太田述正コラム#10802(2019.9.15)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その20)>(2019.12.4公開)

 「・・・非常に多くの普通武士は、無気力な、時としては放縦な生活を営み、他方上級武士は、・・・水野忠成<(注23)のように、>・・・しばしば腐敗していたことは疑いないと思われる。・・・

 (注23)1763~1834年。「徳川家康の異父弟松平康元の子孫であり、彼らの生母於大の方まで遡ると水野氏ともつながっている。・・・
 旗本岡野知暁の次男として生まれる。安永7年(1778年)に2000石取りの分家旗本水野忠隣(浜町水野家)の末期養子となり、忠隣の養女を娶って家督を相続する。吉太郎と称する。10代将軍徳川家治に仕え、小納戸役・小姓を歴任、天明5年(1785年)に従五位下大和守に任官する。翌年、沼津藩主水野忠友の養子となり、その娘八重と再婚する。・・・義父の忠友は元々田沼意次の四男・意正を養子としており(水野忠徳を名乗らせる)、田沼派の中心人物だったが、意正の兄・意知の暗殺および将軍家治の死去以降、意次が急速に失脚する中で、意正の養子縁組を解消・離縁して田沼派から脱し、新たに忠成を婿に迎えた経緯があった。・・・享和2年(1802年)、忠友の死により沼津藩主を継ぎ、奏者番に任命された。翌年には寺社奉行を兼務する。以後、若年寄・側用人を歴任し、11代将軍徳川家斉の側近として擡頭する。
 文化14年(1817年)、いわゆる「寛政の遺老」松平信明の死を受けて、老中首座に就任する。義父・忠友は松平定信と対立した田沼意次派の人間であり、忠成もその人脈に連なる。忠成は家斉から政治を委任されて幕政の責任者となったが、その間は田沼時代をはるかに上回る空前の賄賂政治が横行したという。・・・
 忠成は主君家斉・・<彼は>将軍職を退い<てからも>大御所<として実権を握り続けた>・・の放埒を諫めることもなく、収賄と身びいきによる政治を行った政治家として、総じて後世の評価は低い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E6%88%90
 「信濃松本藩主だった水野忠恒は、江戸城中で、長府藩世子毛利師就に刃傷に及んで、改易となったが、忠恒の叔父、水野忠穀(ただよし)に家名存続が許され、7千石の旗本となった。
 忠穀の子水野忠友は、家重の側衆(田沼意次の相役)となり、家重の将軍就任に伴って、田沼意次に寄り添うように出世し、7千石加増で、1万4千石、沼津に城地を得る。田沼政権下で老中になり、加増を重ね、3万石となった。
 次・・・の水野忠成(ただあきら)も老中首座となって、将軍家斉の56人の子供たちの縁組に奔走し、1万石、次いでさらに1万石の加増を受け、5万石となった。
 松本7万石の旧禄までは届かないものの、城中刃傷改易から、よくここまで家禄を戻したものである。」
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/toukai/numadu.html

⇒田沼意次や田沼時代は決して「悪く」なかったわけ(コラム#10786)ですが、同じことが水野忠成や水野時代についても言える可能性が大であるところ、かかる観点からの研究は余りなされていないようですね。(太田)

 高官の示す悪い手本は、武士の行動規範の低下にあずかって力あったことが十分察せられよう。
 しかしその究極の原因は、もっと一般的かつ根本的なものである。
 すなわち、200年の平和時代を通じて、多数の特権的軍事階級が存在したという事実に内在する矛盾がそれに外ならない。
 事態は、ほとんど50万の常備軍を保有しているのとひとしかった。
 なぜなら、武士の外に相当数の従僕・従者がおり、少くとも名目上、彼等は主人に従って戦場におもむく義務を持っていた<からだ>。・・・」(293~294)

⇒江戸時代において、次第に「武士の行動規範の低下」が見られた、と言いながら、サムソンは、具体的なことを何一つ記していないので、困ってしまいます。
 下掲から窺えるのは、行動規範の低下どころか、上級武士達は余暇の過ごし方の達人、下級武士達は矜持を失わない清貧生活の達人、として、行動規範を維持し続けた、頭の下がるような彼らの姿ではないでしょうか。↓
 「武士の仕事は、現代のように時間に追われ、夜遅くまで残業するといった忙しさはありません。仕事の量に対して、武士の数が多すぎたのがその理由と言われています。
 <幕府の場合、>江戸城の警備と雑務を担っていた番方の御家人は、仕事を1日したら2日休み、というサイクルでした。
 その他にも月1回や週1回の職務もあり、平素の武士はかなりの余暇がありました。
 上級の武士達は、余暇に学問、武芸の鍛錬、趣味の時間にあてていましたが、下級旗本や御家人のほとんどは、その余暇に内職をして生活費を稼いでいました。
 では、どのような内職を行なっていたのでしょうか。それはあくまでも金儲けではなく、他家に行儀作法を教えに行ったり、代書をしたりと、武士の面目も立てながらの内職でした。
 また、屋敷の一部を町方の者に貸すことで、賃料を副収入として得ている御家人も数多くいたのです。
 ・・・傘張り・・・<や>提灯張りも内職として行なわれていました。売るために花や植木を育て、虫や小鳥も内職のために飼われています。」
https://www.touken-world.jp/tips/25559/ (太田)

(続く)