太田述正コラム#10982(2019.12.14)
<皆さんとディスカッション(続x4286)/G・B・サンソムの日本史観と戦後日本 3–弥生性をめぐって(支那篇)>

<太田>(ツイッターより)

 「…6~9日に実施した…世論調査で、安倍内閣の支持率は…40.6%、不支持率は…35.3%となった。…」
https://www.msn.com/ja-jp/news/politics/%E5%86%85%E9%96%A3%E6%94%AF%E6%8C%81%E6%80%A5%E8%90%BD%ef%bc%94%ef%bc%90%ef%bc%8e%ef%bc%96percent%ef%bc%9d%E3%80%8C%E6%A1%9C%E3%80%8D%E5%BD%B1%E9%9F%BF%E3%80%81%E3%80%8C%E6%A3%AE%E5%8F%8B%E3%80%8D%E4%BB%A5%E6%9D%A5%E3%81%AE%E4%B8%8B%E8%90%BD%E2%80%95%E6%99%82%E4%BA%8B%E4%B8%96%E8%AB%96%E8%AA%BF%E6%9F%BB/ar-AAK5br8?ocid=spartanntp
 未だに支持の方が多いってのには呆れる。
 「安倍首相補佐官と厚労省女性幹部が公費で…京都不倫出張…」
https://bunshun.jp/articles/-/18634報道(11日)でも不支持は上回らないだろな。

 「…米国の主要10校への…日本人…MBA留学生は減少している。…」
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53357040T11C19A2EA5000/
 一見もっともらしい説明がされているが、前から指摘してきているところの、MBA、とりわけ米MBA資格が実際の仕事に余り役に立たないことに加え、最近私が指摘し始めた日本人の知能の低下、の影響もあるのでは?

<HH>

 ・・・ポルノ世界観<(コラム#10980)>、昨日からツイッター世界では結構、注目されていますね。
 一路一帯と言うよりは、大東亜共栄圏な復活だとか、大日本変態帝国対レズビアン帝国なんて、どちらかと言うと杉山構想の実現、或いは復活と受け止めた方が日本人は多そうです(笑)。・・・

<bcVHHXuk>(「たった一人の反乱(避難所)」より)

 「静岡市、宗教上で学校給食を食べられない子供への配慮検討・・・」
https://snjpn.net/archives/171261
 「「静岡市にモスクを」 教徒の互助団体が建設計画・・・」
https://www.asahi.com/articles/ASHDY6THRHDYUTPB00C.html

 こういう記事をみつけると習ちゃんのウイグル政策も間違っていないのかな、と思う。

⇒輸血ダメとかいうのと同じで、はた迷惑な独善でしかない、という感覚が世界の人々の過半で共有されるようになるのはいつのことやら。(太田)

<太田>

 それでは、その他の記事の紹介です。

 一体これはなんじゃらほい。
 モチ、本人自身が(日本文であれ)書くワケがないが・・。
 御主人のトランプ旦那、怒らないかしら。↓

 All nations should have universal health care–
 Shinzo Abe is prime minister of Japan. Tedros Adhanom Ghebreyesus is director-general of the World Health Organization.・・・
https://www.washingtonpost.com/opinions/global-opinions/all-nations-should-have-universal-health-care/2019/12/12/9594269c-1c47-11ea-8d58-5ac3600967a1_story.html

 日・文カルト問題。

 <アイゴー。↓>
 「親北集会と<金正恩>偶像崇拝
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/12/13/2019121380076.html
 「【社説】駐韓米国大使斬首集会とは何事か・・・
 彼らが今回のコンテストを通じて狙っているのは韓米同盟の亀裂加速化、反米感情の刺激、米軍撤収世論の造成などだろう。このどれも北朝鮮に得となるが、逆に大韓民国の国益と同盟利益には反するものばかりだ。・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/260514
 「イラン外務省「原油代7兆ウォン支払え」…韓国外交、中東でも非常事態–米国による制裁で決済不能、イランは先月韓国大使を呼んで異例の抗議–韓国政府は特使を派遣するも成果なし–ホルムズ海峡の有志連合参加も大きな負担・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/12/14/2019121480007.html
 「・・・米ハーバード大学の著名な経済学者は一昨日、文在寅政権の経済政策を「所得主導成長」ではなく「所得主導貧困(income-led poverty)」だと批判した。間違った政策が貧困層をさらに貧しくして、住宅価格も二極化させている。・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/12/13/2019121380085.html
 Depression on the Rise Among Young Koreans・・・
http://english.chosun.com/site/data/html_dir/2019/12/14/2019121400440.html
 「男性喫煙率31.6% OECD主要国で2番目の高さ=韓国・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20191213002000882?section=society-culture/index
 <文教祖、完全に狂気の世界。↓>
 「文大統領「臨時政府100周年…特権政治・経済的不平等を振り返る時」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/260511
 <教祖の狂気が伝染したか?↓>
 「「同志たちのそばに」出獄後も中国に向かった崔養玉志士・・・」
http://www.donga.com/jp/home/article/all/20191214/1927157/1/%E3%80%8C%E5%90%8C%E5%BF%97%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E3%81%9D%E3%81%B0%E3%81%AB%E3%80%8D%E5%87%BA%E7%8D%84%E5%BE%8C%E3%82%82%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AB%E5%90%91%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%B4%94%E9%A4%8A%E7%8E%89%E5%BF%97%E5%A3%AB

 まるっきり逆の評価も出て来てるね。
 一体、どっちが正しい?↓

 Opinion: Unlike Ukraine, Trump’s China deal actually takes American interests into account–
 President Trump, shown speaking in Washington on Thursday, announced a preliminary trade deal with China whose biggest beneficiaries appear to be a key member of his political base: U.S. farmers.・・・
https://www.latimes.com/opinion/story/2019-12-13/

 いずれにせよ、香港問題等もこれあり、習ちゃんはおかんむりのご様子。↓

 China’s foreign minister Friday called the United States the “troublemaker of the world” and threatened to “sever the black hands” supporting protests in Hong Kong, in strident language that was markedly at odds with rosy trade talk from Washington.
 Just hours after White House officials said that President Trump had approved a proposed U.S.-China trade deal, China’s top diplomat took to a stage in Beijing to say that the United States needed to “calm down” and step back from confrontation.
 Washington had “launched deliberate attacks and defamation” against China over its “territorial sovereignty, national dignity and core interests,” Wang Yi told a diplomatic conference in Beijing, to an extent that the United States appeared “almost paranoid.”・・・
https://www.washingtonpost.com/world/asia_pacific/chinese-foreign-minister-calls-us-the-troublemaker-of-the-world/2019/12/13/ce58a184-1d77-11ea-977a-15a6710ed6da_story.html

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <人民網より。
 日中交流人士モノ。↓>
 「鳩山由紀夫元首相「米国の対中経済圧力はグローバル化進行の法則に背く」・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/1213/c94474-9640478.html
 「koki,がアモイに登場、真っ赤なリップできらめく笑顔 福建省・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/1213/c94638-9640427.html
 <今でも続く、日本へ行けキャンペーン。↓>
 「桜だけじゃない!絶対見逃せない日本の美しい花々・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/1213/c206603-9640396.html
 <ここからは、サーチナより。
 定番。↓>
 「日本人は災害に向けて各家庭でしっかりと備蓄をしているらしいぞ! 中国ネットの声は・・・今日頭条・・・」
http://news.searchina.net/id/1685192?page=1
 <同じく。↓>
 「BtoB分野を見てみろ! 日本の製造業が没落したなんて言えないぞ・・・今日頭条・・・」
http://news.searchina.net/id/1685195?page=1
 <これもそう。↓>
 「これが日本の「ものづくりの職人」、「はさみ」ですら一生ものに・・・今日頭条・・・」
http://news.searchina.net/id/1685202?page=1
 <これもまたそう。↓>
 「日本人の「きれい好き」は尋常じゃない「毎日風呂に入るし、服装も清潔だし」・・・今日頭条・・・」
http://news.searchina.net/id/1685203?page=1
 <これもまたまたそう。↓>
 「人命を大切にしている証拠! 日本の集合住宅にある「ベランダはすばらしい」・・・今日頭条・・・」
http://news.searchina.net/id/1685204?page=1
 <これもまたX3そう。↓>
 「日本の交通インフラの凄さ・・・日本こそ「基建狂魔だった」・・・今日頭条・・・」
http://news.searchina.net/id/1685205?page=1
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 一人題名のない音楽会です。
 広義のドイツ圏の、戦前のものを中心にした歌謡曲集です。
 時間がなくて、各曲について、充分調べがつきませんでした。

Rivkele(Rebeka)(Yiddish Tango) 作曲:Zygmunt Białostocki 歌唱: Olga Avigail ピアノ: Hadrian Tabęcki バンドネオン: Grzegorz Bożewicz ギター: Piotr Malicki
https://www.youtube.com/watch?v=ENSFSYqqfOk

Papirosen (Cigarettes) 歌唱:Elisheva Edelson
https://www.youtube.com/watch?v=Di3R0mk3gEA

Zog nit kein mol (Jewish Partisan’s Anthem) 作曲: Dmitri Pokrass 作詩:Hirsch Glik 歌唱:Chava Alberstein –
https://www.youtube.com/watch?v=-wgYnYSg3Zs

Stare polskie tango: ‘Już nigdy !’(1930年)  作曲:Jerzy Petersburski 作詩:Andrzej Włast 歌唱:Sława Przybylska
https://www.youtube.com/watch?v=PwxRvmhzulA

Jedna, Jedyna(My one and only)(Stare Polskie Tango)(1938年) 作曲:Henryk Wars 作詩:Emmanuel Schlechter 歌唱:Mieczysław Fogg
https://www.youtube.com/watch?v=OhR1z7PKJro

Ostatnia niedziela(The Last Sunday)(1936年) 作曲:Jerzy Petersburski 作詞:Zenon Friedwald 歌唱:Mieczysław Fogg
https://www.youtube.com/watch?v=N-hg58QQmdc

Siedzieliśmy na dachu 歌唱:Sława Przybylska 
https://www.youtube.com/watch?v=zgcVDLKMtRQ

Russische Nächte(2012年) 歌唱:Maria Levin(注)
https://www.youtube.com/watch?v=Rwk8BGxbEBg

(注)1984年~。ドイツの歌手。
https://de.wikipedia.org/wiki/Maria_Levin
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<太田>

 朝、Alexaと呼びかけてもAmazonのスマートスピーカーが2台とも機能せず、設定をいじくりまわしたがダメ。
 通常のコンセントからX299パソコンを起動したらインターネットがそもそも繋がっていないことが判明。
 で、例によって、ルーター等の電源の抜き差しをやったのだが、今度はルーターに電源が入らなくなり、コンセントをとっかえひっかえしているうちにようやくインターネットが回復。
 やめてくれー、と叫びたくなりました。
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     –G・B・サンソムの日本史観と戦後日本 3–弥生性をめぐって(支那篇)–

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1 始めに
2 支那
 (1)支那の偏頗な弥生性はどうして?
 (2)漢人文明について
  ア 四夷
  イ 夏–漢人文明の成立
 [遊牧の始まり・馬の家畜化]
  ウ 殷(前17世紀頃~前1046年頃)
  エ 西周(前1046年頃~前771年)
  オ 春秋戦国時代
  ・春秋時代(前770~前403年)
  ・戦国時代(前403~前221年)
 (3)秦(前221~前206年)
  ア 始皇帝による封建制の放擲
 [周時代の封建制の特異性]
  イ 秦の偏頗な弥生性
 [『孫子』の罪]
 [李牧–漢人文明の対遊牧民集団戦の理念型の創造者]
 [秦と漢の兵力構成の違い]
 [蒙恬の匈奴「討伐」の「遺産」]
 [中央集権制(郡県制)の弊害]
  ウ 総括
 (4)漢(前206~後220年)–偏頗な弥生性の「伝統」化
 [匈奴と鮮卑(含む・三国時代~西晋)]
 [李陵]
 (5)五胡十六国時代から元まで(304~1368年)
 [貴族から科挙出身者へ]
 (6)明(1368~1644年)–アポリア
 [北虜南倭]
 (7)清(1644~1911年)–しんがり
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1 始めに

 前に(コラム#10948で)記した事情から、今回は「支那の偏頗な弥生性」についてお話ししたいと思います。
 話を聞かされたけれど、十分整理されていないし切れ味も鈍い、と思われる方があるかもしれませんが、その理由については、その時にも申し上げたように、
一、私の支那史の知識が、というか、漢人文明の知識が、インド文明に毛が生えた程度のレベルであること。(=アングロサクソン文明はもとより、欧州文明やイスラム文明未満のレベルであること。)
二、支那史/漢人文明の研究成果に、中共においては政治的制約から、日本においては戦前からの内在的制約に加えて戦後特有の内在的制約から、また欧米においては戦後の中共、そして戦前からの支那、ひいてはオリエント、に対する偏見から、見るべきものが乏しいこと。
という二要因が大きい、ということに一応しておきたいと思います。

2 支那

 (1)支那の偏頗な弥生性はどうして?

 毛沢東は、日本の弥生性と縄文性に関し、支那は両者とも殆ど欠けている、という認識の下、その十全な両者を含む日本文明の総体を継受するためにも、支那におけるこの両者の毀損原因を探し求め始めたに違いない、と私は想像しているのですが、現在の中共当局によるところの、弥生性の毀損原因についての中間的結論の一部らしきものを、最近見つけました。↓

 「日本には武士が存在し、中国には存在しなかったのはなぜだ=中国メディア 2016-01-29 10:41

 中国メディアの騰訊新聞は<、2016年1月>26日、「なぜ、日本には武士が存在し、中国には存在しなかったのか」と題する記事を掲載した。中国では「武士」や「武士道」が「軍国主義の原因」と否定的に紹介される場合が多いが、同記事は日本と中国の国情と歴史的発展の違いを客観的に説明した。
 記事はまず、過去の「農耕時代」には生産性が低かったたために土地争いが深刻であり、兵力の多い者が大きな権力を握ることになったと紹介。土地を確保するために「武士階級」が出現したのは、日本だけでなく古い時代の中国も同じと論じた。
 違いとしては、中国では武士階級が早い時期に消失したのに比べ日本では「源平の戦い」以降、700年も武士による「軍政」が継続したと指摘。1885年に内閣制度が発足してから1945年の終戦までに29人が首相となったが、うち25人までが武士階級の出身だったことにも触れた。
 記事は、中国で武士階級が消滅した原因として、中国が大陸国家であり、「内陸部から来る勢力との衝突」がしばしば発生し、「大統一により力量を集中させる」方向に歴史が動いたのに対して、日本は小さな島国で、さらに耕作可能な土地が沿岸の小さな平野や、山に囲まれた盆地しかなかったので、大きく広がるよりも、地方ごとに別れる「割拠主義」が強くなったと論じた。
 中国にも漢代末期、唐朝末期や宋代には地方で軍事勢力が割拠する場面もあったが、地方が割拠するままで歴史が推移していくのではなく、中央政権が地方割拠の問題を解決できなければ、「地方出身の勢力」によって王朝が交代することになったと指摘した。
 日本では、大化の改新で租庸調や班田収授の中央集権制度を設けたが、地方からは不満が出たと紹介。結局は、荘園が中央政府に従わなくなり、天皇の政治的影響力は衰微したと論じた。そして、地方の武士勢力が日本史の主役になったと説明した。
 記事は、「中央政権が全国を一律に統治する」時代を「帝国時代」と表現。日本が「帝国時代」を迎えたのは明治時代であり、極めて遅かったと指摘。一方、中国は極めて早く「帝国時代」を迎えたが社会は安定せず、再び分裂時代に戻ることもあったと説明し、「帝国時代」の経験について日中は「両極端」だったと主張した。
 中国でも古い時代には「士大夫階級」が文武両道に励んだが、「帝国時代」になってからは地方士族として「文教」を担うだけの存在なった。一方で、武官は中央宮廷に仕える存在となった。記事は、中国の「武官」は日本の武士とは性格が異なったと指摘した。
 日本では、地方領主と家臣である武士の間に「人間的つながり」が発生し、武士は中央の統治者とは関係なく禄を食むことになった。そして日本の武士は中国の古い士大夫と同様に、軍事だけでなく文教、芸術、思想、技術をたしなむ「中間階級」となったと指摘。幕末には基本的に武士が変革の中心勢力となり、尊王攘夷と明治維新を行ったのは「決して偶然ではない」と論じた。
◆解説◆
 日本では、江戸時代に完成された武士による統治システムが、「公(おおやけ)」の概念を発展させやすくしたとの指摘もある。武士が仕えたそれぞれの「主家」は、中国の「中央王朝」ほど大きな規模ではないので、「皆のため」との感覚を持ちやすかったとの説だ。農民が農村内部の意志決定をする際には、「寄り合い」という合議制が機能したので、やはり「公」の意識を持ちやすかったという。
 清朝は1840~42年のアヘン戦争<に>敗れると、英国に対して香港の割譲を比較的あっさりと認めた。中央集権の感覚が極めて強く、国家そのものが「皇帝の私有物」だったので、皇帝を守るためならば「財産の割譲」に対する抵抗感は比較的小さかった。
 一方で、長州藩は1863~64年の下関戦争に敗北した際の談判で、再攻撃される危険がありながら列強に対して彦島の租借を断固として拒否したとされる(疑問視する説もある)。武士にとって藩領は「父祖が血で獲得したもの。今は公共物」であり、藩の生き残りのためとしても差し出すことに大きな抵抗感があったと解釈できる。(編集担当:如月隼人)」
http://news.searchina.net/id/1601128?page=1

 このサーチナ記事・・サーチナ自身による「解説」も、まるで習ちゃんが乗り移ったかのように、なかなかの力作です・・が出た当時、私は、既に、中共官民の日本文明総体継受コーナーを「ディスカッション」に設けていたはずなのに、この記事を紹介した記憶がありませんが、それがどうしてなのか、不思議です。
 とまれ、中共当局は、支那が封建制を早期に放擲したことが支那における偏頗な弥生性に繋がった、と考えているわけであり、私は、それが一要因であったことは確かだけれど、それが全てではない、と思っています。
 (中共当局も恐らく私と似たような見解であろうところ、種々の政治的配慮から、封建制放擲の一点に絞った形で中間的結論を表明している、ということなのではないでしょうか。)
 しかし、そもそも、お前の言う、偏頗な弥生性、とは何かですって?
 いや、まずは、私の話をお聞きください。
 いずれにせよ、見てくれはともかく、そうむつかしい話ではありませんよ。

 (2)漢人文明について

  ア 四夷

 四夷について、岡田英弘・・改めて紹介の要はないでしょう・・は、以下のような指摘をしています。↓

 「古代、洛陽盆地の東方に広がる黄河、淮河、長江の大デルタ地帯に住み、農業と漁業で生活を立て、河川と湖沼を舟をあやつって往来する人々を『夷』(い)といった。「夷」は「低」「底」と同じく「低地人」という意味で、東方の住人なので「東夷」ともいう。

⇒私は、これまで、どうやら、「東夷」の(少なくとも最初の)意味を誤解していた(コラム#10814)ようですね。(太田)

 洛陽盆地の北方では、黄土高原東部の山西高原がモンゴル高原から南に突き出して黄河の北岸に接している。山西高原は、古くはカエデ、シナノキ、カバ、チョウセンマツ、カシ、クルミ、ニレなどの森林におおわれ、陰山山脈や大興安嶺山脈の森林に連なっていた。この森林地帯に住む狩猟民は、毛皮や高麗人参を平原の農耕民にもたらし、農産物を手に入れる交易を行っていた。この狩猟民を『狄』(てき)と言った。「狄」は交易の「易」と同じ意味で、北方の住民なので「北狄」ともいう。
 洛陽盆地の西方の、甘粛省南部の草原に住んでいた遊牧民は、平原の農耕民のところへ羊毛をもってやって来た。かれらは『戎』(じゅう)といった。「戎」は「絨」と同じく羊毛という意味で、西方の住人なので「西戎」ともいう。
 洛陽盆地の南方の山岳地帯には、焼き畑を耕す農耕民が住んでいた。かれを『蛮』(ばん)といった。「蛮」はかれらの言葉で人という意味で、南方の住人なので「南蛮」ともいう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%B7

 ここで早くも脱線です。
 四夷の話そのものが脱線ではないかって?
 そんなこと言わずにご清聴願います。↓

 「習近平政権の事実上のナンバー2だった王岐山(当時中央政治局常務委員)は<、>2015年4月、フランシス・フクヤマら中南海を訪れた外国人に、岡田およびその著作について下記のように論じたという。
 …去年、岡田英弘の歴史書を読みました。そのあとで、私はこの人物の傾向と立ち位置を理解しました。彼は日本の伝統的な史学に対し懐疑を示し、日本史学界から“蔑視派”と呼ばれています。彼は第三世代(白鳥庫吉、和田清につぐ?)の“掌門人(学派のトップ)”です。モンゴル史、ヨーロッパと中国の間の地域に対するミクロ的な調査が素晴らしく、民族言語学に対しても非常に深い技術と知識をもっており、とくに語根学に長けています。彼は1931年生まれで、91年に発表した本で、史学界で名を成しました。これは彼が初めてマクロな視点で書いた本で、それまではミクロ視点の研究をやっていたのです。私はまずミクロ視点で研究してこそ、ミクロからマクロ視点に昇華できるのだと思います。大量のミクロ研究が基礎にあってまさにマクロ的にできるのです。…」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E8%8B%B1%E5%BC%98
 王岐山、ガクあるねー、それにしても、中共当局の日本への関心の高さはスゴイね、って感じですが、ここから、岡田が中共当局に高く評価されていることが窺えることもあり、ここで岡田の四夷観を紹介した次第です。
 なお、王岐山が、フクヤマがいる場でわざわざ岡田を持ち出したのは、フクヤマに歴史学に係るミクロ視点での研究の蓄積がないことを批判する含意があったとも考えられ、更に言えば、フクヤマが日系人なのに日本の戦前史を暗黒視していることを批判する含意すらあった可能性があります。
 そうだとすれば、まさに、私がフクヤマに言いたいことを王岐山が代弁してくれた、と拍手したいところです。

