太田述正コラム#10806(2019.9.17)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その22)>(2019.12.6公開)

 「・・・競争という観念そのものが、・・・武士階級に属する者<達>・・・にとり新奇なものであり、西欧の経済学書が最初日本語に訳されたとき、それに当たる新語を作ることが必要なくらいであった。
 それは競走(race)と闘争(fight)という二語を合成したものであり、翻訳者の福沢は、この耳ざわりのする用語を聞き、彼の同僚が大きなショックを受けたと語っている。<(注24)>・・・」(295)

 (注24)「『福翁自伝』<の中で、>・・・幕府の[勘定方<の>]高官にイギリスの[チェーンバー<ズ>]の経済書の目次を翻訳することになって、その中にコンペティションという語を訳すのに「競争」と訳した所、役人は「争う」という語が気に入らない。こんな語が入ったものを御老中方には見せられないとい<った、という話が出て来る。>・・・
 <ちなみに、>『論語』<には、>・・・「子曰 君子無所争 必也射乎」子曰く、君子は争う所なし、必ずや射か=先生が言われた。君子は何事にも争わない。あるとすれば弓争いだろう<。」>(金谷治訳注 岩波文庫)」<とある。>」
http://www.alice-it.com/syohyo/fukuoujiden.html
http://kamogawa-gijyuku.jp/wp-content/uploads/10_okubo.pdf ([]内)
 「<その後、>福沢はチェンバーズ編の『Political Economy , for Use in Schools, and for Private Instruction 』の前半部、ウェーランド著の『The Elements of Political Economy』の第4編第3章の公的消費論(福沢訳では収税論)を翻訳し、それぞれ『西洋事情外篇』(慶応4(1868)年刊行)と『西洋事情二篇』(明治3(1870)年刊行)に収録し出版しています。また、『西洋事情外篇』ではチェンバーズの後半部を訳出しなかった理由として、神田・・・孝平訳の『経済小学』(原著はウイリアム・エリス著『Outlines of Social Economy』)と内容がほぼ同じであることを挙げて<いる。>」
https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/354/1/SZK0002726_20040929063121739.pdf
 「この「チェンバーズ」は著者ではなく、この教育叢書を出していた兄弟の出版業者で、著者はジョン・ヒル・バートン(1809-1881)というスコットランド人であることが、ハーバード大学のクレイグ教授の調査研究によって判明した。」
http://kbaba.asablo.jp/blog/2015/02/27/7580625

⇒サンソムは、福澤諭吉が、この「同僚」とは異なった意識を持っていることを当然視していますが、これは、サンソムが、福澤が私の言う、島津斉彬コンセンサス信奉者・・当然、日本主義者でもある・・などではなく、丸山眞男のような近代主義者・・つまりは欧米崇拝者・・の元祖的人物である、と丸山同様の先入観を抱いていたからでしょうね。
 福澤が、彼が「初めて著した経済書・・・『民間経済録』初篇・・・<全>10章<の>「第3章 倹約の事」「第4章 正直の事」「第5章 勉強の事」などは、一見、経済理論とは関係のない項目のように思われますが、<彼>は「経済に大切なるものは、智恵と倹約と正直と、此三箇条なり」と訴えている
https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/354/1/SZK0002726_20040929063121739.pdf
ところを見ると、彼自身も、経済人が「競争」することが余りお好きではなかった可能性があるのです。
 「江戸時代の1673年(延宝元年)に「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせた、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業<し、>現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした」三井、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B6%8A
や、中興の祖とされる住友友芳(1670~1720年)の時からと考えられるところの、「我営業ハ確実ヲ旨トシ,時勢ノ変遷,理財ノ得失ヲ計リテ之ヲ興廃シ,苟クモ浮利ニ趨リ軽進ス可ラザル事」なる家法を堅持してきた住友、
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E5%8F%8B%E8%8A%B3-1084552
、が、それぞれ、福澤の言う、「正直」と「勉強」に相当する経営方針を踏襲してきたことは興味深いものがあります。
 そして、三代目当主の時から代々、吉左衛門を襲名するようになったところの、住友、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E8%B2%A1%E9%96%A5
が象徴しているように、日本の企業は永続性を追求してきたのであって、そのためには、利益の追求ではなく、倹約、つまりはコストの低減、を旨とし、その結果として社会に貢献する存在たるべきことを旨としてきたわけです。
 福澤は、このような、反資本主義的であるところの、日本の企業、経済人の在り方を是としていた、と、私は見ているところです。(太田)

(続く)