太田述正コラム#10780(2019.9.4)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その9)>(2019.11.23公開)

 「・・・徳川中期および末期の庶民的な文学・美術の歴史をたどると、この分野で最も卓越した人物たちが武士出身の人々だったことがわかる。
 高名の劇作家近松門左衛門<(注5)>は17世紀末に活躍したが、やはり浪人であり、偉大な小説家[滝沢]馬琴<(注6)>もまたそうであった。

 (注5)1653~1725年。「本名は杉森信盛・・・近松の父である杉森信義は福井藩第三代藩主松平忠昌に・・・侍医<として>・・・仕え、忠昌の没後はその子松平昌親に分知された吉江藩(現在の鯖江市)で藩主昌親に仕えた。・・・寛文4年(1664年)ごろ、信義は吉江藩を辞し浪人となって越前を去り、京都に移り住<み、>・・・<近松は、>青年期に京都において位のある公家に仕え暮らしたと見られ<、やがて>・・・浄瑠璃を書くようになった。・・・
 現在近松の作とされている浄瑠璃は時代物が約90、世話物が24である。歌舞伎の作では約40作が認められている。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマとした作品であるが、当時人気があったのは時代物であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。・・・世話物中心に近松の浄瑠璃を捉えるのは近代以後の風潮に過ぎない。ちなみに享保8年(1723年)、幕府は心中物の上演を一切禁止している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%9D%BE%E9%96%80%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
 (注6)曲亭馬琴(1767~1848年)。「本名は瀧澤興邦・・・滝沢馬琴の名でも知られるが、これは明治以降に流布した表記である。・・・江戸深川・・・の旗本・松平信成の屋敷において、同家用人・・・の五男として生まれる。・・・<松平家に仕えた後、>・・・馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とした。・・・<その後>、版元・蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われることになった・・・<が、やがて、履>物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人・百(30歳)の婿となる・・・<も、>文筆業に打ち込むようになり、履物商はやめた。・・・
 『南総里見八犬伝』の執筆には、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)までの28年を費やし、馬琴のライフワークとなった。・・・
 <馬琴の>一人息子・・・は・・・医術を修め、・・・陸奥国梁川藩主・松前章広出入りの医者となった。馬琴の愛読者であった老公・松前道広の好意であった。<息子>が俸禄を得たことで、武家としての滝沢家の再興を悲願とする馬琴の思いの半ばは達せられたが、・・・<この息子が死去してしまい、今度は>馬琴は孫・・・に滝沢家再興の希望を託し、・・・四谷鉄砲組の御家人株を買っている<けれど、この孫が>・・・馬琴の死の翌年・・・に没し・・・<てしまい、>滝沢家は男系では絶えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B2%E4%BA%AD%E9%A6%AC%E7%90%B4

⇒近松とは違って、馬琴が、武士への未練たらたらなのはご愛敬ですね。
 以下は全くの脱線ですが、「馬琴作品に最も多く挿絵を描いた浮世絵師<は>・・・葛飾北斎」(上掲)とあったので、北斎のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E
を覗いてみたところ、滅法面白い。
 ご一読を勧めます。(太田)

 一方、多くの通俗芸術家たちは、武士の家庭から出て、「御用」絵師<(注7)>たちの弟子として修行を始めたものである。

 (注7)御用絵師。「制度として整備されたのは、永徳の孫狩野探幽が徳川家康に御目見得し、屋敷を拝領し扶持と知行地を与えられ、江戸幕府の絵師を務めたのが始まりである。以後江戸に本拠を定めた探幽の一族は4つに分立して奥絵師に任ぜられ、これを狩野四家(中橋・鍛冶橋・木挽町・浜町)と称する。また、大和絵系の住吉派、その門人の板谷家も奥絵師に任じられた。御目見え以上旗本と同格の待遇を受け、帯刀も許された。正式な儀式で直接将軍に拝謁できるようにするため、板谷家を除く奥絵師には、医師の職格である御医師並、坊主の職格の同朋頭格・同朋格などが与えられ、それぞれの職格に応じた席次や格式を許された。
 奥絵師は月に12回江戸城に出仕して必要に応じて幕府の御用に従って絵画を作成した。この4家を補佐したのが表絵師に任じられた人々で出仕義務はないものの、身分は御目見え以下の御家人と同様の待遇であった。奥絵師と表絵師を合わせて「絵師」と称し、特に幕府の御用を務めたために「御用絵師」と呼ばれたものである。また、諸大名においても同様の絵師を設置して、彼らもまた藩の御用を務めたために「御用絵師」と称せられた。その出自は狩野派の出身者が多かったが、西国では雲谷派や長谷川派の画系もみられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E7%B5%B5%E5%B8%AB

⇒御用絵師が、一般用語ではなく、こういう具体的な意味を持った言葉であるとは知りませんでした。(太田)

(続く)