 さて、話を戻し、以上の内容に関しては、岡田の四夷観の正しさを信じることとし、先に進みます。
 ここでは、とにかく、北狄と西戎が遊牧民集団であった、ということを記憶にとどめておいてください。

  イ 夏–漢人文明の成立

 岡田は、次のように続けています。↓

 「これらの生活様式の異なった人々(『東夷人』『北狄人』『西戎人』『南蛮人』)は、定期的に交易のために集まり、かれらの生活圏であった境の洛陽盆地やその周辺で互いに接触した。やがて、この人々が交易を行う場所に都市が発生したとされ、彼らが混ざり合って古代<支那>人の起源になった。
 黄河流域で最初に勢力をふるった「国」は『夏』である。夏人は、東南アジア系の文化をもった東夷で、内陸の水路をさかのぼってやってきて、河南省の黄河中流域に伝説の残る最古の王権を建てた。「夏」は「賈」や「価」と同じ意味で、夏人は「商人」を意味した。
 夏を征服して黄河流域に新しい王権を打ち立てたのが、北方の森林地帯から親友した狩猟民(北狄)の殷人であった。個人とその同盟種族は黄河流域の諸都市を支配し、その城壁の中では東夷系、北狄系、西戎系の人々が入り交じっていた。
 周人よりさらにおくれて、西方から隴西省に入ってきた遊牧民が秦人である。これに対して、長江中流域の湖北省には、山地の焼畑農耕民(南蛮)出身の楚人が王国を建て、長江、淮河流域を支配して黄河流域の諸国と争った。かれらが<支那>人の先祖となった人々である。」(上掲)

 つまり、岡田は、支那の最初の王朝と言ってもよさそうな夏は、東夷だったと言うのです。
 しかし、私は、中共の最近の通説であるらしいところの、夏・・夏という王朝だったのか文化地域にすぎなかったのかはともかくとして・・が、四夷の諸文化/文明とは画然と区別されるところの、漢人文明の濫觴たる王朝ないし文化/文明地域なのであって、その社会は、畑作農業兼狩猟社会であった、と見たいと思っています。
 (なお、殷についての指摘にも違和感があります。但し、秦についての指摘は、当たらずと雖も遠からず、のように思います。(いずれも、後述するところを参照のこと。)
 いずれにせよ、最新の中共における考古学的諸発見を参照することができなかったと思われる時点での岡田の諸指摘をもって岡田を批判することは差し控えるべきでしょう。)
 その根拠は次の通りです。↓

 <夏(二里頭文化)の社会は畑作農業を主としていた。↓>
 「宮殿を持つ都市文化である河南省偃師の二里頭<(にりとう)>村の二里頭遺跡が、炭素14年代測定法により、殷の建国(二里岡<(にりこう)>文化)に先行していることが確定しており、また後から力を伸ばした殷はこの二里頭文化を征服して建国し、文化を継承した形跡が見られる。したがってこの二里頭文化が、史書のいう夏の時代に相当することになる。・・・
 二里頭遺跡は新石器時代の遺跡で、掘り出された住居の跡から人口2万人以上と推定され、当時としては世界有数の大規模集落である。・・・
 また、二里頭遺跡周辺の当時の土壌に残る種子の分析から、粟(あわ)、黍、小麦、大豆、水稲の五穀を栽培していた痕跡がある。これにより、気候によらず安定した食料供給が可能となったと考えられる。これが、それまでに衰退した他の<支那>の新石器時代に起こった各文化との違いであり、その後の商(殷)とも推定される二里岡文化へと繋がる<支那>文化の源流となったとも言われる。・・・
 <これらに対し、>長江文明に属すると見られる三苗<(さんびょう)>は屈家嶺文化及び石家河文化付近を本拠地としていたと見られる。三苗は母系集団であり、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山<(りゅうざん)>文化と対立した。
 <龍山文化⇒夏(二里頭文化)⇒殷(二里岡文化)、である、というわけだが、龍山文化を父系集団と見るのはよしとしても遊牧民族的集団と見るのはミスプリではないとすれば誤りだ。↓>
 この龍山文化集団が夏王朝に繋がる遊牧民族的な父系集団と見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F_(%E4%B8%89%E4%BB%A3)
 <というのも、この龍山文化は中原龍山文化であるところ、それは仰韶<(ぎょうしょう)>文化の系譜に属すると見られるからだ。↓>
 「中原龍山文化(河南龍山文化と陝西龍山文化)および山東龍山文化に分かれている。山東龍山文化は黄河下流を中心に存在した大汶口文化に続いて現れており、河南龍山文化は黄河中流に存在した仰韶文化に続いて登場している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96
 <そして、この仰韶文化社会は、遊牧文化社会ならぬ、畑作農業(主)兼狩猟(副)社会であったらしいからだ。↓>
 「仰韶の人々の自給自足生活はさまざまである。彼らは広く粟を耕作していた。麦や米を耕作していた村もあった。仰韶農業の正確な性質 — 小規模な焼畑農業か永続的な農地での集約農業か、は現在議論の余地がある。しかしながら、Jiangzhiのような中期の仰韶集落には、余剰の穀物を格納するために使われた可能性のある高床式建築があった。彼らは豚や犬、そのほか羊、山羊、および牛などの動物を飼っていたが、食用の肉の大部分は狩猟や漁業で得ていた。彼らの石器は研磨されており、非常に専門化されていた。仰韶の人々は原始的な形態の養蚕も実践していた可能性がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B0%E9%9F%B6%E6%96%87%E5%8C%96

 ここで重要なのは、以下の事実です。↓

 「20世紀前半に黄河文明の仰韶文化が発見されて以来、黄河流域で多くの遺跡が見つかったことで<支那>の文明の発祥は黄河流域であり、その後次第に長江流域などの周辺地域に広がっていったとの見方が支配的であった。
 しかし1973年・1978年の発掘調査で発見された浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)により、この説は覆される。河姆渡遺跡は紀元前6000年から紀元前5000年頃のものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。稲作を行っていた事からその住居は高床式であった。
 このように河姆渡遺跡は明らかに黄河文明とは系統の異なるものであり、それまでの「<支那>文明すなわち黄河文明」という当時の定説を大きく覆す事になった。
 更に、東北の遼河周辺でも文明の痕跡が発見されるに至り、現在では遼河周辺、黄河上・中・下流域、長江上・中・下流域に分類し、それぞれが互いに影響しあい、かつ独自の発展を遂げていったと考えられている。
 初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。・・・
 弥生時代に日本へ水稲耕作をもたらした人々(弥生人)は、長江文明が起源とする説もある。(注1)

 (注1)これは、次回のオフ会「講演」で予定しているテーマにも関わるのだが、「岡田英弘は夏及びその後継と言われる河南省の禹県や杞県にあったとされる杞<(き)>国などを参照しながら、「夷」と呼ばれた夏人が長江や淮河流域の東南アジア系の原住民であった事や、禹の墓があると伝承される会稽山が越人の聖地でもあり、福建省、広東省、広西省からベトナム北部に掛けて活動していた越人が夏人の末裔を自称している事、また周顕王36年(前333年、楚威王7年)越国が楚に滅ぼされ越人が四散した後秦始皇帝28年(前219年)に琅邪(ろうや)を出発したといわれる徐福の伝承などを示した上で、後燕人が朝鮮半島に進出する前にこれら越人が日本列島に到着したのだろうと推定する。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%B7 前掲
という、「弥生人(もまた)=東夷」説を提起しているところ、私自身は、単純に、黄河文明に敗れた長江文明の人々の一部が、新天地を日本列島に求め、彼らが弥生人となった、と考えている。
 なお、「長江文明を築きそれを受け継いでいる正確な集団は判明していないが、楚・呉・越がそれに相当すると考えられ<る>」(上掲)というのだから、その限りでは、「弥生人=東夷」説も成り立ち得る余地がないわけではない。

 <さて、>中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000年?~紀元前2500年?)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年?~紀元前2200年?)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果と考えられ、黄帝と神農や蚩尤の対立などの伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いに元があると考えられる。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E
 「中原地域は黄帝と炎帝の活躍した地域で、炎黄集団は仰韶文化後期に一度衰退し、龍山文化期に復興し三苗民族を征服した後、夏王朝を興す。黄帝の三苗征服伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F_(%E4%B8%89%E4%BB%A3) 前掲

 すなわち、恐らくは、この夏の時代にプロト漢人文明たる(畑作農業と狩猟と交易で特徴づけられるところの)黄河文明から漢人文明の原型が形成され、その後しばらく経って、この文明を規範としてこの文明に浴しないところの、四夷、の概念が生まれた、かつまた、この文明の形成に当たって決定的契機となったのは、黄河文明と(稲作農業で特徴づけられるところの)長江文明の長期にわたる抗争であった、と思われるのです。
 そして、爾後もかなり長期にわたって、漢人文明は遊牧民集団・・西戎と北狄は遊牧民集団社会であったと思われる・・の深刻な脅威に晒されることがなかったと見てよいのではないでしょうか。(すぐ下の囲み記事参照。)
 私が言いたいのは、この点が、漢人と(遊牧民集団の脅威に相対的に早期から晒された)白人(セム語族や印欧語族)の定着民との大きな違いだったと見てはどうか、ということです。
 そして、このような、脅威の偏頗性が、漢人文明における偏頗な弥生性をもたらしたのではないか、とも。

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[遊牧の始まり・馬の家畜化]

〇遊牧(Nomadic pastoralism)

 人類が、家畜の肉だけではなく、乳(乳製品を含む)、毛、皮、糞(燃料/肥料用)、牽引力、を利用するようになるようになった・・<これを>二次産物革命(secondary products revolution)<という。>・・のは前8500~前6500年頃、南部レヴァント(Levant)においてだったが、これが、近東、更にはヤムナ文化地域<(黒海南岸~カスピ海北岸。前3600頃~前2200年頃にここで印欧語族が生まれたという説が有力)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%A0%E3%83%8A%E6%96%87%E5%8C%96 >
に広がり、これが更にモンゴル高原に伝播したところ、この二次産物革命の一環として遊牧適地で遊牧が始まった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Nomad

〇馬の家畜化

 馬の家畜化は、前4000頃~前3500年頃にウクライナとカザフスタン・・後のヤムナ文化地域!・・で始まった。
 前2000年頃には、欧州全域に家畜化された馬が広がった。
 馬の戦闘への使用は家畜化され、騎馬遊牧(equestrian pastoralism)が始まった当初から始まっていたが、広範に見られるようになったのは青銅器時代の終わりである前800年頃。
https://en.wikipedia.org/wiki/Horse
 騎馬遊牧(equestrian pastoralism)のモンゴル高原への伝播は、(家畜化された馬が到来するまで時間がかかり、)前1500年頃、という説が有力。
https://www.oxfordhandbooks.com/view/10.1093/oxfordhb/9780199935413.001.0001/oxfordhb-9780199935413-e-20

⇒よって、夏の時代(前1900頃~前1600年頃)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F_(%E4%B8%89%E4%BB%A3)
には、漢人文明は、まだ遊牧民集団の深刻な脅威を免れていたと思われる。(太田)

 以下は、ご参考まで。↓

〇武装騎馬遊牧民集団

 出現したのは、馬の家畜化から随分時間が経ったところの、前8世紀頃。(キンメリア人)
 東アジアでの出現は、それよりも更に4世紀後の前4世紀頃。(匈奴)
 この出現によって、遊牧民の脅威が深刻化した。↓

 「騎馬遊牧民は、銃砲の時代の到来まで、その人口に比して極めて大きな軍事力を発揮した。農耕民族は、農地や地場産業を維持する必要上、外征戦においてはその人口の1/30の動員がせいぜいであり、またそのような大量動員の際には非熟練兵士を多く抱えることとなる。騎馬部隊は少数の補助戦力にとどまるため、機動力を発揮しにくい。対して遊牧民は老幼の者と奴隷以外のほとんどの男性が熟練した騎兵となり、生活習慣上、移動を常としていた為、女性と非戦闘員男性もその後方から随伴し、生産と補給を並行して行っていた。また一箇所に留まらないため、その根拠地を掃討することも困難である。生身の人間には到底太刀打ち出来ない、圧倒的な速度と重量を併せ持つ騎兵の一斉突撃は、歩兵の陣形を容易に蹴散らすことが可能であった。当然、騎射にも優れ(パルティアンショット)、これを用いた一撃離脱戦法は彼等の最も得意とするところであった。・・・
 まとまった勢力として文献資料に初めてあらわれるのはキンメリア人であり、紀元前8世紀頃、南ロシア平原に勢力を形成したとされる。・・・
 紀元前4世紀頃から匈奴が<支那>の文献に登場し始め、紀元前3世紀には後へ続く遊牧国家の源流となる広域国家を形成した。・・・
 中央ユーラシアの遊牧騎馬民共通の文化的特徴として、数々の点が指摘されている。
・実力主義
・指導者は、能力のある者が話し合いで選出される
・農耕民に比べて女性の地位が高い
・能力があれば異民族でも受け入れて厚遇する
・男女を問わず騎馬と騎射に優れる、必然的に機動性に富むあり様がそのまま武力に直結している
・人命(人材)の尊重
・情報を重視し、勝てない相手とは争わない
・実際の戦闘はなるべく行わず、指導者間の交渉で解決する
・非完結の社会
・社会の維持に非遊牧世界の技術・製品・税を必要とするため領域内に農耕都市を抱え込む
などである。これらは人口が少ないがゆえの合理性に基づく。 抱え込む農耕都市が増加し支配下の都市間が交易などにより文化的・経済的に一体化することによって広域国家が発生する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E7%89%A7%E6%B0%91

〇鐙

 東アジアは、遊牧も馬の家畜化も武装騎馬遊牧民集団も、出現が遅れたが、鐙の出現だけは先んじた。↓

 「鐙が出現するまで、騎乗者は両足の大腿部で馬の胴を締め付けて乗馬していた。姿勢は不安定で、馬の激しい動きに追従するのは難しかった。特に軍事目的で馬を利用する場合、不安定な姿勢で武器を使うのは極めて困難であり、それを行うのは特殊技能であり、幼い頃からの鍛錬が必要であった。
 鐙のルーツは西晋時代の<支那>もしくは満州に在り、確認できる最古の物は各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。そのため鐙が発明されたのは西暦290~300年頃とされる。5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。・・・
 欧州では7世紀頃になるまで鐙は確認されなかった。鐙はユーラシア大陸をペルシアからイスラーム諸国へ、そして東ローマ帝国に伝わり、それからフランク族へと広まった。鐙が登場すると馬上で踏ん張ることができるため、騎士は敵に向かって突撃をすることができるようになり、騎兵の戦闘力は飛躍的に向上した。また幼い頃から馬に親しんだ騎馬民族の騎兵に対し、農耕民族の国家の騎兵であっても対抗ができるようになった。
 高い軍事力を持つ騎士は社会的にも認められ、騎士の発言力が増すようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%90%99

⇒ところが、既に述べたように、漢人文明では、ついに、騎士(日本の武士も騎士)は登場することがなかった、というわけだ。(太田)
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  ウ 殷(前17世紀頃~前1046年頃)

 「殷代、商・・・、商朝、殷商とも呼ばれる。・・・
 商人という言葉は、商(殷)人が国の滅亡した後の生業として、各地を渡り歩き、物を売っていたことに由来するとされる。そこから転じて、店舗を持たずに各地を渡り歩いて物を売っていた人を「あれは商の人間だ」と呼んだことから「商人」という言葉が生まれたというものである。ただし、白川静は「商に商業・商賈の意があるのは、亡殷の余裔が国亡んでのち行商に従ったからであるとする説もあるが、商には賞の意があり、代償・償贖(とく)のために賞が行なわれるようになり、のちにそのことが形式化して、商行為を意味するものとなったものと思われる」と否定している。・・・
 夏の桀王年間、地球規模の気候変動(紀元前1628年のテラ島噴火)もあり、その治世はひどく乱れた。史書が正しければ、桀はこれ以外にも暴政を敷いていたという。これに対し、殷の湯王(契から数えて13代目、天乙ともいう)は天命を受けて悪政を正すとして、賢人伊尹<(いいん)>の助けを借りて蜂起、鳴条の戦で夏軍を撃破し、各都市を破壊、こうして夏は滅亡した。・・・夏の都市のひとつであった望京楼遺跡では、殷による激しい破壊と虐殺の跡が見つかっている。遺骨の多くは手足が刃物で切断されたり、顔が陥没しており、実際には殷が力によって、中原の支配者の座を勝ち取ったことがしのばれる。・・・

⇒(これも大部分の文明や文化に見られることですが、)漢人文明の残虐性ってやつです。(太田)

 仮説によると、殷王室は10の王族(「甲」〜「癸」は氏族名と解釈)からなり、不規則ではあるが、原則として「甲」「乙」「丙」「丁」(「丙」は早い時期に消滅)の4つの氏族の間で、定期的に王を交替していたとする。それ以外の「戊」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」の6つの氏族の中から、臨時の中継ぎの王を出したり、王妃を娶っていたと推測される。・・・

⇒ここは、打って変わって牧歌的なことです。
 三王家が交替した新羅の初めの頃(コラム#省略)を彷彿とさせますね。(太田)

 殷王朝の軍隊は氏族で構成され、殷王による徴集を受けると普段は農耕に従事していた氏族の構成員たちが武器をとり、出征する軍隊を編成した。この軍隊を指揮するのは各氏族の貴族だった。
 強大な軍事力を誇った殷王朝は、度重なる戦争に勝利を収めるために、兵種・戦法・軍備などを発展させていった。その中で特筆すべきは、「三師戦法」という大量の戦車<(注2)>を活用した戦術である。

 (注2)チャリオット。「前2000年ごろ<アラル海北方>で発明され、急速に世界中へ広まった。・・・
 地形の制約を受けやすく、また戦力維持に要するコストが非常に高くつくため、鞍や鐙などの馬具の開発、遊牧民の軽騎兵による騎馬戦術の開発や定住文化圏への伝播、また品種改良による馬の大型化とそれによる重騎兵の登場などの影響を受けて騎兵に取って代られた。どの地域でも戦車に乗って戦った兵士の多くは貴族やその子弟などで、御者(馭者、操縦士)を担当する者はその部下や奴隷が主だった。
 御者は戦力にならないため、射撃戦に対応する弓兵や白兵戦に対応する槍などのポールウェポンなどで武装した者を乗車させる必要がある。また車輪自体に動力は無いため、旋回は各馬の調教に熟練した御者の手綱さばき頼みで、今で言うところのドリフト走行のように車輪を滑らせて旋回する必要があり、戦車はこのような横方向からの荷重に対して構造上非常に脆い。機動性から見ても、戦力構成から見ても騎兵に比べて大きく劣る。とは言うものの、そもそも馬が小型で背も弱く騎乗に適さないために騎兵が存在しなかった時代においては、戦車の機動性は他に代えるものがなかった。高速で移動しながらでも弓矢による射撃を行えることや、加速をつけたポールウェポンによる破壊力は驚異的であった。騎兵が戦場で盛んに現れる時代になっても、馬上で扱うには大きすぎる長弓や弩砲で射撃を行ったり、戦車の前面や側面に槍や剣、鎌を取り付けて敵の重装歩兵の隊列に突撃し隊列を分断、混乱させるような運用もされた。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88

 殷王朝が歩兵中心の軍制から、戦車を中心とした軍制に変化するのは、殷の支配域が拡大して黄河中下流域や中原など、戦車を疾駆させるのに適した平原地帯が戦場になっていったからと考えられる。・・・
 戦車は歩兵と共同して戦いを行った。1輌の戦車には3人の兵が乗り、左側の兵士が弓を、右側の兵士が矛や戈を持ち、中央の兵士が御者となった。戦車部隊は5輌が最小単位で、戦車兵15人と付随する歩兵15人からなっていた。100輌の戦車と戦車兵と歩兵がそれぞれ300人、25輌の戦車と戦車兵と歩兵が75人というふうに、戦車が5の倍数で、戦車兵と歩兵は15の倍数で編成されていた。戦車の運用法では「三師戦法」が編み出され、これは軍隊を左・右・中の3つの部隊に分け、互いに連携して敵に対処するというものだった。
 軍備については戦車戦に適した戈<(注3)(ほこ)>・矛<(注4)(ほこ)>・弓矢・木製の盾・刀などが使われた。その他でも殷王朝では戈と矛を合体させた戟が発明されている。

