太田述正コラム#10808(2019.9.18)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その23)>(2019.12.7公開)

 「・・・江戸時代における農民反乱の全過程を通じて顕著な特色は、不幸な彼らが、大名や武士たちの持つ自分たちの生命を支配する権利を、疑問なしに容認していたことであった。
 彼らは過酷な法に挑戦しようとはせず、その濫用に抵抗したのである。

⇒「不幸な彼ら」や、「大名や武士たちの持つ自分たち<(農民)>の生命を支配する権利」や、「過酷な法」、といったおどろおどろしい諸表現は、やはり、サンソムが、日本の当時の悲観主義的通説の影響下で筆が滑った、といったところでしょうね。(太田)

 またその際彼らは、多くの場合封建的特権を圧迫するよりも獲得しようとして戦い、ごく僅かだが自治共同体の設置に成功の例もみられた15世紀の農村の土一揆といささか相違していた。・・・

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[土一揆と国一揆と一向一揆]

〇土一揆

 つちいっき。「室町時代,農民が年貢・公事(くじ)の減免や徳政を要求して,荘園領主,守護,酒屋・土倉(どそう)といった高利貸資本などの支配者勢力に対して行った武装蜂起(ほうき)。
 交通労働者である馬借(ばしゃく)<(注25)>が多数参加した馬借一揆,また徳政<(注26)>の要求を掲げた徳政一揆などがしきりにおこった。

 (注25)「馬借は運輸業のみではなく農耕にも携わっていたから,実際は農民の一揆と馬借の蜂起とは区別しがたいのである。」
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%9C%9F%E4%B8%80%E6%8F%86-532568#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2
 (注26)「当時、動産・不動産の所有権は、売買などが行われたとしても、本来は元の所有者が保持しているのがあるべき姿だとする観念が存在しており、あるべき姿=元の所有者へ所有権を戻すことこそ、正しい政治=徳政であるという思想が広く浸透していた。
 百姓らにとって、そうした徳政を要求することは、当然の権利と認識されており、経済的な困窮が土一揆の主要因だったとは言えない。
 天皇や将軍の代替わり時には、徳政を行うべき機会として、土一揆が発生することが多かった。
 次第に土一揆は頻発していき、毎年のように見られるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%B8%80%E6%8F%86

 おもに荘園村落内の地侍・名主(みょうしゅ)が指導層を形成。
 名主層の小領主化に伴い,16世紀には戦国大名の領国支配と戦った一向一揆を除いてほぼ終息した。
 おもなものとして正長(しょうちょう)の土一揆(徳政一揆),播磨の土一揆,嘉吉(かきつ)の土一揆(徳政一揆)などが知られる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%9F%E4%B8%80%E6%8F%86-99268
 「正長の土一揆<は、>・・・1428年(正長1)8月に近江・・・より始まり、京都、奈良さらに畿内近国へと広がった、徳政を求める土民(百姓)の一揆。以後15世紀から16世紀にかけて各地で蜂起する大規模な徳政一揆の先駆けとなるもので、・・・のちに興福寺大乗院門跡尋尊(じんそん)は「日本開白(闢)以来、土民蜂起これ初めなり」と記している。このとき幕府の徳政令は発布されなかったが、28年から翌年にかけて各地でさまざまな徳政が実施された。京都の土一揆は東寺を拠点に市中の土倉、酒屋に押し寄せ、借銭、質物を取り返す私徳政を行い、奈良では興福寺に徳政令を出させることに成功している。また柳生の徳政碑文は、里別に徳政が行われたことを物語っている。この土一揆の規模は、伊賀、伊勢、大和、紀伊、和泉、河内、丹波、摂津、播磨に及ぶもので、荘園制支配のもとでの年貢収奪に加え、それに吸着して、深く浸透してくる高利貸資本の収奪に苦しんでいた広範な民衆を巻き込んで展開された。」
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%9C%9F%E4%B8%80%E6%8F%86-532568#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 前掲

〇国一揆

 「南北朝時代、室町時代の領主層<(国人)>による領主権の確保を目的とした連合形態(一揆)を言う。国一揆が形成される要因のひとつとして外部からの政治的圧力の介入などが挙げられ、それらに対抗する為の軍事的共同形態的な結び付きが強く、目的が達成される、あるいは脅威が去った際には国一揆は解体される。・・・
 国一揆が形成される契機として主に以下のような要因が挙げられる。
・一定の政治的意図をもって上から組織される場合(南九州国人一揆など)
・新任の守護に軍事的に対抗し組織される場合(安芸国人一揆など)
・既存守護勢力の追放を目的として組織される場合(山城国一揆など)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%B8%80%E6%8F%86
 「国人<とは、>室町時代の「在地領主」で多くの場合、守護の家臣になっていない、その国「はえぬきの武士」(地侍など) <のこと。>・・・
 一般的に国人が起こした一揆のことを国一揆というが、山城国一揆は惣の農民らが参加している点で惣国一揆ともいうことができる。・・・
 山城国一揆(やましろのくにいっき)は、文明17年(1485年)、山城国(現在の京都府南部)南半の上三郡・・・で国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行った事をいう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E5%9B%BD%E4%B8%80%E6%8F%86

〇一向一揆

 「浄土真宗本願寺教団によって組織された、僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的自治、一揆の事である。本願寺派に属する寺院、道場を中心に、・・・教義に従う土豪的武士や、自治的な惣村に集結する農民が地域的に強固な信仰組織を形成していた。・・・
 史上初の一向一揆<は、>・・・近江・金森合戦(1466年(文正元年))<だが、>・・・1488年(長享2年)、加賀守護富樫政親を滅ぼすことでその勢力を世に知らしめる。・・・
 しかし、1580年(天正8年)、信長との抗争に敗れて顕如が石山本願寺を退去した後は、本願寺の分裂騒動もあって一向一揆という名称は見られなくなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
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⇒サンソムは、土一揆と国一揆とを混同しているようにも思えます。
 いずれにせよ、彼は、室町時代の日本についての認識には、当時の通説に影響されているのでしょうが、根本的な誤解があるようです。
 私見では、世の中が乱れていた室町時代、就中、戦国時代、と雖も、国人にせよ農民にせよ、中央/地方政府に対する根本的信頼感は失われておらず、だからこそ、土一揆の多くは本来あるべき政治、すなわち「徳政」、を求めたのですし、国一揆も、「徳政」をそういうものとして捉えれば目的は同じであって、しかるがゆえに、目的さえ達成されれば、土一揆も国一揆も解体されたのです。
 また、こういった構図は、江戸時代の農民一揆においても基本的には同じである、とも。(太田)
 
 それゆえ、・・・18世紀後期および19世紀の初期の農民反乱は、倒幕を意図した社会革命の第一段階であるという論を容認することは困難である。
 極東史研究に紋切型の分析用語–それがヨーロッパ史に妥当するかどうかはわからないけれども–を適用する場合には、容易に過誤と混乱に陥りがちである。・・・」(297)

⇒このくだりは、「農民反乱」というおどろおどろしい表現を除き、全くもってその通り、とサンソムを褒めたいですね。(太田)

(続く)