈り物などをことづけた。また,シャム産物の貿易活動も行なった。・・・
 1636~42年のオランダ東インド会社アユタヤ商館長エレミアス・ファン・フリートの『暹羅革命史話』は,シャムにおける山田長政の事跡を冷淡なほど冷静に叙述しており,長政の実像に迫るうえで価値が高い。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%94%BF-144159
 以上からも分かるように、この頃、シャムで、母国の庇護下にあった欧州人達(葡・蘭)、と、いわばデラシネであった日本人達、とが対峙していたわけだ。(太田)

 その結果、徳川秀忠及び徳川家光は、いわゆる鎖国政策の確立を通じて、朱印船貿易を廃止し、牢人の東南アジアへの渡航及び東南アジアに永住する牢人の帰国を禁じた。そのような結果として、牢人たちはますます追い詰められ、由井正雪らの幕府転覆計画(慶安の変)を引き起こすに至る。この頃より流浪する牢人や未仕官の牢人を浪人と呼ぶようになる。

⇒由井正雪は、自身もその父も、武士であったことはない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E4%BA%95%E6%AD%A3%E9%9B%AA
ので、浪人ではなかった。(太田)

 これらによって幕府は従来の政策を見直し、世嗣断絶の原因となっていた末期養子の禁を緩め、大名の改易を減らし、牢人の居住制限を緩和し、再仕官も斡旋するようになった。しかし、これ以後もさまざまな理由で主家を召し放ちとなり牢人となる者は後を絶たなかった。
 江戸時代の牢人は士籍(武士としての身分)は失っていたが、苗字帯刀は許されており、武士としては認知されていた。その日常生活は町人と同じく町奉行の支配下に置かれていた。牢人の多くは貧困で借家住まい・その日暮らしの生活を余儀なくされており、細かい手作業で身を立てたり、自暴自棄になって強盗などの犯罪に走った者もいた。
 しかし中には、武士の身分を捨てて商人として出世した者もいた。・・・近松門左衛門のように文芸の世界で成功した者や、町道場を開き武芸の指南で身を立てる者、寺子屋の師匠となり庶民の教育に貢献する者たちもいた。・・・特異な例としては、れっきとした幕府の役目を負う立場でありながら牢人の身分であった、山田浅右衛門がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AA%E4%BA%BA
 「山田 浅右衛門(やまだ あさえもん)は、江戸時代に御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名称。ただし、歴代当主には「朝右衛門」を名乗った人物もいる。死刑執行人も兼ね、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%B5%85%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80 ←一読を勧める。
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(続く)