 (注3)「「矛」では金属製の穂先を槍と同様に柄と水平に取り付けるのに対し、「戈」では穂先を柄の先端に垂直に取り付け、前後に刃を備える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%88
 (注4)日本にあった「ほこ」はこちらだけ。「槍や薙刀の前身となった長柄武器で、やや幅広で両刃の剣状の穂先をもつ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%9B 

 戈や矛の材質は青銅製で、弓矢の鏃の材質は石器や骨器なども使われた。防具については戦車兵が立ったままの状態で戦車に乗っていたため標的にされやすく、そのため重装化が進んだ。殷代の鎧は皮革から、兜は青銅で作られている。また、敵の弓矢から身を守るために盾も戦車には用意されていた。 ・・・
 殷社会の基本単位は邑(ゆう)と呼ばれる氏族ごとの集落で、数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた。殷王は多くの氏族によって推戴された君主だったが、方国とよばれる地方勢力の征伐や外敵からの防衛による軍事活動によって次第に専制的な性格を帯びていった。また、宗教においても殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、後期には周祭制度による大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展した。この王権と神権によって殷王はみずからの地位を強固なものにし、残酷な刑罰を制定して統治の強化を図った。しかし祭祀のために戦争捕虜を生贄に捧げる慣習が、周辺諸氏族の恨みを買い、殷に対する反乱を招き、殷を滅亡に導いたとする説もある。現代の考古学調査では、これまでに発見された殷による生贄になった人の骨は計14000体にのぼる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7

⇒殷に関しては、四夷の脅威、とりわけ遊牧民集団の脅威とは、ほぼ無縁であったようであり、そのことは、軍備が戦車を中心にした編成ものしかなかったらしいことが示しています。
 戦車中心では、騎馬中心の部隊に機動力でかなわず、戦いにならないはずだからです。(太田)

  エ 西周(前1046年頃~前771年)

 「<二代目の>成王は周公旦・召公奭を左右に政務に取り組み、東夷を討って勢威を明らかにした。成王の後を継いだのが康王(在位:前1020年~前996年)である。康王は召公と畢公を左右にしてよく天下を治めた。成王・康王の時代は天下泰平であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという。

⇒伝承に過ぎないとしても、日本の平安時代の長期(818~1160年)に渡る、中央における死刑の停止
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%AD%BB%E5%88%91
という史実に勝るとも劣らない話であり、支那にも縄文性の片鱗くらいの存在は認めることができそうです。
 但し、殷が残虐であったというのに、どうして西周で縄文性の片鱗が、という疑問は残ります。(太田)

 その後は徐々に衰退する。4代目の昭王(在位:前995年~前977年)は南方へ遠征を行ったが失敗し・・・、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになった。5代目の穆王(在位:前976年~前922年)以降、王は親征することが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことで軍事的に弱まった王の権威を補っていくことになった。・・・
 12代幽王(在位:前781年~前771年)の時代、申から迎えていた皇后を廃し褒姒<(ほうじ)>を皇后としたため、申の怒りを買い、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。幽王は殺され、褒姒の子の伯服(伯盤)も殺されてしまう。そこで、次代として携王(在位:前770年~前750年)が即位した。これに反対する諸侯は、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ王子宜臼を擁して移り、王子を平王(在位:前771年~前720年)として立てて対立した。周は東西に分かれて争った結果、東の平王が打ち勝ち、ここから周は東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8

⇒東夷と南蛮しか登場せず、最後に西戎が登場するものの、それまで遊牧民集団の姿が見えず、比較的平和な時代が続いたこともあって、西周時代に漢人文明の弥生性は偏頗なまま推移したであろうと思われます。
 そんなところへ、叛乱勢力のガラの悪い助っ人として遊牧民集団が姿を現わした時、西周、というか、周、は事実上の終焉を迎えることになった、というわけです。(太田)

 「紀元前770年に周が犬戎に追われて東遷した際に、秦の創始者となる襄公は周の平王を護衛した功で周の旧地である岐に封じられ、これ以降諸侯の列に加わる。紀元前762年に秦が最初に興った場所は犬丘(現在の甘粛省礼県)であったらしく、秦の祖の陵墓と目されるものがこの地で見つかっている。春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、中原諸国からは野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。紀元前714年には平陽へ遷都。紀元前677年には首都を雍城(現在の陝西省鳳翔県南東)に置いた。
9代穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹敵する国力をつけた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6 

⇒そして、このように、西周時代が終わり、春秋時代が始まったまさにその時に、漢人文明中の田舎者たる秦が、西戎との戦い、及び、西戎の取り込み、を通じて、弥生性の偏頗性の軽減を果たしたことが、将来、秦の覇権を打ち立てる伏線になるのです。(太田) 

  オ 春秋戦国時代
  ・春秋時代(前770~前403年)

 「楚<は>もともと周から封建された国ではなく、実力により湖北・湖南を押さえて立国した<ところ、>・・・<その楚の>荘王は豊富な兵力をもって北上して周辺の小国を威服させ、洛陽近くで大閲兵式を行って周王室に圧力をかけた。さらに鄭の都を包囲し、これを救援に来た晋軍を邲(ひつ)で大破した。・・・この[前597年の]邲の戦い以降は諸侯同士の争いは少なくなる。・・・
 春秋時代は「宗法<(注5)(そうほう)>」に基づく軍制が基本で、一軍を12,500人として、大国は三軍、次国は二軍、小国は一軍と定められており、これを大きく抜き出ることはなかった。

 (注5)「大家族制を基本とした伝統<支那>において、大家族を意味する宗族内の規律・規則を指す言葉である。狭義では、宗族の本家である宗家(そうけ)における祖先祭祀の子々孫々への継承に関する規則を定めたものを指す。宗族内には、総本家としての大宗を一族の要とし、小宗と呼ばれる分家が一致団結することが求められる。大宗の相続権は、その嫡子である長子が持ち、嫡出の次男以下および庶子は全て別子と呼ばれ、新たな小宗の祖となることが取り決められていた。大宗に嫡子が生まれなかった場合は、女子には相続権がなく、その場合でも他姓の家に嫁がされた。宗家には、最も血縁的に近い小宗から相続者が迎えられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%B3%95 
 「宗族(そうぞく、しゅうぞく)とは、父系同族集団のこと。古代東アジア法とローマ法に存在した。<古代東アジアでは、>同姓不婚(漢代以降姓と氏の区別が消失してからは、実際は同氏不娶)の原則にたち、女系は含まない。<支那>では早くから戸(こ)と呼ばれる単位の小家族が一般化し、この戸の把握(戸籍作成)が王朝の政治経済力の源泉となったが、土地を集積して地主として成長した豪族は集積した資産の散逸を防ごうとしたこともあって同族間の結合が強く、漢・六朝の豪族勢力は、郷里における累代同居の形をとった。・・・隋・唐ではこの結合は弱まったが、唐末に名族と呼ばれた門閥貴族が没落した後、新興地主ができるだけ没落を防ぐための相互扶助手段として宗族を強化した。族長のもとに族譜(同族の系図)を有し、宗祠(祖先の神主を安置した建物)を設け、族産(祭田・義荘など同族の共有財産)をおくものが多く、特に華中・華南に普及した。宗族という言葉や理念は儒教体制が浸透した朝鮮半島やベトナムにも伝わって、定着している。逆に日本では氏姓社会が比較的維持されたまま、儒教体制を取り入れたために宗族制は形成されずに<支那>や朝鮮半島とは異なる儒教観・家族観が形成されることとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%97%8F

 三軍を有したのは晋・楚・斉ぐらいのもので、しかも斉の場合は一軍は1万人の兵を指している。六軍を有してよいのは周王だけだが、周は春秋時代から急速に衰え六軍は形成できなかった。晋では文公の時、新たに三軍を加え六軍としたがほどなく廃止されている。
 軍が巨大化しなかったのは、周王を形式上尊ぶことから「宗法」を遵守したこと、この頃まだ鉄は使われておらず武器の質が低かったこと、鉄製農具がなく生産性が低いため人口も次の戦国時代よりかなり少なく、長期間の戦争は著しく国力を減退させることなどが挙げられる(鉄は戦国時代から使われ出す)。
 この頃の主な戦争は兵車<(戦車)>戦であり、騎馬はほぼ存在しなかった。この頃の中華思想は、車(馬車・兵車)という高等な乗り物を使用するのが中華圏の人であり、馬に直に騎乗するのは狄戎(異民族)と変わりがないと思われていた。大夫は兵車に乗り戦争指揮をし、兵車を核として歩兵を配置した。
 また、まだこの時代は戦を前にして占いをする風習も残っていた。
 春秋時代以降見られない戦争形式が、この時は見受けられる。つまり、野天での開戦時に一方の使者が相手陣地に乗り込み、戯言を言う・武勇を示すといったことをする。相手方がこの戯言に戯言で返答する、または武勇を示した相手を追いかけ出したら戦争開始となった。これは、この時代中期まではしっかりと見られ、奇襲は非礼とされていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%84%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ([]内)

⇒改めて、遊牧民集団の脅威は、春秋時代には皆無であったようであることを強調しておきましょう。
 それどころか、春秋時代の後半は平和な時代であったようです。
 こうして、殷の時代に始まったところの、戦車(兵車)の時代が続きました。(太田)

  ・戦国時代(前403~前221年)

 「<一般に、>晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、・・・秦による<支那>統一がなされるまでをいう。・・・
 春秋時代には国の祭祀を絶つと国の祖先から呪われるという考えから、国を占領しても完全に滅ぼしてしまうことはそれほど多くなく、また滅びても復興することがよくあった。戦国時代に入ると容赦がなくなり、戦争に負けることは国の滅亡に直接繋がった。そのような弱肉強食の世界で次第に7つの大国へ収斂されていった。その7つの国を戦国七雄と呼ぶ。春秋時代には名目的には周王の権威も残っていたが、戦国時代になると七雄の君主がそれぞれ「王」を称するようになり(ただし、楚の君主は以前から王であった)、周王の権威は失われた。・・・
 <その間、趙は>北方の遊牧民族の騎馬戦術を取り入れた。これは胡服騎射<(注6)>と呼ばれ、これ以後の趙の騎兵隊は諸国に恐れられ<た。>・・・

 (注6)「趙の・・・武霊王<(?~前295年。王:前326~前298年)は、>・・・胡服騎射を取り入れることを考える。それまでの中華世界の貴族戦士の伝統的な戦術は、3人の戦士が御者と弓射、戈による白兵戦を分担する戦車戦だった。それに対して北方遊牧民族は戦車を使わず、戦士が直接1頭の馬に乗って弓を放っていた。胡服騎射とは、この遊牧民族の戦法を真似ようというものであった。当時の大夫たちは裾が長く、下部がスカート状の服を着ていた。乗馬のためにはこれは非常に邪魔であり、胡服騎射には遊牧民の乗馬に適したズボン式の服装(胡服)を着る必要があ<った>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E9%9C%8A%E7%8E%8B
 「戦車に騎乗するのは貴族であり、その働きが勝敗を決することが多かった。それにたいして武霊王が導入しようとした匈奴の戦法は騎兵を主体とするもので、騎兵は平民でも訓練さえ積めば強い戦闘力を発揮できるため、当時の貴族の立場を犯す危険性があった。司馬遷の『史記』趙世家では武霊王の胡服騎射導入に対して貴族たちが強く反対したことが物語られている。・・・
 武霊王の軍制改革で騎馬戦術を採り入れた趙は、前296年に東の中山国を征服した。しかし、秦の強大化はその後も続き、前260年には秦に敗れ(長平の戦い)、捕虜になった40万の兵士が秦軍に坑埋めされて殺されるという敗北を喫した。その後、将軍李牧<(後出)>が現れて、よく匈奴や秦と戦ったが、両面からの軍事的圧力で国力を消耗させ、ついに秦王政(後の始皇帝)に攻められて、前222年に滅亡した。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-041.html

 秦による統一が実現できた背景として、「晋の分裂による大国の消滅」「商鞅の[法家思想による]国内改革と西河[・・魏の黄河以西の土地・・]の制圧、司馬錯<(注7)の蜀征服による秦の国力強化」がもたらした勢力均衡の崩壊があったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85 ([]内)

 (注7)しばさく。生没年不詳。「司馬遷の八世の祖。<秦の>恵文王・武王・昭襄王の3代に仕えた。蜀の併合と経営に尽力し、また楚や魏との戦いで功績を挙げ、秦の勢力拡大に貢献した。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%8C%AF
 「周王室が衰退すると蜀がまず王を称し・・・た。
 [蜀は農業と漁労、牧畜の地域だった。]
 ・・・前316年・・・蜀王が弟の葭萌を漢中に封じその城邑を葭萌と名付けるよう命じた。号して苴<(?)>侯と言った。 苴侯は敵国の巴王と好を通じたことに激怒した蜀王に討伐を受け、巴<(は)>に逃亡して秦に助けを求めた。
 楚を討伐する計画を立てていた秦では群臣達の間で議論となり、「蜀は西方辺境の国であり、戎狄の長に過ぎない。楚を討伐するのとは違います」という意見が出された。これに対して司馬錯と田真黄が「蜀は、桀王、紂王の騒乱の時からあり、その国は富んでいて、布帛や金銀を得ることができ、軍備に用いるには十分な量を産します。水路は楚に通じていて、巴には、大船舶を浮かべて、東の楚に向かえば、楚の地を得ることが可能です。蜀を得ることは、すなわち楚を得ることになります。楚の滅亡は、すなわち天下の併合となります」と意見すると恵文王は「よし」と言って、張儀、司馬錯・・・らを・・・蜀討伐に向かわせた。蜀王は自ら軍を率い葭萌と戦ったが敗走して・・・秦軍に殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%9C%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E5%B8%9D%E6%9D%9C%E5%AE%87 ([]内)

⇒戦国時代においても遊牧民集団の影は薄く、この集団に倣って趙が導入した騎兵が、例えば、趙より濃厚な遊牧民集団との関りがあった(後述)にもかかわらず、秦に採用された形跡すら見られません。(太田)

 (3)秦(前221~前206年)

  ア 始皇帝による封建制の放擲

 表記については、一般的に、次のような説明がなされています。↓

 「周の時代には、封建制が成立し、各地に邑を基盤とした氏族共同体が広汎に現れ、周はこれらと実際に血縁関係をむすんだり、封建的な盟約によって擬制的に血縁関係をつくりだし、支配下に置いたと考えられている。
 長子相続を根幹する体制を宗族制度といい、封建制度にも関連性がある。宗族制度は紀元前2千年紀前半に一般的となったとされている。・・・
 <ところが、>戦国時代には宗族組織はほとんど消滅もしくは変質して封建領主は宗族や功臣を除いて居なくなり、在地や諸侯は血縁ではなく官吏と律令により支配されるようになり、郡県制<(注8)>に置き換えられた。・・・

 (注8)「郡県制・・・春秋時代末期から戦国時代に、晋や秦・楚で施行された。初めは直轄地を県、辺境地域を郡としたようであり、中央から王の任命する官吏を派遣して統治した。・・・
 秦の国内では、紀元前4世紀の孝公の時代に郡県制が実施されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E7%9C%8C%E5%88%B6

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[周時代の封建制の特異性]

 「殷代から春秋時代にかけての華北は、邑と呼ばれる都市国家が多数散在する時代であった。・・・
 邑は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集や牧畜経済を営む非都市生活の部族が生活していた。彼らは「夷」などと呼ばれ、自らの生業の産物をもって都市住民と交易を行ったがしばしば邑を襲撃し、略奪を行った。また、邑同士でも農耕や交易によって蓄積された富などを巡って武力を用いた紛争が行われていた。こうした紛争などにより存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に政治的に従属するようになっていった。

⇒つまり、周時代の封建制とは、古典ギリシャのような、都市国家群が並列的に存在するのではなく、中心都市が、それ以外の都市群を束ね、これらの都市群の首長群に軍役を負わせていた、というものであって、農地を中心とする領域群の領有権を領主群に安堵し、その見返りにこれら領主群に軍役を負わせる、という、欧州文明や日本文明の典型的封建制とは様相がかなり異なる。
 しかも、古典ギリシャの都市群とは違って、周時代の都市群は、領域支配を確立しておらず、漢人文明圏外の四夷からの小脅威や漢人文明圏内の他都市(群)からの大脅威のほか、漢人文明圏内の都市群間に生息する(非漢人)遊牧民集団からの小脅威にも対処する必要があった。(太田)

 さらに春秋時代の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展で農地や都市人口が大規模に拡大したために、大邑はその領域を拡大して邑と邑の間に広がっていた非都市生活者の生活領域や経済活動域を消滅させてゆく。また、軍事が邑の指導者層である都市貴族戦士に担われる戦車戦から増大した農民人口によって担われる歩兵戦に重点が移行するとともにそれまで温存されていた大邑に従属する小邑が自立性を失って中央から役人が派遣されて統治を受ける「県」へと変えられていった。

⇒そして、そんな状態のまま、中心都市(周の首都)が名存実亡状態になってしまった(春秋時代)ため、漢人世界はついに典型的封建制に移行することなく、欧米世界の近代における主権国家群の並立に外形的には似通った状態へと次第に近づいていくことになる。
 (プロト欧州文明における封建制が欧州文明への移行に伴って絶対王政に変わったこと、また、それに対し、日本文明における封建制が19世紀半ばまで続いたこと、の理由は以上から想像がつくと思うが、改めて、次回のオフ会の時に取り上げることになろう。)(太田)

 こうして、春秋末から戦国にかけて、華北の政治形態は、都市国家群から領域国家群の併存へと発展していった。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8

⇒こうして、漢人文明地域に到来したのが、「欧米世界の近代における主権国家群の並立に外形的には似通った」ところの、戦国時代だ。
 戦国時代の多くの諸国が中央集権制(郡県制)を導入したのは、「欧米世界の近代における主権国家群」の大部分が中央集権制(絶対王政)を採用したことを想起すれば、ごく自然なことだったと言えるのではないか。(太田)
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 秦の始皇帝は天下を平定すると、李斯<(注9)>の提言により郡県制を採用した。

 (注9)りし(?~前208年)。「李斯は<楚出身で、荀子に学んだが、>法家理論の完成者の韓非に対して、法家の実務の完成者とされる。李斯は<同門で同僚の>韓非を謀殺した事や偽詔で<始皇帝の太子の>扶蘇を殺した事、他にも儒者を徹底的に弾圧した焚書坑儒に深く関わったため、後世の評判は非常に悪いが、秦の<支那>統一において最も大きな役割を果たしていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%AF

 史記「秦始皇本紀」では、王綰<(おうわん)>らが封建制度の採用を提案したのに対し、李斯は周の封建制度が失敗に終わって天下争乱のきっかけになったことを指摘して郡県制度を施行するよう主張したことが記されている。始皇帝はそれに対して次のように言い、李斯の主張の通りに郡県制を採用した。
 天下ともに苦しみ戦闘は休まず、もって侯王あり。宗廟に頼り、天下を初めて定む。また再び国を立つるに、是の兵を樹つ、しこうして其の寧息を求むるは、あに難からずや。
 (現代語訳: 天下はみな苦しみ戦闘が止まない。各地に封じられた侯王あってのことだ。宗廟によって、天下を初めて平定した。また再び各地に人を封じて国を立てれば、各々が封国で兵を集めるだろう。その上で天下の安寧を求めるのが、難しくないということがあろうか。)
 秦の始皇帝による郡県制の<漢人文明の全地域への>導入以降、儒教の影響を受けながら、封建制と郡県制の利害得失を巡って対立する思想体系が構成され、多くの文献で封建・郡県の是非が議論されるようになった。・・・ 
 双方の議論とも、<支那>で伝統的な「公」を善で「私」を悪とする概念を用いており、封建制反対論では諸侯が天下を分有して「私」することが悪、郡県制反対論では天子一人が天下を「私」することが悪とされた。こうした文献は<支那>と日本で広く読まれた。・・・
 明末期から清のはじめにかけては、異民族王朝の<支那>支配に直面し、それに抵抗する学者たちが「封建」論をとなえた。そのなかでも有名なのは顧炎武の議論である。
 顧炎武は、明末の政治腐敗と各地で起きる農民反乱、引き続いての満州民族の侵入と明の滅亡という亡国の悲運を経験しており、その原因を尋ねることを目的に歴史を研究した。土地土着の有力者が身を挺して郷土と民を守る一方、郡県の地方官の多くが流族や満州族侵攻のときになにも抵抗していないことを目撃していた顧炎武は、その原因を郡県制の欠陥と考えた。一方で、封建が郡県に変じたのはそれなりの歴史の必然であったとし、「封建の意を郡県に寓す」とする郡県制のなかに封建制を組み込ませる地方分権型の政治体制を主張した。具体的には、郡県制度の末端にあたる県の長官に大きな権限を与えるとともに世襲制とし、その下で働く地方官僚も県の長官がみずから任命できるようにすることなどを提案している。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E5%BB%BA%E5%88%B6

  イ 秦の偏頗な弥生性

 問題は、封建制であったはずの春秋時代の周においても、その弥生性は、少なくとも、遊牧民に対しては脆弱なものであって、だからこそ、周は、戎によって事実上滅亡させられてしまい、後に、それまでの周を西周、それ以後の周を東周と呼ぶけれど、東周は名存実亡状態となり、漢人文明地域は春秋時代に入ったわけです。(皆さんにはもう耳タコかも。)↓

