太田述正コラム#10788(2019.9.8)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その13)>(2019.11.27公開)

 「・・・定信執政の時代に、朝廷の取扱いについて大失敗があって<(注13)>、朝廷貴族たちに不平をもたらすにたりる特別な理由を与えたことがある。

 (注13)尊号一件(尊号事件。1788~1792年)。「第119代光格天皇は典仁親王の子であったが、後桃園天皇が崩御したときに皇子がいなかったためにその養子となって[1780年に]即位したことにより、父よりも位が上になってしまった。しかも禁中並公家諸法度における親王の序列が摂関家よりも下であり、天皇の父が臣下である摂関家を目上としなければならないことに対しても天皇は不満を抱いた。だが、禁中並公家諸法度は江戸幕府にとっては初代徳川家康が定めた祖法であり、その改正は幕府そのものの尊厳を傷つけるものとして拒絶してくることは目に見えて明らかであった。そこで光格天皇は実父典仁親王に対して太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとした。・・・
 定信は大政委任論を根拠に天皇に代わって幕府が公家を処分できると主張して<、本件で幕府への対応にあたった>中山愛親・正親町公明らの公家に処分を下し、また九州で活動していた勤皇家の高山彦九郎を処罰した。勤皇派の水戸徳川家が定信に賛成すると、<典仁親王の弟の鷹司>輔平と<二代前の天皇(最後の女帝)であった>後桜町上皇の説得を受けて天皇も渋々尊号一件から手を引いた。定信も典仁親王に1,000石の加増をする等の待遇改善策を行うことで尊号の代償とした。
 ・・・<定信は、>「皇位についていない人間に皇号を贈る例」は後高倉院や後崇光院という先例が存在している<が、>・・・これについては「承久の乱や正平の一統(南北朝の戦い)という非常事態が生んだ産物で太平の世に挙げる先例ではない」と述べている。・・・定信は寛政の改革によって幕藩体制の再建を進めていく中で、その思想的根幹である朱子学を保護して「寛政異学の禁」や「処士横断の禁」を打ち出していた。朱子学は儒教の中でも大義名分や主君への「忠」、「君臣の別」を重んじる学派であり、特に日本では本来儒教が徳目として最も重んじていた「孝」以上に重要視された。この問題は言うなれば「忠」と「孝」の衝突であり、陽明学や古学、尊王論などの反朱子学的な(反幕藩体制につながりかねない)動きを抑圧するために強硬策を採ったことも考えられるのである。
 また、同時期に11代将軍徳川家斉は、実父の一橋治済に対して「大御所」の尊号を贈ろうとしていたが、定信は朝廷に対して尊号を拒否している手前、将軍に対しても同様に拒否をせざるをえなくなった。定信にとって一橋治済は、御三卿のひとりとして将軍位を狙える立場にあった自分を、白河藩へと放逐した政敵であり、治済が大御所として権力を掌握することに危機感を抱いていた。定信としては一橋治済の大御所就任を阻止するためにも、典仁親王への太上天皇宣下を拒否すべき立場であった。しかしこれにより家斉の不興を買った定信は、後に失脚することとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E4%B8%80%E4%BB%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87 ([]内)

⇒こういう話を書くのなら、私は、御所千度参り(注14)から始めるところです。
 光格天皇は、この事件があって幕府に対して自信を持ったからこそ、即位後8年も経った時点で、父に対する尊号贈与を行おうとした、と私は見ているからです。(太田)

 (注14)「天明7年6月7日 (1787年7月21日)に発生した、京都御所の周囲を多数の人々が廻り、千度参りをした事件。この御所千度参りは、・・・初めは数人だったが、その数は段々増えて行き、6月10日には3万人に達し、6月18日頃には7万人に達したという。御所千度参りに集まった人々は、京都やその周辺のみならず、河内や近江、大坂などから来た者もいたという。
 京都は人であふれ、後桜町上皇からは3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた。他にも、有栖川宮や一条家などでは茶が、九条家や鷹司家からは握り飯が配られた。
 この事態を憂慮した光格天皇が京都所司代を通じて江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を要求する。これは、禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為であった。そのため、天皇の叔父でもある関白鷹司輔平も厳罰を覚悟して同様の申し入れを行った。これに対して幕府は米1,500俵を京都市民への放出を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。
 この背景には、天明の大飢饉や、同年4月に徳川家斉が将軍に就任した事から徳政を求める意味もあったと思われる。また、朝廷の行動が実際の救済行動に結びついたことで、尊王論の興隆の一因となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%89%80%E5%8D%83%E5%BA%A6%E5%8F%82%E3%82%8A

 その結果、彼らは、幕府とはそもそも朝廷にそむいた逆賊的制度である、ということを証明し始めた学者たちの講義を熱心に傾聴し、1793年(寛政5)こうした貴族たちのあるもの(中山[愛親]<(注14)>と正親町[公明]<(注15)>)が天皇権力の問題についてとったひとつの立場のために、定信によって処罰されると、江戸の市民たちさえ同情を示し、こうした人物は当時の通俗小説・・・『中山物語』<(注15)>・・・の主人公にもなった。・・・」(268~269)

 (注14)1741~1814年。「寛政5年(1792年)幕府の命により武家伝奏正親町公明と共に江戸に喚問され、老中松平定信と対談釈明したが、閉門を命じられた。帰洛したのち蟄居し、議奏を罷免された。明治17年(1884年)従一位が贈られている。なお明治天皇は愛親の来孫に当たる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E6%84%9B%E8%A6%AA
 (注15)1744~1813年。尊号一件で武家伝奏を罷免された。孝明天皇の曽祖父。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%85%AC%E6%98%8E
 (注16)『中山東下記』ないし『中山伝記』の誤り。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E4%B8%80%E4%BB%B6 前掲

(続く)