太田述正コラム#10800(2019.9.14)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その19)>(2019.12.3公開)

 「・・・徳川政治の崩壊と密接に関係する一つの主要な点は、その政府の嘆かわしい財政政策であり、それはまったくと言ってよいくらい、強圧的課税、借入れ、および貨幣価値引下げに依存していた・・・。」(288)

——————————————————————————-
[江戸時代の通貨増発]

 「経済活動という面から考えると、経済拡大のためには貨幣流通量を増やすのが絶対条件だ。・・・江戸時代初期までは金鉱からの採掘量が豊富だったが、それではだんだん足りなくなってきて貨幣改鋳を行い、お金の量を増やし続けている。・・・
 金含有量を減らせば、多くの小判を作れるから、通貨増発だ。通貨を増発すればインフレに、減らせばデフレになるのだが、長い目でみれば江戸時代は物価は安定していた。・・・
 <例えば、>米価は一石が約一両程度で長期的に安定していた・・・が、短期的な変動は常に見られる。当時の米作は冷害に弱かった。何度も飢饉に見舞われ、そのたびに大量の餓死者を出した。そのため、米価は不安定だった。<しかし、>通貨増発による値上がりであれば、上がったら下がらないが、飢饉による値上がりの場合は、豊作の年には下がっている。・・・
 それは経済規模が拡大し、通貨増発の影響を吸収し経済発展に貢献していたことを意味する。通貨増発がなかったら、厳しいデフレが続き経済発展には悪影響を及ぼしていたことは間違いない。・・・
 幕末に行われた安政・万延の改鋳は開国に伴う金流出を防ぐ目的で行われたものであり、激しいインフレを招いた。これは国の内外で金と銀の交換比率が3倍も違ったために、金が大量に海外に流出したのを食い止めるために行われた<ものであり、>他に手段がなかったのだから仕方がない・・・
 <なお、>改鋳により幕府は歳入のうちかなりの部分を貨幣改鋳益で補った。」
http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-7af5.html
——————————————————————————-

⇒「貨幣価値引下げ」は「嘆かわしい財政政策」ではないことは、上の囲み記事からもお分かりいただけると思いますし、「強圧的課税」は何のことを言っているのかさっぱり分かりません。(借入れについては後述。)
 ここでも、サンソムは、「悲観主義的な物の見方に引きずられ」ているようです。(太田)

 「・・・19世紀前半に、農民の地位は実際上一般に悪化していなかったと信ずるいくつかの理由がある。
 なるほど大多数の農民、とくに辺鄙な地方の農民は、凶年には大困難に当面したし、農地で働くもっとも貧乏な百姓の運命が幸福であったと主張できる者はひとりもいない。
 けれども、外国人旅行者の地方描写や、祭礼・巡礼の記録、それからとくに農民たちの衣類・装身具・什器で今日伝えられているものから察すると、彼らは快適な生活を送り、多くの場合、生活水準は向上していたようである。
 百姓の「奢りの生活」に対する禁令が発布されたのは決していわれのないことではないと思われる。
 支配階級は、農民の贅沢についてきわめて穏当な考えを持っていたことは疑いもないが、肥沃な地方の農村社会には、貧乏な武士よりはるかに暮らしのよいもののいたことを示す多くの証拠がある。・・・」(289)

⇒さすがサンソム、と言うべきか、「悲観主義的な物の見方に引きずられ」っぱなしになることなく、いささか唐突に、ここではこういう「楽観主義的」な叙述をしてはいますが、遺憾ながら、このくだりの「楽観主義」の根拠を、彼は示していません。
 私が代って示せば、「百姓は年貢を米で納めますが新田開拓や干鰯(肥料)の普及等で、稲作の負担は格段に減りました。空いた時間と労力で野菜、砂糖、芋、絹、紙、各地の特産品が作られるようになり、それを商人が全国各地に流通させ、異国との密貿易で財を成す者も出てきました。」
https://president.jp/articles/-/25019?page=3
といったところです。
 ついでに紹介しておきますが、「逆に、武士は「石高制」で年貢や俸禄を米で受け取り、それを市場で売って現金を得ていました。生産量は増えているので米価は上昇しませんが、他の物品は庶民経済の活発化に伴って上昇したので、武士は相対的にどんどん貧しくなっていったのでした。財政難のたびに商人から借り入れ、担保に年貢の徴収権を取られる藩もあとを絶たなくなりました。」(上掲)とさ。(太田)

(続く)