 「戎<(西戎)は、>・・・<支那>西部に住んでいた遊牧民族で、・・・かつては周の文王の討伐を受けたことがある。後に文王の太子である武王と盟約を結んで共に商を滅ぼした諸侯国の一つである羌、ほかには葷粥(くんいく)や氐(てい)、密須(みつしゅ)などが含まれた。
 周代には現在の陝西省・四川省から甘粛省・チベット自治区の付近にいた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%88%8E
 「前771年・・・周朝の第12代の・・・幽王は・・・正室であった申后及び太子宜臼を廃し、褒姒を后に、<その子の>伯服を太子に立てた。申后の父である申侯は怒り、蛮族の犬戎軍と連合して反乱を起こす。都に迫る反乱軍に、幽王は軍を集めようとして烽火をあげたが、すでに集まる兵はなかった。幽王と伯服は驪山の麓で殺され、褒姒は犬戎に連れ去られた。反乱軍は都を略奪して財宝をことごとく奪い去った。
 幽王の死後、申侯は廃太子となっていた宜臼を平王として立てた。しかし兵乱により王都の鎬京は破壊されていたため、平王は東の洛邑へと遷都し、ここに西周は消滅して東周が始まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BD%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)

 秦の立場から言えば、遊牧民集団たる西戎のおかげで諸侯の一員になれ、また、その西戎の人々を抱え込んだことで弥生性の毀損を他の諸侯国に比べて相対的に免れ得たおかげで、漢人文明地域の再統一を果たすことができた、ということであり、秦が再統一後も遊牧民集団に余り強く出られなかったのは彼らに対する負い目から、という面もあったのではないでしょうか。

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[『孫子』の罪]

 何度も指摘してきたこと(コラム#省略)だが、世界史上、戦争に最も長けていたところのドイツ圏に関しては、クラウゼヴィッツが『戦争論』を書いたのはドイツ圏がナポレオン戦争に敗れた後、実に19世紀になってからだし、二番目に長けていたイギリスに関しては、リデル=ハートが戦略論を書いたのはイギリスの対米相対的没落が決定的になった20世紀の半ばになってからであることに思いを致せば、孫武がBC5世紀の春秋時代という大昔の時点で兵法書の『孫子』を書いたということは、漢人文明がいかに戦争に長けていなかったのかを示している、というのが、逆説的だが、私の考えだ。
 この際、その『孫子』の内容自体にも問題があった、という私見を披露しておきたい。

 『孫子』の基本的スタンスは、「国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ」であるところ、、「敵国を攻めた時は食料の輸送に莫大な費用がかかるから、食料は現地で調達すべきだ」という趣旨の記述が出て来る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)
 しかし、モンゴルのような純粋遊牧民集団は、定着しておらず、首都も事実上なく、本来の意味での国とは言い難い。
 そんな遊牧民集団を相手にする場合に、食料を現地調達することなど、基本的に不可能であることはお分かりだろう。
 一時が万事であり、『孫子』に記述されている多くのことのうち、基本的にして重要なものの大部分が、(広義の)遊牧民集団相手には当てはまらないのだ。
 実際、『孫子』については、「「戦わずして勝つ」という戦略思想、戦闘の防勢主義と短期決戦主義、またスパイの重要視など」が盛り込まれている、という総括的説明
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%AD%A6
がなさるのが通例だが、遊牧民集団相手に意味を持つのは、最後の「スパイの重用視」くらいなものだろう。
 遊牧民集団に対しては、「戦わずして勝つ」ことなどありえないし、防勢主義では大袈裟に言えば座して死を待つに等しく、また、戦略的要衝の帰趨をかけた短期決戦など望むらくもないからだ。
 だから、『孫子』中の、「兵は国の大事にして、死生の地、存亡の地なり。察せざるべからず」(戦争は国家の大事であって、国民の生死、国家の存亡がかかっている。よく考えねばならない)と<か、>・・・「国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ<とする>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90_(%E6%9B%B8%E7%89%A9) 前掲
とかいった話など、こと遊牧民集団に対しては寝言ないしマスターベーションでしかないわけだ。
 同一ないし類似の文明に属するところの、定着民を構成員とする本来の意味での国の間の(対称的な)戦争を対象とするところの、『孫子』、が、漢人文明や(同一文明内での戦争が中心であった)日本文明、以外の諸文明、とりわけ、(ロシア亜文明を含む)広義の欧州文明と(米国文明を含む)広義のアングロサクソン文明において注目されるようになったのは、実に、欧米世界における戦争が、共通の国際法によって規律される、同質の主権国家間の戦争ばかりになったところの、20世紀に入ってからであったことが、以上の私の指摘を間接的に裏づけている、と思う。↓

 「『孫子』はやがて、<漢>語以外の言語に訳されて影響を及ぼすようになっていく。(日本人が漢文読み下しという形で孫子を受容したケースを翻訳と見なさなければ)現在知られているもっとも古い翻訳は、12世紀ごろに作られた西夏語訳である<が、>18世紀初頭には清朝で、『孫子』の満州語およびモンゴル語訳がつくられ<、>当時<支那>で布教活動を行っていたイエズス会宣教師の一人ジョセフ・マリー・アミオ(銭徳明)<が>満洲語版を基にして『孫子』の抄訳に自らの解説を付したものをフランス語で著述し、同書は1772年にパリで「孫子13編」として出版された<が反響は殆どなかった。>
 <この>アミオによる『孫子』<訳>はあくまでも抜粋・抄訳であり、『孫子』の全貌が<欧米>に伝えられるのは20世紀に入ってからとなる。1905年、孫子が初めて英語に訳される。これは<英>陸軍大尉カルスロップ(E. F. Calthrop)によるものである。カルスロップは<漢>語の知識がなく、日露戦争後に日本研究を目的に、日本に滞在した語学将校であった。カルスロップは日本人の助けを借りて『孫子』の英語訳を完成させたが、<英国>人の<支那>学者ライオネル・ジャイルズ(Lionel Giles)はその杜撰な翻訳を厳しく非難、自ら<漢>語原典を元に新たな『孫子』の英語版を1910年に出版した。同じ1910年にはブルーノ・ナヴァラによるドイツ語訳も出版されている。<欧米>への『孫子』の伝播は日本が基点となっていることが興味深い。
 この一方、第一次世界大戦の敗戦によりドイツ皇帝の座を追われたヴィルヘルム2世が、退位後『孫子』を知り、20年早く読んでいればと後悔したというエピソードは有名である。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90_(%E6%9B%B8%E7%89%A9) 前掲
 「『孫子』中の欺騙戦略が、ソ連のKGBで研究され用いられたとする著述家達も何人か存在する」
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Art_of_War

 欧米諸文明(プロト欧州文明と広義の欧州文明と広義のアングロサクソン文明)における戦争としては、ゲルマン人の大移動戦争・・これはゲルマン文化とローマ文明との抗争だった・・や、その延長としてのゲルマン人のリコンケスタ・・これはプロト欧州文明とイスラム文明との抗争だった・・や、ゲルマン人の地理的意味での欧州外における(遊牧民生息地域を含む)植民地獲得戦争・・これは欧米諸文明と非欧米諸文化/文明との抗争・・、といった、異質の文化/文明の間の抗争、も重要であり続け、同質の文化/文明/国の間の戦争ばかりではなかった(コラム#10813参照)ことから、『孫子』の出番はなかった、というわけだ。
 では、どうして、西夏訳や清朝によるところの満州語訳・モンゴル語訳が作られたかと言えば、読めば漢人の戦略・戦術が分かるので、漢人王朝と戦ったり漢人の反乱を鎮圧したりするのに役立ったからだろう。
 毛沢東が「日中戦争の最中、どうすれば中国国民党に勝ち、日本に負けず、そして国民の支持を得られるかを考え抜き<・・このあたり、私見は異なることはご承知の通り(太田)・・>、<支那>古典の特に『孫子』と歴史書から大いに学んでいる。その代表的著作である『矛盾論』や『持久戦論』などには、5ヶ所ほどその書名を挙げて引用しているほどである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90_(%E6%9B%B8%E7%89%A9) 前掲
のは、まさにそれが、英米ソ(露)を欺騙しつつ、直接戦闘を極力回避しつつ中国国民党政権を弱体化し侵食する方法論を提供してくれたからだろう。
 そして、核時代となった現代においては、世界において、再び国と国との間の戦争は殆どなくなり、非対称戦争が大部分になったことから、(ゲーム理論の世界等においてはともかく、)またもや、『孫子』の実際の戦争における出番はなくなりつつある。
 
 では、元に戻って、どうして、孫武がそんな(普遍性のない)戦争論を書いたか、だが、彼が、北方の燕が遊牧民集団に対する防波堤になってくれているところの、斉で生まれ、その後、遊牧民集団とは無縁の江南の呉に住み、また、呉の王に軍師として仕えた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%AD%A6 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E6%98%A5%E7%A7%8B%E5%9C%B0%E5%9B%BE.jpg ←斉と呉の位置。
ため、後に漢人文明にとっての最大の脅威となるところの、遊牧民集団、との戦争を想定する環境、立場になかった、という単純な理由からだろう。
 支那の歴代王朝、とりわけ漢人諸王朝にとって「悲劇」だったのは、そんな『孫子』が「すでに戦国時代後期には古典としての地位を確立し・・・<、例えば、>魏の曹操<は、『孫子』の>簡潔で非常に優れた注釈<を残しているところ、>・・・北宋期の・・・1072年から武科挙(武挙)<(注10)>において孫子など古典兵書からの出題がはじまり、以後科挙廃止に至るまでの800年以上にわたって孫子<が>武挙の・・・最も重視された・・・出題範囲となっ<たことだ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90_(%E6%9B%B8%E7%89%A9) 

 (注10)「一般的に言われている文官登用試験は対比して文科挙といわれる。
 文科挙と同様に武県試・武府試・武院試・武郷試・武殿試(皇帝の前でおこなわれ学科のみ)の順番で行われ、最終的に合格した者を武進士と呼んだ。試験の内容は馬騎、歩射、地球(武郷試から)と筆記試験(学科試験)が課された。
・馬騎 – 乗馬した状態から3本の矢を射る。
・歩射 – 50歩離れた所から円形の的に向かって5本の矢を射る。
・地球 – 高所にある的を乗馬によって打ち落とす。
・その他 – 青龍剣の演武や石を持ち上げるなど。
 矢の的に当たる本数と持ち上げる物の重さが採点基準となる。
 学科試験には、武経七書と呼ばれる『孫子』、『呉子』、『司馬法』、『三略』、『李衛公問対』などの兵法書が出題された。
 しかし、総外れもしくは落馬しない限りは合格だったり、カンニングもかなり試験官から大目に見られたりと文科挙とは違う構造をしていた。
 また伝統的に武官はかなり軽んじられており、同じ位階でも文官は武官に対する命令権を持っていた。(以上、上掲)
 『呉子』は、「『孫子』と並び評される兵法書であるとされるが、後世への影響の大きさは『孫子』ほどではない。これは内容が春秋戦国時代の軍事的状況に基づくものであり、その後の時代では応用ができなかったのが原因であると言われる。逆に『孫子』のほうは、戦略や政略を重視しているため、近代戦にまで応用できる普遍性により世界的に有名になっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E5%AD%90
 「『司馬法』は、司馬穰苴<(しば じょうしょ)>によって書かれたとされる兵法書である。・・・そもそも、斉は兵法の開祖といわれる太公望が作った国であり、春秋戦国時代では兵法や学問が盛んに研究されていた。有名な孫子も斉人である。司馬法が成立するきっかけになったのは、斉の威王が古くから斉に伝わる兵法を駆使して斉を強国にしたという経緯の元に、兵法の大切さに気づき、家臣たちに命じて、古くから伝わる斉の兵法を研究させ、それに司馬穰苴が作った兵法を付け加えて「司馬穰苴の兵法」としてまとめたというのが有力な説である。
 敵に対して情けをかけるべきだと説く記述がみられる。「敵の老幼を見れば、傷つけず、援助して帰せ」「若者であっても、抗わないのであれば、敵対するな」「敵が傷ついたのなら薬で治して帰せ」。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E6%B3%95
 「『三略』<は、>・・・後世の人物が太公望<ら>に仮託して書いた偽書・・・
 成句「柔能く剛を制す」の出典である。名言として・・・、「智を使い、勇を使い、貪を使い、愚を使う」(智者・勇者はもちろん、貪欲者や愚者をも上手く使いこなす。指導者はどのような者でも使いこなす)がある。
 ・・・構成<は、>上略 – 人材を招く必要性や政治の要点などの記述。
          中略 – 策略の必要性や組織の統制術についての記述。
          下略 – 治国の要点や臣下の使い方などの記述。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%95%A5
 「『李衛公問対』(りえいこうもんたい)は、・・・唐代末から宋代にかけて・・・編纂されたと考えられる。李世民(唐太宗)と李靖(李衛公、字は薬師)が歴代の兵法と兵法家、もしくは将軍や宰相などの人物を話題に話し合う形で話が進んでいく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%A1%9B%E5%85%AC%E5%95%8F%E5%AF%BE

 宋以降において実施された武科挙の実態からも、漢人文明で、いかに武が軽視され、軍人の地位が低かったかが分かる。
 また、『孫子』以外で重視された諸兵法書についても、漢人文明内の戦乱しか想定していないことが分かる。

 つまり、『孫子』は、(必ずしも孫武の本意ではなかろうが、)軍事の軽視を助長し、だからこそ、文官と武官が峻別され、宋以降は科挙の試験区分が峻別される形で、武官が貶められ、しかも、これら武官に、遊牧民集団との戦いから目を背けさせてしまって、漢人文明にとっての最大の脅威への対処をおろそかにさせ続けてしまった、ということになろうか。
 何となく、憲法9条の政府解釈下の戦後の日本における自衛隊や自衛官のことを思い出させられて身につまされる。
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 しかし、戦国時代の諸国の中で、最終的に秦が再び漢人文明地域を統一する運びになるところ、繰り返しになりますが、それは、秦が戎との戦いを続けさせられる立場に置かれたことによって軍事的に鍛えられるとともに、その過程で戎の住民を大勢抱えることになったことで彼らを兵士として活用できたことから、諸国の中で、相対的に最も弥生性を強靭なものにすることができたおかげである、と見てよいでしょう。↓

 「周が追われた地に秦が封ぜられた。
 秦の穆公は度々戎を討って覇者となった。
 <戎は、>その後も何度か秦と衝突し、最後には秦に吸収され、一部は匈奴に吸収された。民族や種族としては、南北で分かれる傾向があるもの北はテュルク系、南はチベット族やチベット人の祖とされる彝族とみられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%88%8E

 秦は、戎に入れ替わるように、今度は、匈奴の脅威に直面することになりますが、そんな秦だったおかげで、取敢えずは匈奴の脅威を跳ね返すことにも成功します。
 (跳ね返すだけにとどめた・・とどめざるをえなかった?・・ことが後で、漢人文明における宿痾を引き起こすのですが・・。)↓

 「紀元前318年、匈奴は韓、趙、魏、燕、斉の五国とともに秦を攻撃したが、五国側の惨敗に終わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%88%E5%A5%B4 
 「<また、>趙の孝成王(在位:前265年 – 前245年)の時代、将軍の李牧<(下の囲み記事参照)>は代の雁門で匈奴を防ぎ、・・・撃破した。

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[李牧–漢人文明の対遊牧民集団戦の理念型の創始者]

 李牧(りぼく。?~前229年)は、「元々は趙の北方<で、>・・・国境防衛のために独自の地方軍政を許され、匈奴に対して備える任についていた。警戒を密にし烽火台を多く設け、間諜を多く放つなどし、士卒を厚遇していた。匈奴の執拗な攻撃に対しては徹底的な防衛・篭城の戦法を採ることで、大きな損害を受けずに安定的に国境を守備していた。兵達には「匈奴が略奪に入ったら、すぐに籠城して安全を確保すること。あえて討って出た者は斬首に処す」と厳命していたからである。・・・
 趙王は李牧のやり方を不満に思い責めたが、李牧はこれを改めなかったので任を解かれた。
 李牧の後任者は勇敢にも匈奴の侵攻に対して討って出たが、かえって被害が増大し、国境は侵された。そのため趙王は過ちに気付き、・・・李牧は元通り、国境防衛の任に復帰することになった。
 ある日、匈奴の小隊が偵察に来た時、李牧は数千人を置き去りにして偽装の敗退を行い、わざと家畜を略奪させた。これに味をしめた匈奴の単于が大軍の指揮を執ってやってきたが、李牧は伏兵を置き、左右の遊撃部隊で巧みに挟撃して匈奴軍を討った。結果、匈奴は十余万の騎兵を失うという大敗北に終わった・・・ため、単于は敗走し、匈奴はその後十余年は趙の北方を越境して来なくなった。・・・
 <その間にも、>趙は・・・衰亡の一途をたどっていた<が、>・・・秦の侵攻が激しくなり、・・・前234年・・・、北辺の功を認められた李牧は同年、幽繆王の命により大将軍に任じられ、中央に召還された。・・・
 李牧は秦から韓、魏の国境まで領土を奪還した。当時、秦の攻撃を一時的にでも退けた武将は李牧と楚の項燕のみである。
 紀元前229年、秦<がまたも>・・・趙を攻め<た>・・・ため、趙は李牧と司馬尚・・・に応戦させた。苦戦した秦は李牧を排除するため、幽繆王の奸臣郭開に賄賂を送り、趙王と李牧との離間を画策した。郭開は趙王に「李牧と司馬尚が謀反を企てている」と讒言した。
 趙の軍事を掌握し功名の高い李牧を内心恐れていた幽繆王はこれを疑い、郭開の言を聞き入れ、李牧を更迭しようとした。だが、李牧は王命を拒んだため、幽繆王によって密かに捕らえられて誅殺され、司馬尚も解任・更迭された。・・・
 <その後、趙の首都の>邯鄲は秦軍によって陥落、幽繆王も捕らえられ、趙はついに滅亡した(・・・前228年)・・・。・・・趙が滅んだのは李牧が殺害されて3ヵ月後(あるいは5か月後)だったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%89%A7

⇒趙の南に魏、更にその南に韓、という位置関係だったので、「韓、魏の国境まで領土を奪還した」とは、元々は晋であって、それが三国に分かれた残りの二国が韓と魏であったところ、秦によって韓と魏の領土の多くが奪取されていたのを「奪還した」ということは、李牧が攻勢作戦をとったことを意味する。
 つまり、李牧は、遊牧民集団に対しては守勢作戦のみであったのに対し、漢人文明内勢力に対しては攻勢作戦ももちろんとった、ということであり、以後、遊牧民集団に対しては、基本、守勢作戦のみ、というのが、それが大成功を収めたことから、漢人文明において理念型となった、と私は見ている。(太田)
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 紀元前215年、秦の始皇帝は将軍の蒙恬に匈奴を討伐させ、河南の地(オルドス地方)を占領して匈奴を駆逐するとともに、長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防いだ。

⇒これは、必ずしも攻勢作戦をとったということではなく、黄河という自然境界より外へ匈奴を追い出すことによって、爾後防勢作戦に徹することを可能にしようとした、というのが、私の認識です。(太田)

 <しかし、>単于<(注11)>の頭曼<(とうまん)>は始皇帝および蒙恬の存命中に<支那>へ侵入できなかったものの、彼らの死(前210年)によってふたたび黄河を越えて河南の地を取り戻すことができた。

 (注11)ぜんう。「匈奴を初めとした北アジア遊牧国家の初期の君主号である。また、単于の妻のことを閼氏(えんし)といい、特定の姻族または漢の公主がこれになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E4%BA%8E

 ある時、単于頭曼は太子である冒頓<(ぼくとつ)>を人質として西の大国である月氏へ送ってやった。
 しかし、単于頭曼は冒頓がいるにもかかわらず月氏を攻撃し、冒頓を殺させようとした。
 冒頓は命からがら月氏から脱出して本国へ帰国すると、自分に忠実な者だけを集めて単于頭曼を殺害し、自ら単于の位についた。
 単于となった冒頓はさっそく東の大国である東胡に侵攻してその王を殺し、西へ転じて月氏を敗走させ、南の楼煩<(ろうはん)>、白羊河南王を併合した。さらに冒頓は楚漢戦争中の<支那>へも侵入し、瞬く間に大帝国を築いていった。」(上掲)

 さて、秦は、始皇帝死後、あっけなく滅びてしまったわけですが、その理由の第一は、始皇帝が、中央集権制(郡県制)を採用した(注12)一方でそれを支えるに足る中央軍を整備・維持するための努力が不十分であった(注13)ことです。

 (注12)「郡県制<は、>・・・起源的には県は秦の武公の10年(前688)に,〈冀の戎(じゆう)を伐(う)って初めてこれを県にする〉と《史記》に見えるのが最も古い。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D-73021
 つまり、郡県制は、旧四夷地の統治制度として始まったわけだ。
 始皇帝以前の秦においては、その後は、郡県制と封建制が併用されることになったが、
https://hajimete-sangokushi.com/2016/02/29/post-10054/
商鞅がの時に、郡県制一本にした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6 
 始皇帝は、この郡県制を、(既に採用していた他の旧諸国地域もあったわけだが、漢人文明地域全体に及ぼした点がミソだ。
 (注13)兵站路として、大運河を建設したり、現在の内モンゴル自治区包頭市にまで通じる軍事道路「直道」を整備したりし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
軍隊をただちに送り、政令を全国の隅々まで行き届かせるために、車軌(しゃき)(両輪の間の幅)を一定にし、交通網を整備したりしたこと
https://kotobank.jp/word/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D-73021
はよしとするも、「丞相([行政])、太尉(たいい)([軍事])、御史大夫(ぎょしたいふ)(監察[・政策立案])を中心とする・・・中央官制を敷<いた>」(上掲。但し、[]内は
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%85%AC )ことから窺われるのは、この3者([三公])が並列的に皇帝に直結していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%85%AC 上掲
一方で、太尉だけは、「秦及び前漢では・・・常設されなかったようである」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B0%89
ことからすると、軍事が軽視されただけではなく、始皇帝は(秦帝国が遊牧民帝国ではないことから、当然のことながら大部分の臣民は軍事音痴であったにもかかわらず、)軍事の専門性を否定した、と見てよいのではないか。
 軍事が軽視されたことは、「県の上に上級の行政単位である郡を置き、太守(長官)・丞(副長官)・尉(軍事担当)・監(監察官)をそれぞれ置いた。県の長官・副長官は・・・令と丞である(区別して県令・県丞と呼ばれることもある)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6 前掲
以上、丞が尉より上位であることが明白であることからも分かる。

 このように、軍事が軽視された一方で、中央集権制が徹底され、「民間での武器所有を禁じた」
https://kotobank.jp/word/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D-73021 前掲
くらいなのですから、武器の製造、保管、修理の全てはもとより、兵士の教育訓練も作戦の企画立案も全て、を帝国政府自身が行わなければならなくなったというのに、これらの総体を所管して皇帝を補佐する者が任命されないことがあった、というのですから、呆れてしまいます。

 このことが原因でもあり結果でもあると想像されますが、第二に、李牧に倣って、強力な北(遊牧民)の脅威に対しては基本的に防勢戦略(万里の長城の建設(注14))を採り、弱体な南(嶺南–現在の広東省やベトナムの一部)に対しては攻勢戦略を採った(注15)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
ところ、私見では、これは、誤った軍事戦略であったことです。

 (注14)戦国時代に既に秦時代の長城の殆ど全てが出来上がっていた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6c/EN-QIN260BCE.jpg
 (注15)秦朝の成立はBC221年だが、BC214年、始皇帝は、一説によれば、10万の兵力を対北用に控置しつつ、50万の兵力で、対南(現在の四川省や人口過疎地帯であったハノイまでの沿岸地方)攻勢に出、初期段階で四川で多大な死傷者を出しながらそれに成功した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Qin_campaign_against_the_Yue_tribes
 その上で、50万人の漢人を南方の占領地に送り込み、漢人文明を原住民に押しつけた。
 その際、漢人たる犯罪者達や亡命者達(exiles。どこからの亡命者かといったことも含め解明できず(太田))を活用した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Qin_campaign_against_the_Yue_tribes

 なお、始皇帝は、南への攻勢が一段落したところで、北に攻勢を行うつもりだったのに、その前に死んでしまったという可能性はないのかと問われれば、それはない、と言っていいでしょう。
 というのも、兵馬俑(注16)を見る限り、始皇帝が死後、つまりは将来に用いようとした軍隊は、「歩兵100万、戦車1000両、騎兵1万といわれ<た>・・・戦国末期<の>秦の兵力」<構成、つまりは始皇帝存命当時の兵力構成同様、>歩兵中心であり、
http://www5b.biglobe.ne.jp/~tanzawa/heibayou1/heibayou.htm
騎兵中心でなければ、遊牧民と攻勢作戦において互角以上に戦うことはできないからです。

 (注16)「古代<支那>で死者を埋葬する際に副葬された俑のうち、兵士及び馬をかたどったもの。狭義には陝西省西安市臨潼区の秦始皇帝陵兵馬俑坑出土のものを指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E9%A6%AC%E4%BF%91

 (戦車だって、大草原では、スピードが遅いので使い物になりますまい。)

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[秦と漢の兵力構成の違い]

 秦は騎兵を重視していなかったわけだが、秦にとってかわった、漢は重視した。↓

 「・・・漢の兵馬俑は、劉邦の陵墓から出土したものではなく、その陪葬墓の周勃<(しゅうぼつ)>、周亜夫父子の墓から出土した。周勃(?~紀元前169年)は、前漢初期の名将である。彼は秦に反対して挙兵した劉邦に従い、いくたびも戦功を立て、後に太尉<(注目!(太田))>の位に昇って天下の兵馬の権を握った。
 劉邦が死んだ後、呂后が権力を簒奪したが、その後すぐに、周勃らが呂氏一族を根こそぎ排除し、劉邦の子、劉恒<(りゅうこう)>を擁立し、漢の文帝とし、天下は再び劉氏の手のもとに戻った。漢の文帝は周勃を「社稷の臣」として表彰し、さらに右丞相に昇格させた。
 「虎の父に犬の子なし」と言われるが、周勃の次男、周亜夫(?~紀元前143年)は、漢の文帝、景帝の時代、何度も北方の匈奴の侵攻を撃退した。また、紀元前154年には、呉楚7国の乱を平定し、再び漢朝の統治を守り、文帝から「真将軍」と賞賛され、景帝も周亜夫に丞相の位を授けた。
 これにより、周勃と周亜夫の父子は、死後も劉邦のそばに埋葬されるという特別な栄誉を与えられた。彼らは生前、真心を込めて漢の王室を守り、死後も引き続き兵馬俑を率いて、地下の漢王朝を守護している。・・・
 その中には、騎兵俑が583件、歩兵俑が1965件、舞楽雑役俑が百余件、盾が1000件含まれていた。・・・
 秦の俑の中に出現した戦車の俑は、漢の俑の中では消えうせ、それに代わって大量の騎兵俑が出現した。馬につける鞍や鐙が<支那>ではいつごろ出現したかについてはまだ定説はないが、騎兵俑の出現は、遅くとも紀元前2世紀ごろ、漢朝の軍隊はすでに騎兵による作戦の技能を修得し、重要な兵種の一つに発展させていたことを証明している。これは大きな意義を持つ軍事的変革で、敏捷で快速の、長途を駆けて襲撃できる騎兵は、その後の<支那>の歴史に大きな役割を果たした。・・・」
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200701/13teji-2.htm 

 しかし、そんな漢も、遊牧民の匈奴に対抗こそできたけれど、その脅威を完全に取り除くことはできなかった。(後述)
 これは、秦の始皇帝の、北の遊牧民の脅威に対しては防勢戦略、という考え方が漢(及びそれ以降の歴代王朝)でも基本的に踏襲されたためだ。
 ここで、引用文中に登場した文帝の挿話を紹介しておこう。
 (南越にはそれでよくても、匈奴にはダメだというのに・・。)↓

 「文帝は、臣下が南越と朝鮮が漢の統治に服従しないため征伐しなければならないと建議すると、・・・「兵器は凶器だ。武力で望むことを成し遂げることができたとしても、戦争をすれば財物を消費し、民を遠い国境に送らなければならない。どうしてそんなことができようか。」<と>話<した。>」(『史記』より)
http://www.donga.com/jp/home/article/all/20191203/1917511/1/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%B7%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%AB%96
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 いずれにせよ、始皇帝が初めて用いたところの、「皇帝」という、支那の元首の呼称が、その後、清朝まで踏襲されたこと、かつまた、中央集権制が、清朝までどころか、現在に至るまで堅持されてきていること、が象徴しているように、支那の歴代諸王朝のほぼ全てにおいて、始皇帝の事績の大部分が、この対北防勢・対南攻勢戦略も含め、踏襲されるべき先例とされてしまったことが問題なのです。(注17)

 (注17)始皇帝が弾圧した儒教が、その後の歴代王朝では尊重された点は例外のように見えるが、秦では、「儒家思想は「封建」の復古を願うものとして弾圧され<た>」
https://kotobank.jp/word/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D-73021
ところ、その後の歴代王朝は「「封建」の復古を」行わなかったのだから、この点だけからも、その後の歴代王朝が儒教を実は尊重などしていなかったことが分かろうというものだ。
 (「孔子は魯の出身であ<ったところ>、・・・周公旦・・・を理想の聖人と崇め<たことで知られているが、旦は、>・・・周が成立すると曲阜に封じられて魯公とな<った人物であり、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%85%AC%E6%97%A6
孔子が旦を聖人視したことは、とりもなおさず、周の封建制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)
を理想視していたことを意味する。)
 すなわち、かねてから私が主張しているように、秦及びそれ以降の支那の全王朝は、法家の思想をタテマエとして掲げつつ、墨家の思想をホンネとして抱懐し続けたのだ。
 なお、「秦の始皇帝は<法家の韓非の『韓非子』の>孤憤・五蠹の篇を読んで,いたく感激し,この人に会って交際を結ぶことができたら,死んでも思い残すことはない,と漏らしたという。《韓非子》では,人民は、日本におけるように仁政の対象どころか、支配と搾取の対象であり,君主に奉仕すべきものとされ」(上掲)ており、この人民観は、秦及びそれ以降の支那の全王朝の歴代皇帝達によって共有されることになったのではなかろうか。

 そして、第三は、これこそ秦がすぐ滅亡してしまった直接的な原因なのですが、大土木工事等を行ってその経費を確保するために人民に対して苛斂誅求政治を行い、民心の離反をもたらした<(注18)>ことです。

 (注18)「「陳勝、蜂起す」。この噂が広まると、それまで秦の圧制に耐えていた各地の人民が郡守や県令を血祭にあげて陳勝に呼応した。・・・陳勝の死後、対秦の戦争は楚の項梁[・・その甥が項羽・・]によって引き継がれ、劉邦が武関を破るに及んでついに秦王・子嬰が降伏し、秦帝国(子嬰の代には王国に戻る)は滅ぶ。時に紀元前206年であった。」 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%8B%9D%E3%83%BB%E5%91%89%E5%BA%83%E3%81%AE%E4%B9%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E6%A2%81 ([]内)
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[蒙恬の匈奴「討伐」の「遺産」]

 表記については、私の頃の高校の世界史の教科書にも登場した、比較的よく知られている話だが、蒙恬(?~BC210年)は、「当初は文官として<秦>宮廷に入り、訴訟・裁判に関わっていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E6%81%AC
人物であるところ、「紀元前225年、李信<(注19)>の副将として楚討伐に加わり、寝丘(河南省)を攻めて大勝した。その後、城父(河南省)で李信と合流したが、後方の郢陳で起きた反乱鎮圧に向かう李信の軍を三日三晩追い続けていた楚の項燕(項羽の祖父)に大敗した。

 (注19)生没年を含め、素性が良く分かっていない。
 なお、信頼性はないが、宋代に編纂された『新唐書』では、李信は、唐の高祖李淵の祖先とされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E4%BF%A1

 <それでも、>紀元前221年、家柄によって<(注20)>将軍となり、斉討伐では見事に斉を討ち滅ぼし、内史<(注21)>とされた」(上掲)。

 (注20)蒙恬は、著名な将軍達や軍事建築家達(military generals and architects)を輩出させた家系に生まれた。彼の父親の蒙武は、<対楚戦で>王翦の副将を務めた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Meng_Tian
 その王翦(おうせん。前220代)について、少し詳しく紹介しておく。→「秦王政(後の始皇帝)に仕えた戦国時代末期を代表する名将で、趙・楚を滅ぼすなど秦の天下統一に貢献した。・・・
 楚の平定に当たり、政から諸将へ見通しを問われた際、王翦は「兵60万が必要」と慎重な意見を述べたが、政は若い将軍の李信の「兵20万で十分」という積極的で勇猛に聞こえる意見を採用し、楚への侵攻を任せた。ここで王翦は自ら引退を申し出て隠居する。しかし、楚へ侵攻した秦軍は、楚軍の奇襲を受けて大敗した。楚軍はその勢いのままに秦へ向けて進軍し、楚の平定どころか秦が滅亡しかねない程の危機となった。政は楚を破れるのは王翦しかいないと判断し、王翦の邸宅を自ら訪ねて将軍の任を与え、王翦が先に述べた通り60万の兵を与える。これは秦のほぼ全軍であり、反乱を起こすには十分過ぎる数だったため、臣下には疑いを抱く者も多数いた。
 王翦は、楚軍の迎撃に出るが、政自ら見送った席のみならず、行軍の途中ですら、勝利後の褒美は何がいいか、一族の今後の安泰は確かかなどを問う使者を政に逐一送った。そして国境付近に到着すると、堅固な砦を築いて楚軍を待ち受けた。楚軍もここへ到着し砦を攻め始めたが、その堅牢さに手を焼いた。一方の秦軍も防御に徹して砦から出なかったため、膠着状態となった。楚軍は、攻めても挑発しても秦軍の出てくる気配が全くなく、砦も堅牢なため、これでは戦にならないと引き上げ始めた。しかし、これこそ王翦の待っていた機会であった。追撃戦で楚軍を破るために、砦に篭る間も兵達に食料と休息を十分に与え、英気を養っていたのである。英気が余って遊びに興じる兵達を見て、王翦は「我が兵はようやく使えるようになったぞ」と喜んだという。王翦率いる秦軍は、楚軍の背後から襲い掛かり、戦闘態勢になかった楚軍を散々に打ち破った。王翦は、さらに楚に侵攻し、翌年にこれを滅ぼした。
 王翦は、政に逐一送った使者について、部下から「余りに度々過ぎます。貴方はもっと欲の無い人だと思っていましたが」と訊ねられた際、「お前は秦王様の猜疑心の強さを知らない。今、私は反乱を起こそうと思えば、たやすく秦を征し得るだけの兵を率いている。秦王様は自ら任せたものの、疑いが絶えないだろう。私は戦後の恩賞で頭が一杯であると絶えず知らせることで、反乱など全く考えていないことを示しているのだ」と答えた。
 王翦は政の猜疑心の強さを良く理解していた。引退を申し出たのも、政は役に立つ人間には丁重だが、役に立たないと判断した人間には冷淡で、特に権勢があるものはどれだけ功績があろうとも些細な疑いで処刑・一族皆殺しにしかねなかったためである(呂不韋・樊於期という実例もある)。自分の意見が採用されなかったことで、政が「王翦は老いて衰え、弱気になった」と思っていると察し、素早く将軍の座から退いた。実際に引退を申し出た際、政は全く引き止めなかった。このため、政本人から将軍に請われ、ほぼ全軍を与えられてもいい気にならず、猜疑を打ち消す心配りを絶やさなかったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%BF%A6
 「前224年、李信と蒙恬を破った楚の項燕が秦に侵攻してきたので、<蒙恬の父の>蒙武は王翦の副将となって共にこれを破り、項燕は自殺した。
 ・・・前223年、再び蒙武は王翦の副将となって共に楚を攻め、楚王負芻を捕え、楚を滅ぼした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E6%AD%A6
 (注21)「首都及び近辺の県を統治した・・・官<僚>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%8F%B2 

 その蒙恬が、「その後の紀元前215年には30万[(10万)]の軍を率いての匈奴<(注22)>征伐では、オルドス<(注23)>地方を奪って匈奴を北へ追いやると、辺境に陣して長城、直道(直線で結ぶ道)の築造も担当し・・・これらの軍功に始皇帝からも大いに喜ばれ<た>」(上掲)けれど、可耕地に入植させた農民達が生活苦から後に反乱を起こしたりし、結局、資源の浪費に終わった、
https://en.wikipedia.org/wiki/Qin%27s_campaign_against_the_Xiongnu 
https://en.wikipedia.org/wiki/Meng_Tian ([]内)
というのが匈奴「討伐」の全てだった。

 (注22)始皇帝が、農民に遊牧民との交易を禁じていたこともあり、オルドス地方の匈奴は農民への襲撃を繰り返していた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Qin%27s_campaign_against_the_Xiongnu 
 (注23)「<現在の>内モンゴル自治区南部の黄河屈曲部で、西・北・東を黄河に、南を万里の長城に囲まれた地方。・・・大部分が海抜1500メートル前後の高原(準平原)でオルドス高原と呼ばれ、南側は黄土高原に続く。一部はステップ、大部分が砂漠でオルドス砂漠という。・・・農業や牧畜が行われる・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%B9%E5%9C%B0%E6%96%B9

 「<ちなみに、>この頃、始皇帝に焚書を止める様に言って遠ざけられた<、始皇帝の長男の>扶蘇<(注24)>が蒙恬の元にやって来て、扶蘇の指揮下で匈奴に当たるようになった・・・

 (注24)?~前210年。「仁愛ある人格と聡明さで知られ、始皇帝を諫めていた。始皇帝からは後継者に目されていたが、始皇帝の死後、弟の胡亥<ら>の謀略により、自決を命じられ、抵抗することなく自決した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E8%98%87

 <ところが、>紀元前210年、始皇帝が死ぬと・・・即位した胡亥(二世皇帝)からの自殺命令が<蒙恬に>届<き、彼は>・・・毒を飲んで自殺した。蒙恬の死後、<蒙恬の弟の>蒙毅も・・・言いがかりを付けられて、蒙氏一族は皆殺しにされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E6%81%AC 前掲

 政(後の始皇帝)が、李信に副将として蒙恬、王翦に副将として蒙武を付けたのは、蒙一族に期待したのが軍事建築専門家達としてであること以上に、秦の王室に忠実であったことから目付として重宝した、と考えられるところ、そんな蒙一族の蒙恬を、作戦能力には疑問符が付く人物であるにもかかわらず、正将として対匈奴戦に送り出したのは、それが、最初から長城建設を主目的するものであったからだと思われる。
 しかし、そんな忠実な蒙一族の蒙恬にすら晩年の始皇帝は猜疑心を募らせ、自分が最も信頼していた長男の扶蘇を、途中から目付役の副将として送り込んだ、というわけだ。
 そして、この、蒙恬も扶蘇も、始皇帝の死の直後に謀殺されてしまう。
 (そもそも、始皇帝が扶蘇を後継にと考えていながら、生前、その旨を表明していなかったことが、始皇帝死去後の扶蘇の謀殺をもたらしたわけだが、それも、扶蘇やその取り巻きによって、始皇帝が寝首をかかれることを恐れてのことだったと想像される。)
 たったこれだけのことからも見えてくるのは、漢人文明が最初から持っていなかった(失っていた)のか、同胞相争う春秋戦国時代が失わせたのか、はともかくとして、戦国時代と帝国時代の秦において、西周の初期には垣間見られたところの、漢人文明の人間主義(縄文性)が、ほぼ完璧に失われていて、その状態が、基本的に、以後の歴代王朝においても続いた可能性が高いことだ。
 (漢の武帝が儒教を「官学化<し、>・・・前漢末から後漢初にかけて・・・儒家一尊体制が確立された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99
のは、気休めに毛が生えた程度の話だが、「忠」意識を臣下達・・人民ではない!・・に注入することで、少しでも造反を抑止することに繋がるかも、と思ったからではなかろうか。)

 それはそれとして、私が言いたいことまとめておこう。
 「<蒙恬について、BC100年前後の人間である>司馬遷・・・<が、>「私は、蒙恬が秦のために築いた長城や要塞を見たが、山を崩し谷を埋めて道路を切り開いたこと、まことに民の労力を顧みないものである。天下が治まった当初、負傷者たちの傷はまだ癒えていなかった。蒙恬は(始皇帝に信頼された)名将であるのだから(始皇帝に諫言して)、この時こそ、人民の危機を救い、老人を養い孤児を憐み、民の融和を図るべきであった。・・・」と厳しく批判した」(上掲)ことは、司馬遷の頃までに、漢人文明に、『孫子』的軍事観が浸透・確立し、その弥生性が、いかに甚だしく毀損されてしまっていたことを如実に示している。
 私としては、司馬遷ほどの人物には、蒙恬が、始皇帝に対し、南方重視戦略を北方重視戦略に切り替え、騎兵を中心とした大兵力を整備するとともに、遊牧民地との境界農地には屯田兵を入植させ、秦の領域内には、長城ではなく、もっぱら軍道網と狼煙台
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%BC%E7%85%99
群を整備した上で、領域外の北方に向けて、狼煙台付の中継城群を建設しながら、逐次、騎兵等を前進させ、匈奴の本拠地域に大きな城を建設し、そこから四囲を睥睨する態勢を構築する、といった策を提示すべきだった、的なことを記して欲しかったのだが、始皇帝/蒙恬にも司馬遷にも、そんなことを期待するのは野暮も甚だしい、ということなのだろう。
 ここで、またもや繰り返したいのは、漢人文明が、春秋戦国時代に、文明内抗争に追われ、対遊牧民では長城を設ける等、守勢を採らざるを得ない状態が長く続いたことから、その弥生性が普遍性を失ってしまい、秦帝国が、それでよしとしたことで、以後、このような偏頗な弥生性が伝統化してしまったのではないか、ということだ。
 なお、民衆は単なる搾取の対象だったが、家臣達(後の時代の士大夫達)の方は方で、君主の猜疑心や同僚達の妬み嫉み、ひいては殺意の対象であったわけであるところ、こういったことは、古今東西、殆どの文明、文化、国、集団において見られたのであり、漢人文明に限ったものではないことに注意が必要だ。
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[中央集権制(郡県制)の弊害]

 イギリスは議会主権だが、議会の意思は地域代表達の議論と採決によって決定されるので、アングロサクソン文明は典型的な中央集権制の文明であるとは言えない。
 また、プロト欧州文明は、封建制の文明であり、その構成諸国は、いずれも中央集権制ではなかった上に、権威は基本的に法王に属しており、かかる権力と権威の分離、という点においても、中央集権制ではなかった。
 アングロサクソン文明の部分的継受によって、プロト欧州文明は欧州文明へと「発展」し、各国において絶対主義王政に始まる中央集権化がなされ、法王の権威も減衰していったけれど、文明全体の統一国家が形成されることがなかった以上、真の中央集権制とは無縁のまま現在に至っている。
 以上の結果として、アングロサクソン文明においても、欧州文明においても、言論・思想の自由が一定程度確保され続けた。
 日本文明に関しては、縄文時代からエージェンシー関係の重層構造からなる政治経済体制的なものがあったと思われる上に、大和王権成立より前の弥生時代から権威と権力の分離の伝統があったように思われること、から、やはり、中央集権的ではなかった。
 ところが、漢人文明では、秦の始皇帝が厳格な中央集権制である郡県制を採用し、これを爾後の歴代諸王朝も基本的に踏襲したことによって、言論・思想の自由が著しく制約されたまま推移することとなった。
 このことによって、秦帝国成立以前の諸子百家が生み出された環境が失われしまい、実際、爾後、いかなる新しい「家」も生まれることがなかった。
 (儒家中の、程明道と王陽明が唱えた「万物一体の仁(人間主義)」(コラム#10233等)は、私見では新しい「家」であったと思うが、一般にはそう見なされていない。)
 ところが、そんな言論・思想の自由が著しく制約されてからの漢人文明が、世界中に大きな影響を与えたところの、羅針盤(3世紀)、火薬(唐代)、紙(前150年頃まで)、印刷(7~8世紀頃)、という四大発明を生み出している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E7%99%BA%E6%98%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BD%8D%E7%A3%81%E9%87%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%96%AC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E5%88%B7
 このような「偉業」が可能であった要因の究明は他日を期したいが、取敢えず頭に浮かぶのは、諸子百家の時代のモメンタムというか熱気というか、が、しばらくは漢人文明の識者達の意識に残っていた可能性があること、に加えて、(一貫して変わらないことだが、)IQの高い人々の数において漢人が全世界中突出していたことだ。
 いずれにせよ、8世紀頃以降は、漢人文明は、もはや、これらに匹敵する「偉業」を生み出す能力を失ったように見える。
 その最大の原因は、漢人文明の最初からの属性であるところの、偏頗な弥生性、この場合より端的に言えば、対外戦争回避性にあった、というのが私の考えだ。
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  ウ 総括

 以上を、若干補足しつつまとめると次のような感じでしょうか。

A 総論

 漢人文明最初の分裂時代であり、しかも約550年にもわたった長期分裂時代であったところの、春秋戦国時代(BC770~BC221年)(注25)、を収束し、統一を回復するという画期的な大事業を成し遂げた秦の在り方・・各論において列挙・・が、(反面教師となった苛斂誅求を除き、)仰ぎ見られ、支那の爾後の歴代王朝の在り方を規定してしまった可能性が高い。

 (注25)「春秋時代には周王は政治の実権は握っていなかったが、依然として精神面の中心であり、諸侯は王に次ぐ2番目の地位たる覇者となろうとしていた。それに対して戦国時代は、諸侯自らがそれぞれ「王」を称して争うようになり、残っていた周王の権威は殆ど無くなった。」
 なお、「秦が統一した領域は周が影響力を及ぼした領域よりも広い。他にも南の楚は元々は自ら王号を称える自立した国であった。また東・北についても斉や晋などの国により領域が拡大された。
 周辺部だけではなく、内地に関しても大きな変化が起こった。春秋時代の半ば頃まではそれぞれの邑(村落)が国内に点在し、その間の土地は必ずしもその国の領域に入っている訳ではなく、周(もしくは周の諸侯)に服属しない異民族が多数存在していた。しかし時代が下るにつれ、そうした点と線の支配から面の支配へと移行していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3

B 各論(秦の在り方)

 a 統治理念としての、タテマエは法家、ホンネは墨家(非戦/経済至上主義)、が追求される。
 (但し、漢以降は、法家と儒教(がデフォルメされたもの)が一体化したものが、タテマエ。)
 b 統一(権力掌握)・・分裂状態の解消・・は、遊牧民との戦いで弥生性が強化されたところの、ないしは、遊牧民系の、勢力によってなされる。
 但し、前者は統一後は弥生性が急速に偏頗化し、後者は人口差と文明度の差を背景に漢人文明総体を継受後、弥生性が急速に偏頗化する。(秦の直後の漢、と、すっと後の明、による統一はその数少ない例外。)
 c 統治体制として中央集権制(郡県制)が採られる。(但し、漢初期等を除く。)
 d 遊牧民集団に代表されるところの、異質な文化/文明の集団や国との軍事的抗争は極力回避するという偏頗な弥生性とあいまって軍事は軽視される。
 e 統一(権力掌握)前も後も、遊牧民地域に対しては守勢戦略、漢人文明(非遊牧民)地域に対しては攻勢戦略が採られる。
f 標準化に配意しつつ、漢人文明を整備・維持するとともに、漢人文明の、統治下の僻地、及び非統治下の周辺地域、への普及が図られる。
 g (秦崩壊を他山の石として、)苛斂誅求が行き過ぎないよう配意される。

 (4)漢(前206~後220年)–偏頗な弥生性の「伝統」化

 秦は苛斂誅求の行き過ぎによって自滅したところ、楚漢戦争を経てそれにとって代った漢は、秦のeのせいで、遊牧民世界において急速に強大化することができたところの、匈奴、に怯え、下手に出ざるをえない状態でスタートを切りつつ、高祖の劉邦は、aとdを維持しつつgを励行し、bの前段を回避するとともに、地方分権制(封建制)を復活します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E9%82%A6
 二代目の文帝は、gを更に徹底して励行することを含め、これを維持したのに対し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
三代目の恵帝は、中央集権化を再度図ることにしたところ、それに反発して起こった呉楚七国の乱のを鎮圧し、領主権力を剥奪することによって、それに概ね成功します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
 四代目の武帝(BC156~BC87年。皇帝:BC141~BC87)は、「儒教を官学と」する(上出)とともに、「各地方郷里の有力者とその地方の太守が話し合って当地の才能のある人物を推挙する・・・郷挙里選の法と呼ばれる官吏任用法を採用<、>・・・特に儒教の教養を身につけた人物を登用<することとした上で、>・・・上出の二代にわたるg・・「<すなわち、>文景の治・・・による多大な蓄積を背景に、宿敵匈奴への・・・反攻作戦を画策する。
 かつて匈奴に敗れて西へ落ちていった大月氏へ張騫<(注26)>を派遣し、大月氏との同盟で匈奴の挟撃を狙った。

 (注26)ちょうけん(?~前114年)。「建元年間(・・・前140年~・・・前135年)<、>・・・漢<は>・・・対匈奴の同盟を説く使者を募集し・・・張騫はこれに自薦して・・・選ばれた。・・・前126年に・・・漢へ・・・帰還・・・。<途中、二度にわたり匈奴に捕らわれ、>出発の時共に出発した100人余りいた随行員がこの時には2人になっていたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E9%A8%AB

 同盟は失敗に終わったものの、張騫の旅行によりそれまで漠然としていた北西部の情勢がはっきりとわかるようになった事が後の対匈奴戦に大きく影響した。

⇒漢人離れした張騫の出自を知りたかったのですが、少し当たった限りでは分かりませんでした。(太田)

 武帝は衛青<(後出)>とその甥の霍去病<(後出)>の両将軍を登用して、匈奴に当たらせ、幾度と無く匈奴を打ち破り、西域を漢の影響下に入れた。
 更に李広利に命じて、大宛(現中央アジアのフェルガナ地方)を征服し・・・た。

⇒「劉徹<(後の武帝)は、>4歳の時、膠東王(山東省にあった王国)に封ぜられ・・・16歳で<皇帝に>即位した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%86%A0%E6%9D%B1%E9%83%A1
ところ、「膠東郡(こうとう-ぐん)は、<支那>にかつて存在した郡。秦代から漢代にかけて、現在の山東省青島市一帯に設置された。」(上掲)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%86%A0%E6%9D%B1%E9%83%A1
であり、武帝は膠東王であった時に、遊牧民との戦いを見聞した可能性が高いと思います。
 だからこそ、珍しくも、遊牧民集団である匈奴に対して攻勢戦略を採ったのだ、と。(太田)

 また南越国に遠征し、郡県に組み入れ、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする漢四郡を朝鮮に置いた。・・・
 <しかし、これらの>外征や自身の不老長寿願望等から来る奢侈により財政の悪化を齎(もたら)し、・・・その解決のため塩鉄の専売や、増税、貨幣改鋳も行なった<が、>これらの負担により流民化する民衆が増え、各地に反乱を誘発させた。」(上掲)
 その結果、始皇帝の死はBC210年で滅亡はBC206年なので、死からわずか4年後に秦は滅びた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6
のに対し、武帝の死はBC87年で新の成立はAD8年なので漢が滅びるまで95年もかかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E8%8E%BD
という違いこそあれ、秦は始皇帝によって、また、漢は武帝によって、滅びたと言っていいでしょう。
 (前にも記したことがあります(コラム#省略)が、後漢の初代皇帝の光武帝となった劉秀(BC6~AD57年)は、更に後代の、蜀漢の皇帝となった劉備(161~223年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%82%99
よりは、系譜が明らかではあっても、前漢の六代目の景帝から数えて、傍流でしかも六代目といういかがわしさであり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%AD%A6%E5%B8%9D
後漢は、事実上、新しい王朝であったと言うべきです。)
 始皇帝も武帝も、最大の敵であるところの、対最強遊牧民集団・・彼らの時代においては匈奴・・に対する軍事戦略を最優先することなく、しかも、軍事だけでなく、あらゆることで資源の浪費に明け暮れ、自分の王朝を滅ぼしたのです。

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 [匈奴と鮮卑(含む・三国時代~西晋)]

 耳慣れない人物が多数登場するので辟易されるかもしれないが、支那の、とりわけその漢人諸王朝における偏頗な弥生性の形成に決定的役割を果たしたところの、二大遊牧民集団と漢人文明との交渉をここで整理しておく。↓

 「<匈奴の>冒頓<(注27)>が北の・・・諸族を服属させた頃、<支那>では漢の劉邦が内戦を終結させて皇帝の座に就いていた。

 (注27)冒頓単于(ぼくとつぜんう。前209~前174年)。「「単于」とは匈奴の言葉で君主を指し、漢語で言うところの王・皇帝に相当する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%92%E9%A0%93%E5%8D%98%E4%BA%8E

 紀元前200年、匈奴は馬邑城<(注28)>の韓王信<(注29)>を攻撃し、彼を降伏させることに成功した。

 (注28)現在の山西省朔縣城西北隅。
https://www.itsfun.com.tw/%E9%A6%AC%E9%82%91%E5%9F%8E/wiki-6224382-5714862
 (注29)?~前196年。「戦国時代の韓の襄王の妾腹の曾孫として生まれるが、まだ年少だった紀元前230年に韓が滅亡し、王族の身分を失う。・・・
 楚漢戦争初期、信は張良の推薦で劉邦<に仕えることになった>。まもなく、・・・韓王に封じられた。・・・劉邦が初めて封じた諸侯王である。
 楚漢戦争が終結して劉邦が皇帝となると、韓王信は匈奴への備えのため、太原郡<(≒馬邑城?)>を韓と改名してそこに遷される。間もなく匈奴が領内に侵攻し、信は冒頓単于と休戦交渉を行おうとするが、このことが裏切り行為と見なされ、やむなく匈奴に投降した。以後、匈奴の将軍として漢軍とたびたび交戦するが、紀元前196年に<漢軍>との戦いに敗れて・・・斬首された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E7%8E%8B%E4%BF%A1

⇒とにかく、このように、遊牧民集団を含むところの、敵、に寝返る臣下がひっきりなし、ということでは、漢人文明の皇帝達は気が休まる時がなかったことだろう。(太田)

 匈奴はそのまま太原に侵入し・・・た。
 そこへ高祖(劉邦)率いる漢軍が到着するが、大雪と寒波に見舞われ、多くの兵が凍傷にかかった。
 冒頓は漢軍をさらに北へ誘い込むべく偽装撤退を行うと、高祖は匈奴軍を追った挙句に・・・山へ誘い込まれ、7日間包囲された。
 高祖は陳平の献策により冒頓の閼氏(えんし:歴代単于の母<の呼称>)[贈り物をして包囲の一角を開けさせ・・・そこから]逃走した。<(注30)>

 (注30)前200年の白登山の戦い。匈奴軍40万人、漢軍32万人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%99%BB%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ([]内も)

⇒両者の兵力は漢側の史料に拠るのであろうところ、敗戦の原因を盛った可能性があって信憑性に疑問符が付くが、仮に事実だとすれば、漢側が兵力量においてさえ劣っていたのでは、最初から、敗戦はほぼ必然であった、と言うべきだろう。(太田)

 これ以降、漢は匈奴に対して毎年貢物を送る条約を結び、弱腰外交に徹する。
 紀元前177年、匈奴の右賢王が河南の地へ侵入し、上郡で略奪をはたらいた。
 そのため、漢の孝文帝<(文帝)>(在位:前180年~前157年)は丞相・・・に右賢王を撃たせた。
 白登山の一件以来、初めて匈奴に手を出した漢であったが、その頃の単于冒頓は西方侵略に忙しく、とくに咎めることなく、むしろ匈奴側の非を認めている。
 この時、単于冒頓は条約を破った右賢王に敦煌付近にいた月氏を駆逐させるとともに、楼蘭、烏孫、呼掲および西域26国を匈奴の支配下に収めている。
 冒頓が亡くなると、息子の老上単于(在位:前174年~前161年)が即位した。
 孝文帝は公主と貢納品を贈るが、随行員の中に中行説<(注31)>もいた。

 (注31)ちゅうこうえつ(生没年不詳)。宦官。「老上の・・・側近となるや中行説は、漢からの贈り物をこれ以上受け取ることは匈奴にとって良くないことだと老上に説き、さらに匈奴の欲しいものは漢から略奪すればよいと漢への侵攻をけしかけた。また、単于の側近に書記を教え、人や家畜の数を把握するようになった。匈奴が漢に送る文書の様式や文言は、匈奴がより上位になるように改められた。・・・
 老上単于が死ぬと、中行説は後継者の軍臣単于に仕えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E8%AA%AC

 中行説は匈奴行きを何度か固辞したが否応なく使節の列に加えられ、匈奴へ着くなり漢に背いて匈奴の単于に仕えた。
 中行説は老上単于の相談役となり、漢への侵攻を促しては漢帝国を苦しめた。

⇒中行説よ、お前もか、といったところだ。(太田)

 匈奴で軍臣単于(在位:前161年~前127年)が即位し、漢で景帝(在位:前156年~前141年)が即位。
 互いに友好条約を結んでは破ることを繰り返し、外交関係は不安定な状況であったが、景帝は軍事行動を起こすことに抑制的であった。

⇒初代高祖(劉邦)から第六代恵帝(在位:前157~前141年)の時代まで、漢は、事実上匈奴の属国に成り下がってしまっていたと言ってよかろう。(太田)

 しかし、<第七代>武帝(在位:前141年~前87年)が即位すると攻勢に転じ、元朔2年(前127年)になって漢は将軍の衛青<(注32)>に・・・河南<(注33)の地を<匈奴から>奪取<させ>ることに成功した。

 (注32)?~前106年。「幼少から匈奴と境を接する北方で羊の放牧の仕事をし、匈奴の生活や文化に詳し<く、>・・・騎射の名手であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E9%9D%92
 (注33)当時においては、「洛陽付近を指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%8D%97

⇒武帝は、遊牧民集団たる匈奴の戦術を身に着けた漢人を登用し、匈奴への反撃を開始した、というわけだ。
 なお。「武帝の時、・・・董仲舒<(とうちゅうじょ)>は儒学を正統の学問として五経博士を設置することを献策した。武帝はこの献策をいれ、・・・紀元前136年・・・、五経博士を設けた。従来の通説では、このことによって儒教が国教となったとしていたが、現在の研究では儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは前漢末から後漢初にかけてとするのが一般的である。ともかく五経博士が設置されたことで、儒家の経書が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占めるようになり、丞相など儒者が独占する状態になる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99
ところ、武帝がどうして儒教を盛り立てたのかについては、董仲舒が唱えた災異説(注34)に注目した、とされることもある
https://www.worldhistoryeye.jp/238.html
が、私は、既述したように、もっとシンプルに、匈奴のような敵に寝返る家臣の出現を防ぐためにはポストやカネで釣るだけでは不十分であると考え、ダメもとで、儒教の説く忠孝の倫理の臣下達への注入を図ろうとしたのであろう、と見ている。(太田)

 (注34)「意志をもった天が自然災害や異常現象を起こして人に忠告を与えるという儒教の思想。
 前漢、陰陽家の陰陽五行思想が儒家にとりこまれ、天と人が陰陽五行によって感応するという天人相関説にもとづく。董仲舒ら春秋公羊家によって主張され、『春秋』などの歴史書に記載された災異事件を当時の君主の失政や悪徳に対して天が譴責したものだと解釈した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%BD%E7%95%B0%E8%AA%AC

 元狩2年(前121年)、漢は驃騎将軍の霍去病<(注35)>に1万騎をつけて匈奴を攻撃させ、匈奴・・・を撃退。つづいて・・・公孫敖とともに匈奴が割拠する祁連山を攻撃した。

 (注35)前140~前117年。「母は・・・衛青の姉・・・騎射に優れており、18歳で衛青に従って匈奴征伐に赴いている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8D%E5%8E%BB%E7%97%85

 これによって匈奴は重要拠点である河西回廊を失い、<2人の王>を漢に寝返らせてしまった。さらに元狩4年(前119年)、伊稚斜単于(在位:前126年~前114年)は衛青と霍去病の遠征に遭って大敗し、漠南の地(内モンゴル)までも漢に奪われてしまう。ここにおいて形勢は完全に逆転し、次の烏維<(うい)>単于(在位:前114年~前105年)の代においては漢から人質が要求されるようになった。

⇒同じ一族の、衛青、霍去病コンビの登用が大成功を収めた、ということ。
 注意すべきは、この2人のような、対遊牧民集団戦術に長けた軍人を育てる教育訓練制度の構築に武帝が乗り出した形跡がないことだ。(太田)

 太初3年(前102年)、漢の李広利<(注36)>は2度目の大宛遠征で大宛を降した。

 (注36)?~前88年。「若い頃の李広利は、・・・無頼<だった。>・・・のち匈奴に投降し・・・匈奴の君主である狐鹿姑単于に重用されたが、・・・讒言によって処刑された。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%BA%83%E5%88%A9

⇒しかし、依然として臣下の匈奴への寝返りは続いたわけだ。(太田)

 これにより、漢の西域への支配力が拡大し、匈奴の西域に対する支配力は低下していくことになる。
 その後も匈奴と漢は戦闘を交え、匈奴は漢の李陵<(すぐ後の囲み記事参照)>と李広利を捕らえるも、国力で勝る漢との差は次第に開いていった。
 壺衍鞮<(ごえんたい)>単于(在位:前85年~前68年)の代になり、東胡の生き残りで匈奴に臣従していた烏桓<(うがん)>族が、歴代単于の墓をあばいて冒頓単于に敗れた時の報復をした。壺衍鞮単于は激怒し、2万騎を発して烏桓を撃った。
 漢の大将軍の霍光<(注37)(かくこう)>はこの情報を得ると、中郎将の范明友<(注38)(はんめいゆう)>を度遼将軍に任命し、3万の騎兵を率いさせて遼東郡から出陣させた。

 (注37)?~前68年。霍去病の異母弟。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8D%E5%85%89
 (注38)霍光の娘婿。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%83%E6%98%8E%E5%8F%8B

 范明友は匈奴の後を追って攻撃をかけたが、范明友の軍が到着したときには、匈奴は引き揚げていた。そこで、范明友は烏桓族が力を失っているのに乗じて攻撃をかけ、6千余りの首級を上げ、3人の王の首をとって帰還した。
 壺衍鞮単于はこれを恐れて漢への出兵を控え、西の烏孫へ攻撃を掛け車師(車延、悪師)の地を取った。しかし、烏孫は漢との同盟国であったため、救援要請を受けた漢軍は五将軍を派遣して匈奴に攻撃を仕掛けた。匈奴の被害は甚大で、烏孫を深く怨むこととなる。その冬、壺衍鞮単于は烏孫を報復攻撃した。しかし、その帰りに大雪にあって多くの人民と畜産が凍死し、これに乗じた傘下部族の北の丁令、東の烏桓、西の烏孫から攻撃され、多くの兵と家畜を失った。これにより匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は大きく弱体化した。
 漢に対抗できなくなった匈奴は何度か漢に和親を求め、握衍朐鞮<(あくえんくてい)>単于(在位:前60年~前58年)の代にもその弟を漢に入朝させた。
 しかし一方で、握衍朐鞮単于の暴虐殺伐のせいで匈奴内で内紛が起き、先代の虚閭権渠単于の子である呼韓邪<(こかんや)>単于(在位:前58年~前31年)が立てられ、握衍朐鞮単于は自殺に追い込まれた。
 これ以降、匈奴国内が分裂し、一時期は5人の単于が並立するまでとなり、匈奴の内乱時代を迎える。やがてこれらは呼韓邪単于によって集束されるが、今度は呼韓邪単于の兄である郅支<(しちし)>単于が現れ、兄弟が東西に分かれて対立することとなる。呼韓邪単于は内部を治めるため漢に入朝し、称臣して漢と好を結んだ。漢はこれに大いに喜び、後に王昭君<(注39)>を単于に嫁がせた。漢と手を組んだ呼韓邪単于を恐れた郅支単于は康居のもとに身を寄せたが、漢の陳湯と甘延寿によって攻め滅ぼされた。

 (注39)前1世紀頃。「楊貴妃・西施・貂蝉と並ぶ古代<支那>四大美人の一人に数えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%98%AD%E5%90%9B
 「越王勾践が、呉王夫差に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施<(せいし。前5世紀頃)>や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光は谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%96%BD
 「貂蝉(ちょうせん)は、小説『三国志演義』に登場する架空の女性。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%82%E8%9D%89

 こうしてふたたび匈奴を統一した呼韓邪単于は漢との関係を崩さず、その子たちもそれを烏珠留若鞮<(うしゅるにゃくたい)>単于(在位:前8年~13年)の時代、漢では新都侯の王莽が政権を掌握し、事実上の支配者となっていた。この頃から漢の匈奴に対する制限が厳しくなり、他国からの人質、投降者、亡命者などの受け容れを禁止する4カ条を突き付けられた。呼韓邪単于以来、漢の保護下に入っていた匈奴はそれを認めるしかなかった。
 始建国元年(9年)、王莽が帝位を簒奪、漢を滅ぼして新を建国した。王莽は五威将の王駿らを匈奴へ派遣し、単于が持っている玉璽を玉章と取り換えさせた。その後、烏珠留若鞮単于はもとの玉璽がほしいと言ったが、すでに砕かれており、戻ってくることはなかった。
 王莽による一連の政策に不満を感じた烏珠留若鞮単于は翌年(10年)、西域都護に殺された車師後王須置離の兄である狐蘭支が民衆2千余人を率い、国を挙げて匈奴に亡命した際、条約を無視してこれを受け入れた。そして狐蘭支は匈奴と共に新朝へ入寇し、車師を撃って西域都護と司馬に怪我を負わせた。時に戊己校尉史の陳良らは西域の反乱を見て戊己校尉の刁護を殺し、匈奴に投降した。
 王莽は匈奴で15人の単于を分立させようと考え、呼韓邪単于の諸子を招き寄せた。やって来たのは右犁汗王の咸と、その子の登と助の3人で、使者はとりあえず咸を拝して孝単于とし、助を拝して順単于とした。この事を聞いた烏珠留若鞮単于はついに激怒し、左骨都侯で右伊秩訾王の呼盧訾、左賢王の楽らに兵を率いさせ、雲中に侵入して大いに吏民を殺させた。ここにおいて、呼韓邪単于以来続いた<漢/新>との和平は決裂した。
 この後、匈奴はしばしば新の辺境に侵入し、殺略を行うようになった。王莽の蛮族視政策は西域にも及んだため、西域諸国は<新>との関係を絶って、匈奴に従属する道を選んだ。
 始建国5年(13年)、烏珠留若鞮単于は即位21年で死去し、王莽によって立てられた孝単于の咸が後を継いで烏累若鞮<(うるにゃくたい)>単于(在位:13年~18年)となった。烏累若鞮単于は初め、新朝と和親を結ぼうとしたが、長安にいるはずの子の登が王莽によって殺されていたことを知り、激怒して侵入略奪を絶えず行うようになった。そこで王莽は王歙に命じて登および諸貴人従者の喪を奉じて塞下に至らせると、匈奴の国号を“恭奴”と改名し、単于を“善于”と改名させた。こうして、烏累若鞮単于は王莽の金幣を貪る一方、寇盗も従来通り行った。
 地皇4年(23年)9月、更始軍が長安を攻め、王莽を殺害、新朝が滅亡した。更始将軍の劉玄は皇帝に即位し(更始帝)、漢を復興する(更始朝)。匈奴では呼都而尸道皋若鞮<(こつにしどうこうにゃくたい)>単于(在位:18年~46年)が即位していたが、新末において匈奴がたびたび辺境を荒らしていたために更始朝が新朝を倒すことができたと言い始め、更始朝に対して傲慢な態度をとった。しかし、そうしているうちに赤眉軍が長安を攻撃して劉玄を殺害、その赤眉軍も光武帝によって倒されて後漢が成立した。
 呼都而尸道皋若鞮単于は後漢に対しても傲慢な態度を取り、遂には自分を冒頓単于になぞらえるようになった。
 匈奴による侵入・略奪は日に日に激しくなったが、蒲奴<(ぶぬ)>(在位:46年~?年)が単于に即位すると、匈奴国内で日照りとイナゴの被害が相次ぎ、国民の3分の2が死亡するという大飢饉に見舞わされた。単于蒲奴は後漢がこの疲弊に乗じて攻めてくることを恐れ、使者を漁陽まで派遣して和親を求めた。
 時に右薁鞬日逐王の比(ひ)は南辺八部の大人(たいじん:部族長)たちに推戴され、呼韓邪<(こかんや)>単于と称して(本当の単于号は醢落尸逐鞮単于)南匈奴を建国し、匈奴から独立するとともに後漢を味方につけた(これに対し、もとの匈奴を北匈奴と呼ぶ)。南匈奴は北匈奴の単于庭(本拠地)を攻撃し、単于蒲奴を敗走させた。
 これにより単于蒲奴の権威は失墜し、その配下の多くが南匈奴へ流れて行った。
 その後、北匈奴はしばしば<支那>の辺境を荒らしては後漢と南匈奴に討たれたので、次第に衰退していった。章和元年(87年)、東胡の生き残りである鮮卑が北匈奴の左地(東部)に入って北匈奴を大破させ、優留<(?)>単于を斬り殺した。
 さらに飢饉・蝗害にもみまわされ、多くの者が南匈奴へ流れていった。
 永元元年(89年)、南匈奴の休蘭尸逐侯鞮<(きゅうらんしちくこうてい)>単于(在位:88年~93年)が北匈奴討伐を願い出たので、後漢は征西大将軍の耿秉と車騎将軍の竇憲とともに北匈奴を討伐させ、北単于を稽落山の戦いで大破した。翌年(90年)、休蘭尸逐侯鞮単于は使匈奴中郎将の耿譚とともに北単于を襲撃し、その翌年(91年)にも右校尉の耿夔の遠征で北単于を敗走させたので、遂に北匈奴は行方知れずとなり、中華圏から姿を消した(その後の北匈奴は康居の地に逃れて悦般となる。)。
 また、18世紀以降から、4世紀に<欧州>を席巻したフン族と同一視する説が存在するが(フン族・・・=匈奴説)、未だ決定的な見解がでていない。
 残された南匈奴は後漢に服属して辺境の守備に当たった。しかし、次第に配下の統制が利かなくなり、南単于の権威が弱くなっていった。
 時に匈奴のいなくなったモンゴル高原では東の鮮卑が台頭しており、その指導者である檀石槐<(注40)>は周辺諸族を次々と侵略していき、<後漢>の北辺を脅かした。

 (注40)たんせきかい(生没年不詳)。「檀石槐の死後、それまで選挙制だった鮮卑が世襲制となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E7%9F%B3%E6%A7%90

⇒内紛が続いて自滅した匈奴から鮮卑へと、漢人文明北方の遊牧民集団の主役が交代し始めた、というわけだ。(太田)

 屠特若尸逐就<(ととくじゃくしちくしゅう)>単于(在位:172年~177年)は後漢の護烏桓校尉や破鮮卑中郎将、使匈奴中郎将らとともに鮮卑に対抗したがまったく相手にならず、けっきょく檀石槐の存命中は何もすることができなかった。
 その後の<支那>は後漢末期の動乱期(いわゆる三国時代)に突入し、黄巾の乱やその他の戦乱に南匈奴も駆り出されることとなった。
 そんな中、南匈奴内部で内紛が起き、単于於夫羅<(おふら)>(在位:188年~195年)は南匈奴本国から放逐され、流浪の末に時の権力者である曹操のもとに身を置いた。
 呼廚泉<(こちゅうせん)>(在位:195年~?年)の代になって南単于は鄴に抑留され、五分割された南匈奴本国は右賢王の去卑がまとめることになった。
 以降、南単于は魏代・晋代において<支那>王朝の庇護のもと、存続することができたのだが、単于の位はすでに名目上のものとなっており、実際の権威は左賢王に移っていた。
 やがて西晋が八王の乱<(注41)>で疲弊すると、於夫羅の孫にあたる劉淵は大単于と号して西晋から独立、国号を漢(のちの前趙)と定めた。その後、漢は西晋を滅ぼし(永嘉の乱<(注42)>)、時代は五胡十六国時代<(注43)>へと突入する。

 (注41)291~306年。「晋(西晋)の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱・・・八王の乱の際、諸王は異民族の傭兵を戦場に投入した。一見磐石に思えた晋の急速な弱体化は、内乱に参加した異民族に独立への野心を与えることとなる。やがて、それは八王の乱中の304年における匈奴の首長劉淵の漢(前趙)の建国へとつながり、<支那>全土を巻き込む内乱(永嘉の乱)へと発展していった(八王の乱の終盤は永嘉の乱が同時に進行しているが、八王の乱に明け暮れる西晋はこれに対処する術をもたなかった)。・・・
 前漢の時代、初期には旧六国の末裔や功臣などを諸侯王に配し、続いて彼らを排除して皇帝の一族(宗室・皇族)を諸侯王とする政策を採る。ところが呉楚七国の乱を契機として宗室抑制政策が採られ、諸侯王は領国において中央が派遣した国相(後漢)・監国謁者(魏)などの厳重な監視下に置かれ・・・た。
 魏の末期、兄・司馬師の後を継いで晋王の地位に就いた司馬昭は、自己の一族を各地に封じて魏までの幽閉同様の待遇を大幅に改善した。さらに彼らを都督に任じて要地に駐屯させ、呉や北方民族に対抗するための軍権の一部を授けた。都督は魏の時代にも置かれていたが、強力な軍権ゆえに・・・司馬氏に対して叛旗を翻す者が相次いだ。反面、司馬氏も司馬懿が都督として蜀の諸葛亮の北伐を防いだことで権力掌握のきっかけを築いた地位でもあった。そのため、晋では都督に一族を任じることでその反乱を防ぎ、かつ呉や北方民族に備えようとしたのである。だが、一族に軍権を与えた事が、八王の乱を招くきっかけとなった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E3%81%AE%E4%B9%B1
 (注42)304~316年。「西晋末に起こった異民族による反乱・・・
 劉淵は五部匈奴を率いて<304年に漢(前趙)を建国し>て河間から中原にかけて強力な勢力となり、関中の首都圏一帯を制圧することで西晋を直接崩壊に導き、協力者石勒は主に関東を攻略し、318年に劉聡が死去して内乱が起こったのを契機として、翌年に後趙を建国した。また、西晋の支配力低下と、西晋側からの(少なくともその一部の刺史から)救援要請を受けた鮮卑族の拓跋部・慕容部も<支那>本土に南下し、それぞれ代・前燕を樹立、一方でこの戦乱を逃れて益州に避難した流民達が現地で成漢を建国、同じく涼州刺史として戦乱を避けるため西域に赴任した張軌は前涼を建国、数年のうちに華北には6つ以上の王国が並び立つ状態となった。そして異民族の侵入を免れた華南では、西晋の皇族である司馬睿によって東晋が建国された。以後300年間、<支那>大陸は異民族から漢人を含む複数の政権に分裂し、離合集散を繰り返すことになる。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%98%89%E3%81%AE%E4%B9%B1
 (注43)「もともと後漢初期から匈奴が<支那>内地に扶植し始めていたが、後漢が有名無実化して三国時代になると、その混乱に乗じて并州(現在の山西省中部)や司州(現在の陝西省北部)に居住するようになった。西晋の時代になると山西省に定住していた匈奴ら異民族は漢人に使役されて農耕生活に従事する者も少なくなかった。またチベットからも氐族や羌族が涼州(現在の甘粛省方面)に居住するようになった。西晋内部ではこのような状況を憂い、重臣の郭欽や江統らが異民族を<支那>内地から徐々に追い出し、内地への出入りを厳しく制限するように提言したが、武帝や恵帝はこれを採用しなかった。」(上掲)
 「五胡とは匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つのことである。匈奴は前趙、夏、北涼を、鮮卑は前燕、後燕、南燕、南涼、西秦を、羯は後趙を、氐は成漢、前秦、後涼を、羌は後秦を、漢族が前涼、冉魏、西涼、北燕をそれぞれ建てた。・・・十六国とは北魏末期の史官の崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%83%A1%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
 「羯(けつ)は、4世紀の<支那>北部の山西に存在した小部族。その派生については匈奴の他、小月氏であるとも言われる。五胡十六国時代に石勒の統治によって後趙を建てた。羯人は後趙が滅んだ350年頃の漢人の冉閔の大虐殺によりほぼ歴史から姿を消した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%AF
 「[月氏はトカラ語を使用していた可能性が高い。]〈トカラ語<は、>・・・<印欧>語族に属<す>独立した語派<である。>〉」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E6%B0%8F ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%A9%E8%AA%9E (〈〉内)
 「氐(てい・・・)は、かつて・・・青海湖(現在の青海省)周辺に存在した民族。チベット系というのが有力で、紀元前2世紀ごろから青海で遊牧生活を営んでいた。近くには同じく遊牧を生業とする羌族がいた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A4_(%E6%B0%91%E6%97%8F)
 「羌(きょう・・・)は、古代より<支那>西北部に住んでいる民族。西羌とも呼ばれる。現在も<支那>の少数民族(チャン族)として存在する。・・・
 羌族の言語と氐族の言語は似ており、・・・漢語・・・とは違うことが『魏略』西戎伝に記されている。もし、この言語が現在のチャン語だとすれば、羌族および氐族はチベット系(チベット・ビルマ語派)に分類される。
 一方、羌族の言語は<印欧>語の系統(特にトカラ語)であるという説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8C

⇒西方に蓄電した者達以外の匈奴は漢人文明を継受し、同化するに至ったということ。
 これは、遊牧民集団たる西戎の一部の漢人文明(当時は帝国になる前の秦)への同化に続く、遊牧民集団の漢人文明(今度は西晋)への同化であり、これらの史実が、漢人文明側に、遊牧民集団に対する警戒心の緩みをもたらすことになった、と、私は見ている。(太田)

 漢の劉淵(在位:304年~310年)はやがて<支那>風君主号である皇帝を名乗るようになり、単于号は異民族に対する単なる称号となった。劉聡(在位:310年~318年)の代になって西晋を滅亡させ、劉曜(在位:318年~329年)の代に国号を趙(前趙)に改めた。
 これまで着々と中原を制覇してきた前趙であったが、その政権は不安定であり、何度も君主の廃立が行われた。そうしているうちに配下の石勒<(注44)>が襄国<(じょうこく)(注45)>で独立して後趙を建国し、329年には前趙を滅ぼしてしまう。しかし、その後趙も後継争いが起きて漢人の冉閔によって国を奪われた(冉魏)。

 (注44)せきろく(274~333年)。同じく「匈奴<系。>・・・奴隷の身分から中原を統べる皇帝まで昇った、<支那>史上唯一の人物。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8B%92
 (注45)現在の河北省邢台市
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%82%A4%E5%8F%B0%E7%9C%8C

 一方、独孤部や鉄弗部<(注46)>といった匈奴系の部族は鮮卑拓跋部の建国した代<(注47)>国のもとにあり、独孤部は代国に臣従していたものの、鉄弗部にいたっては叛服を繰り返していた。

 (注46)「鉄弗とは匈奴の父と鮮卑の母をもつ意である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%AB%E9%80%A3%E5%8B%83%E5%8B%83
 (注47)315~376年。「檀石槐の統一鮮卑が崩壊し、再び分裂した鮮卑族において台頭してきたのが拓跋部の起源である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3_(%E4%BA%94%E8%83%A1%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%BD)

 376年、前秦<(注48)>の苻堅は代国を滅ぼしてその地を東西に分け、東を独孤部の劉庫仁に、西を鉄弗部の劉衛辰に統治させた。

 (注48)「五胡十六国時代に氐族によって建てられた国。国号は単に秦だが、この秦を滅ぼして起こった西秦と後秦があるために前秦と呼んで区別する。一時は華北を平定し中華統一を目指したが、南下して[383年の淝水の戦いで]。東晋に大敗。敗戦後に華北で諸国の自立と離反が相次ぎ滅亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%A7%A6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E6%B0%B4%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ([]内)

 やがて拓跋珪<(注49)>が北魏を建国すると、独孤部はそれに附いたが、鉄弗部は対抗して赫連勃勃<(かくれんぼつぼつ)>の代に夏<(注50)>を建国した。その後、夏は北魏と争ったが、吐谷渾<(とよくこん)(注51)>の寝返りもあって431年に滅んだ。

 (注49)道武帝(171~409年。代王:386年、魏王:386~398年、大魏皇帝:398~409年)。「鮮卑族拓跋部の創始者・拓跋力微の玄孫。代の拓跋什翼犍(高祖昭成帝)の孫(ただし『宋書』では拓跋什翼犍の子となっている)。
 371年、父の拓跋寔(献明帝)は武将の長孫斤の反乱によって殺される。さらに376年には後嗣問題がこじれて祖父の拓跋什翼犍も庶長子(珪から見て伯父)の拓跋寔君によって殺された。このため弱体化した代は前秦の苻堅によって滅ぼされる。・・・幼い珪<は、>・・・肉親と祖国を失った・・・
 やがて成長した珪は苻堅が死ぬと、・・・386年に雲中川(現在の内モンゴル自治区フフホト市)で旧民を糾合し代王を称して自立、盛楽(現在の内モンゴル自治区フフホト市ホリンゴル県)に都を置いた。同年には国号を魏に改めて魏王に即位。その後河北に進出して同地を制圧、柔然などを討伐、また391年には遼河源流のシラムレン河下流で仇敵の[匈奴系鮮卑の]庫莫奚[(しゃまくけい)]を、また内蒙古の科布多(ホブド)でテュルク系の高車を征服、さらに396年には匈奴鉄弗部の劉衛辰(赫連勃勃の父)の軍勢を破ってこれを斬り、華北をほぼ平定した。398年には平城(現在の山西省大同市平城区)を都として皇帝に即位した。
 即位後、部族民による合議制を廃して中央集権化を目指す一方で、それまで野蛮と言われた民族の習慣を打破するために漢民族の文化を積極的に取り入れた。また、多民族統一の手段として仏教を積極的に取り入れ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%AD%A6%E5%B8%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%9A ([]内)
 (注50)407~431年。「一般に「大夏」と呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F_(%E4%BA%94%E8%83%A1%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%BD)
 (注51)「西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。 4世紀から7世紀まで(329年 – 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%90%E8%B0%B7%E6%B8%BE

 古くから北魏(拓跋氏)に仕えていた<匈奴の>独孤部は道武帝・・・の「諸部解散」もあって部族として存在しなくなったが、北魏内で重要な役職に就くようになり、北朝・隋唐時代における名門貴族、劉氏、独孤氏となっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%88%E5%A5%B4

⇒五胡十六国時代には、漢人王朝は、華南に追いやられた東晋(317~420年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%99%8B
くらいになってしまったというわけだ。
 やがて、「華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく<支那>的国家に脱皮」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
していく。遊牧民集団による漢人文明総体継受の最初の事例と言ってよかろう。
 そして、この北魏系の楊堅が、581年に南北を統一し、およそ300年ぶりに漢人文明地域の再統一を果たす
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B
ことになる。(太田)

[参考]

〇匈奴について

 「そもそもの「匈奴」すなわち、攣鞮氏を中心とする屠各種族の民族系統については、『晋書』四夷伝に「夏代の薰鬻、殷代の鬼方、周代の獫狁、漢代の匈奴」とあるように獫狁<(けんいん)>、葷粥<(くんいく)>と呼ばれる部族が匈奴の前身である可能性が高い。・・・
 匈奴語<が>・・・すくなくとも非漢語(非<支那>語)であったことは史書より知られるが、・・・どの言語系統に属すかについては、今日まで長い間論争が繰り広げられており、いまだに定説がない。
 18世紀から20世紀初頭の<欧州>における匈奴史研究の主眼は、匈奴が何系統の民族(言語)であるかを解明することにあった。
 例えば、イノストランツェフの『匈奴研究史』(1942年、蒙古研究叢書)に代表されるように、匈奴がアルタイ語派のうちモンゴル系かテュルク系、またはウラル語派のうちフィン系かサモエード系などと確定することが、当時の匈奴研究の最大の関心事であった。
 こうした西洋の研究を受けて日本でも白鳥庫吉、桑原隲蔵らが<支那>史料に散見される匈奴語を抽出し、それらより匈奴の民族系統を探り当てることを研究の主眼としていた。
 しかし、宮脇淳子が指摘するように、多民族が融合する遊牧国家においては、<支那>文献に音写されたわずかな匈奴語が、今日のテュルク諸語やモンゴル語で解読されたとしても、それらが匈奴と呼ばれた遊牧民全体の言語系統を示す根拠とはされ<え>ない。」(上掲)

〇鮮卑について

 「鮮卑の言語系統について、古くは テュルク系であるとする説があったが、近年になって鮮卑(特に拓跋部)の言語、鮮卑語はモンゴル系であるという説が有力となっている。
 だが鮮卑の部族にはもとは匈奴に参加していた部族もいるなど、非鮮卑系の部族も参加していたため、鮮卑の部族全ての言語を特定することは難しい。・・・
 初め、鮮卑の各部族長は大人(たいじん)と呼ばれていたが、匈奴のように統一的な君主号がなかった。ようやく拓跋部の時代になって可汗号が採用されると、中央ユーラシアの歴代王朝は可汗(カガン・・・)を君主号とする<ようになった>が、<支那>を征服し、移住した鮮卑系の王朝は<支那>風の王や皇帝を称するようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AE%E5%8D%91
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[李陵]

 李陵(?~前74年)は、「前99年・・・、李陵は武帝の命により・・・李広利の軍を助けるために五千の歩兵を率いて出陣した。しかし合流前に・・・且鞮侯<(しゃていこう)>・・・単于が率いる匈奴の本隊三万と遭遇し戦闘に入る。李陵軍は獅子奮迅の働きを見せ、六倍の相手に一歩も引かず八日間にわたって激戦を繰り広げ、匈奴の兵一万を討ち取った<が、>・・・、やむなく降伏した。
 李陵が匈奴に降伏したとの報告を聞いた武帝は激怒し・・・群臣も武帝に迎合して李陵は罰せられて当然だと言い立てた。その中で司馬遷だけが李陵の勇戦と無実を訴えたが、武帝は李広利を誹るものとして司馬遷を投獄し、後に宮刑に処した。
 李陵の才能と人柄を気に入った且鞮侯単于は李陵に部下になるように勧めるが李陵は断っていた。しばらくしてから武帝は後悔し、・・・李陵を迎え<ようとしたが、>この計画は失敗した。逆に・・・「李将軍」が匈奴に漢の軍略を教えていることを聞いた・・・武帝は激怒し、李陵の妻子をはじめ、祖母・生母・兄と兄の家族、そして従弟・・・一家らをまとめて皆殺しにした。・・・しかし実際には「李将軍」とは、李陵より先に匈奴に帰順した漢人の李緒という将軍のことであった。
 漢の使者からこのことを聞いて李陵は一族の非業の死に嘆き悲しみ、その李緒を自ら殺害した。そのため大閼氏(且鞮侯単于の母)は怒って李陵を殺害しようと計画した。且鞮侯単于は李陵を北方に匿った。大閼氏の死後、李陵は内地に戻り、後に且鞮侯単于の娘を娶って、その間に子を儲けた。彼は単于からのたっての頼みで匈奴の右校王となり、数々の武勲を立て<た後、>没した。
 匈奴の王女との間に儲けた李陵の子は、呼韓邪単于の時代に、別の単于を立てて呼韓邪単于に叛き、呼韓邪単于によって処刑されている。
 かつて匈奴へ使節として赴いた人物の中で、李陵とは対照的に漢に忠節を貫く頑な態度を取ったのが、かつて李陵とともに侍中として武帝の側仕えをした蘇武であった。李陵は節を全うしようとする蘇武を陰から助けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E9%99%B5

⇒宮刑の屈辱が司馬遷の『史記』執筆意欲を一層掻き立てたとされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%B7
 なお、中島敦の小説、 『李陵』は、中島の代表作であり、高校教科書で読まれた方も少なくなかろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E6%95%A6 (太田)
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 (5)五胡十六国時代から元まで(304~1368年)

 三国時代から西晋まで(220~304年)は、上の上の囲み記事の中で言及したということで飛ばすこととしますが、五胡十六国時代から元までは、支那史において、遊牧民集団が主役となった時代です。↓

 「匈奴<が>1世紀に南北に分裂し、・・・北匈奴は後漢、烏桓、鮮卑に圧迫されてその姿を消した。ゲルマン民族の大移動を引き起こしたフン族が北匈奴の残党であるという説は有名である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90
 「後漢の光武帝時代には・・・<南>匈奴は漢朝領<西北>周縁に居住する事となった。後漢末期には山西省北部に居住するものもいた。・・・
 <鮮卑は後漢居住匈奴の西部と北部に迫り、後漢の東北部では後漢に直接接するに至った。>
 西にいた羌族は漢の統制下に入っていたが、何度か漢に対しての反乱を起こした。
 氐族は前漢代より甘粛・陝西・四川に居住し、漢の支配下に入っていた。この氐族は漢化が進み、後漢末期にはほとんど定住農耕民として暮らしていた。
 また、三国時代には魏の曹操や曹丕が、周辺異民族の自国領周縁への移住政策を行った事もある。
 内地へ移住した諸民族は、それまでの部族形態を維持したまま<漢人文明勢力>の傭兵として使われた場合が多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%83%A1%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
 「三国時代の抗争の後、ようやく<漢人文明地域>を再統一した晋の司馬炎であったが、・・・その死後に即位した恵帝は暗愚で知られる皇帝であり、・・・諸侯王たる皇族達を巻き込<んだ>八王の乱と呼ばれる内乱を勃発させ・・・乱は306年に終結するが、晋の国力衰退は明らか<となった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%83%A1%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
 「劉淵は、匈奴の単于を輩出する屠各種攣鞮<(れんてい)>部の出身であった<が、>・・・304年10月に・・・晋朝からの自立を宣言した。・・・五胡十六国時代<の始まり。439年の北魏による華北統一まで。>・・・かつて冒頓単于が漢と兄弟の契りを結んでその皇族を娶っていたことから、自らを漢の後継者と称した。そのため、国号を漢と定め<た。>・・・(劉淵死後に改称して前趙となる)。・・・
 劉淵<の死後、>・・・異母弟の劉聡が取って代わった。劉聡は翌311年に晋の首都洛陽を落として・・・晋<(西晋)>を実質上滅ぼした(永嘉の乱。晋は以後は東晋)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E8%B6%99
 「この頃、東アジアで鐙が発明され、騎兵の戦闘力<が>向上した。

⇒この頃から、かなり長期にわたって、遊牧民集団の戦闘能力が、非遊牧民集団に比して、相対的に一番大きい時代が続くことになったと考えられます。(太田)

 <さて、>南北朝時代<(439~589年の隋の漢人文明地域統一まで)の>北朝の各王朝<の>北魏(東魏、西魏)、北斉、北周および隋<、並びに、>・・・唐<は、>・・・漢化した鮮卑系<の王朝である、>と言われている。<(注52)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E7%89%A7%E6%B0%91 前掲

 (注52)「鮮卑<は、>・・・紀元前3世紀から6世紀にかけて<支那>北部に存在した遊牧騎馬民族。五胡十六国時代・南北朝時代には南下して<支那>に北魏などの王朝を建てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AE%E5%8D%91
 「北魏(・・・386年~534年)は、<支那>の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し華北を統一して、五胡十六国時代を終焉させた。・・・
 法隆寺の仏像など、日本に残存する諸仏像は多く北魏様式である。(伊東忠太の説)・・・
 北魏の国家体制は、日本古代の朝廷の模範とされた。このため、北魏の年号・皇帝諡号・制度と日本の年号・皇帝諡号・制度には多く共通したものが見られる。平城京・聖武天皇・嵯峨天皇・天平・神亀など、枚挙に暇がない。(福永光司の説)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%AD%8F
 北魏の第6代皇帝の孝文帝(467~499年。皇帝:471~499年)は、「鮮卑の姓を漢風に改めるように決め、国姓を拓跋から元に改姓して、臣下たちに対しても半ば強制的に漢風の姓を与えた。他にも鮮卑語などの鮮卑の習俗の禁止・鮮卑的な官名の排除、鮮卑の漢化政策を推し進めた。
 さらに漢人の名族の格付けを行い、同様に鮮卑族の貴族の中でも格付けを行った。この中で通婚を行って鮮卑と漢人の融和、鮮卑族の漢人社会における名族としての位置づけを行った。さらに九品官人法の部分的な導入により、南朝を模した北朝貴族制を成立させた。・・・
 孝文帝の死後に六鎮の乱と北魏の分裂を招く」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%96%87%E5%B8%9D
 「北魏において、皇室の拓跋氏を元氏に変えるといった風に、鮮卑風の名前を漢民族風に改めるという漢化政策が行われたことがあったが、北周ではこれに反発して、姓名を再び鮮卑風に改め、漢人に対しても鮮卑化政策を行った。・・・
 <随皇室の>楊氏については、元々は鮮卑の出身で本来の姓が普六茹であり、北魏の漢化政策の際に付けられた姓が楊であるという説<がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B
 「唐の王族・李氏<は>拓跋出身である<と見てよい。>・・・少なくとも唐王朝の高祖、太宗、高宗三代の母はすべて鮮卑系・・・である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90

 「<唐末、>黄巣の乱が勃発し・・・黄巣軍は長安を陥落させ、皇帝僖宗は・・・逃亡した<が、>・・・ここで活躍したのが、突厥沙陀部出身の李克用と、黄巣軍の幹部であったが裏切って唐側に付いた朱温(後に唐より全忠の名を貰う)で、・・・朱全忠は皇帝を傀儡とし、907年には遂に禅譲を受けて後梁(国号は単に「梁」である。・・・)を建て<たが、李克用の>後を継いだ李存勗は・・・唐皇帝(荘宗)を名乗って唐(後唐)を建国し、更に後梁の首都を攻め落とし、後梁を滅ぼした。・・・
 <しかし、>936年・・・契丹の太宗耶律徳光は大軍を南下させて後唐を攻め、これを滅亡させた。・・・契丹<(注53)は、>946・・・年に国号を遼とし・・・<後唐の後に興った>後晋<も>滅ぼした。遼はそのまま<支那>を支配下としようとしたが、・・・遼の本土では<支那>支配に対する反対意見が強く、<これを断念したところ> 」、 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8D%81%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
「1125年<に>・・・金によって滅亡<させられるまで>・・・内モンゴルを中心に<支那>の北辺を支配<することとなる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BC 

 (注53)「契丹の起源は・・・東部鮮卑の後裔」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E4%B8%B9

⇒遼は、遊牧民集団として、唯一、その能力がありながら、あえて(燕雲十六州
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%95%E9%9B%B2%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%B7%9E
を除く)漢人文明地域を支配することの危険性を予知してそれを回避した、と言えそうです。(太田)

 この遼に対し、「女真族の完顔部から出た阿骨打<(アクダ)>が反乱を起こし、1115年に・・・「金」(女真語でアルチュフ)を国号とした。・・・
 1127年に金軍は・・・北宋を滅ぼし、<支那>の北半を征服した。・・・
 <しかし、>南宋との戦争が止み平和が長期化すると女真人の気風が形骸化し、経済的な没落が進んだ。さらに漢人に取り囲まれて居住しているために文化的には漢化し、女真人の組織力は弱体化していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)

⇒北宋が盟約を裏切ったので北宋に懲罰を加えたという経緯はあるものの、結果的に漢人文明地域の北半分を支配下に置いたことで、遼が踏みとどまった「タブー」を犯すこととなった金は弥生性を毀損してしまい、元に征服されてしまいます。
 その元が遊牧民集団が作った帝国であるモンゴル帝国の一部であることはご承知の通りです。
 ところで、「加藤徹は、<北宋の初代皇帝の>趙匡胤の父は突厥沙陀部の国家である後唐の近衛軍の将官であり、世襲軍人だった趙氏一族に突厥沙陀部の血が混ざっていた可能性、が>高いと述べている<し、>[岡田英弘は、趙匡胤は涿郡(河北省固安県、北京市の南)の人であるが、涿郡は唐朝時代はソグド人やテュルク系人や契丹人が多く住む外国人住地であり、例えば安禄山は范陽の人で、母はテュルク系人であり、涿郡を根拠に唐朝に反乱を起こしたが、趙匡胤の父の趙弘殷は後唐の荘宗の親衛隊出身であり、後周の世宗の親衛隊長になったが、趙匡胤は後周の世宗の親衛隊長から恭帝に代わり宋朝皇帝となったように、テュルク系人の後唐の親衛隊或いは出自に問題の後周の親衛隊長からして、趙氏は北族の出身であろうと述べて<おり>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E7%89%A7%E6%B0%91 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E5%8C%A1%E8%83%A4 ([]内)
そうだとすると、宋もまた、遊牧民集団系の王朝である、と言えることになります。(太田)
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[貴族から科挙出身者へ]

 「随<の>・・・文帝は優秀な人材を集め、自らの権力を確立するため、実力によって官僚を登用するために科挙が始められた。・・・
 唐・・・の時代までは制度の本当の威力は発揮されなかった。何故なら、旧来の貴族層が、科挙の合格者たちを嫌い、なお権力を保ち続けたからである。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E6%8C%99
 「北魏では各国境に匈奴・鮮卑系の名族を移り住ませ(鎮民)、その上に鎮将を置き、彼らに当地の軍政を行わせ、防衛を行っていた。他の地域の鎮は北魏の中央集権化が進むと共に廃止されるが、[北方の民族の侵入を防ぐために辺境地帯に置かれた]六鎮のみはそのまま残され、ここの鎮民たちは選民として特別待遇を受けていた。
 しかし北魏の[孝文帝による]漢化政策が進むにつれてこの六鎮の地位も下落し、孝文帝により[六鎮の至近距離にあった平城から]洛陽に遷都されたことで、六鎮はほとんど流刑地同然になった。この待遇に当然六鎮の者たちは不満を抱き、六鎮の乱<(注54)>を起こし、北魏全体を大混乱に陥れる。

 (注54)523年。「反乱自体は530年・・・に・・・鎮圧されたが、その間に北魏に対して梁の軍隊の侵攻があり、また国内では爾朱氏の専横が起こって、北魏が東西に分裂して滅亡する遠因となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%8E%AE%E3%81%AE%E4%B9%B1 

 この乱は爾朱栄<(注55)(じしゅえい)>により収められるが、北魏の混乱はそれだけでは終わらずに軍閥の割拠状態となる。

 (注55)493~530年。北魏の鮮卑系(?)の軍人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%BE%E6%9C%B1%E6%A0%84

 この戦乱を勝ち抜いたのが、六鎮の一つ懐朔鎮出身の高歓と武川鎮出身の宇文泰である。
 高歓と宇文泰はそれれ皇帝を擁立し、北魏は高歓の東魏と宇文泰の西魏に分裂する。
 宇文泰は武川鎮出身の者たちを集めて軍団を作り、西魏の支配集団を武川鎮出身の者で固めた。
 西魏の支配地は現在の陝西省と甘粛省であったので、このことから武川鎮軍閥のことを関隴<(かんろう)>集団<(注56)>(関隴貴族集団)とも呼んでいる。

 (注56)武川鎮(ぶせんちん)軍閥。「<支那>南北朝時代の西魏・北周、および隋・唐の支配層を形成していた集団のこと・・・武川鎮とは北魏前期の首都・平城を北の柔然から防衛する役割を持っていた6つの鎮のうちの一つのことである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B7%9D%E9%8E%AE%E8%BB%8D%E9%96%A5

 関は関中(陝西省)のことで、隴は隴西(甘粛省南東部)のことである。
 宇文泰は東魏に対抗するために府兵制<(注57)>を創始し、その軍を編成して十二大将軍・八柱国をその指揮官とした。大将軍・柱国には武川鎮出身者を就け、これが西魏とそれを受け継いだ北周の支配者集団となる。・・

 (注57)「<支那>において南北朝時代の西魏から唐代まで行われた兵制。もともとは軍府に属する兵という意味で、日本史で言えば衛士や防人の制にあたる。基本的には、農民に自前で武器をもたせて任務につかせるという兵農一致の制度であり、現代で言えば徴兵制に近い。均田制と対をなす兵制であり、均田制の崩壊と共に崩壊した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E5%85%B5%E5%88%B6

 (北周末期より貴族化が進み、軍閥と呼ぶのはふさわしくないので、これ以降は関隴集団と呼びかえる。)・・・
 関隴貴族集団の支配体制が覆される契機となったのは、武則天による科挙出身者の登用である。<(注58)>・・・

 (注58)「武皇后は<夫の>高宗に代わり、垂簾政治を行った。武皇后は自身に対する有力貴族(関隴貴族集団)の積極的支持がないと自覚していたため、自身の権力を支える人材を非貴族層から積極的に登用した。・・・
 出自を問わない才能を発掘する一方で、武皇后は娘の太平公主や・・・自身の寵臣、武三思・武承嗣ら親族の武氏一族を重用し、専横を招いた。また佞臣の許敬宗などを任用し、底なしの密告政治により反対者を排除した。そのために・・・元々法律に通暁した「酷吏」が総じて反対派を監視する恐怖大獄を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9

 その後の安史の乱・牛李の党争などにより貴族の優位性が崩れ、科挙官僚の進出が目立つことになる。その後の黄巣の乱により、唐は大幅に国力を消耗し、関隴集団も姿を消すことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B7%9D%E9%8E%AE%E8%BB%8D%E9%96%A5 前掲
 「唐が滅んだ後の五代十国時代の戦乱の中で、旧来の貴族層は没落し、権力を握ることはなくなった。更に、北宋代に入ると宋の創始者趙匡胤の文治政策に則り、科挙に合格しなければ権力の有る地位に就くことは不可能になった。これ以降、官僚はほぼ全て科挙合格者で占められるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E6%8C%99 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%8E%AE ([]内)

⇒こうして、遊牧民集団系の(文武両道の)貴族が没落し、(文一辺倒の)科挙出身者が皇帝の家臣団の上層部を殆ど独占するようになったことで、漢人文明は、その偏頗な弥生性を解消することが、ほぼ不可能になったわけだ。(太田)
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 (6)明(1368~1644年)–アポリア

 「モンゴルの建てた元朝は、14世紀に入ると帝位の相続争いが起こり、統治能力が低下した。さらに疫災が相次いだため、白蓮教徒が1351年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。洪武帝は建国するとただちに北伐を始め、順帝(トゴン・テムル・ハーン)は大都(北平)を放棄して北に逃れ、万里の長城以南の<支那>は明に統一される。
 <初めて、>江南から誕生した王朝が<支那>を統一した。

⇒遊牧民的要素がゼロの朱元璋がどうして、漢人文明に染まらなかったところの元朝を打倒することができたのか、がアポリアの第一です。
 苦し紛れの仮説ですが、本人自身はエセ信者だったとしても、彼が指揮した軍勢の少なからぬ部分が神がかりの白蓮教徒達だったことと、僥倖にも、劉基(1311~75年)という、「<支那>では魔術師的な軍師として崇拝を受けており、三国時代の諸葛亮と並び称され<る人物>」を軍師として得ることができたところ、彼が「元末の科挙に合格して進士となり、行省元帥府都事を努めたが、上司である括州鎮守の石抹宜孫(回鶻<(かいこつ)>系契丹迪烈<(じゃくれつ)>部出身、石抹也先<(せきまつやせん)>の後裔)と衝突して辞任して故郷に隠棲した」経歴であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%9F%BA
遊牧民のことに通じていた人物であった賜物である、と、私は取敢えずは考えています。(太田)

 洪武帝は統一を達成すると外征を抑え・・・皇帝独裁体制を築いた・・・。
 1398年洪武帝が崩じて建文帝が即位すると、建文帝の叔父に当たる各地の親王は帝室の安定のために排除されるようになった。北平を中心に北方の防備を担っていた洪武帝の四男燕王は追い詰められ、遂に反乱を起こした。1402年、燕王は首都南京を占領して建文帝から帝位を簒奪し自ら皇帝に即位した(靖難の変)。これが永楽帝である。永楽帝の即位により、政治の中心は再び北平改め北京へと移った・・・。
 永楽帝は、・・・洪武帝の慎重策を改めて盛んに勢力を広げた。北に退いた元朝の余党(北元、明ではこれを韃靼と呼んだ)は1388年にトゴン・テムル・ハーンの王統が断絶していたが、永楽帝は遠征により制圧した。満洲では女真族を服属させて衛所制に組み込むことに成功した。南方ではベトナムを陳朝・胡朝の内乱に乗じて征服した。
 さらに海外の東南アジア、インド洋にまで威信を広げるべく鄭和に率いられた大艦隊を派遣し、一部はメッカ、アフリカ東海岸まで達する大遠征の結果、多数の国々に明との朝貢関係を結ばせた。
永楽帝の死後、モンゴルへの遠征、東南アジアへの艦隊派遣は中止され、ベトナムでは征服からわずか20年で黎朝が独立した。しかし永楽帝の子洪熙帝、孫宣徳帝の二代に明は国力が充実し、最盛期と評価される(仁宣の治)。

⇒この永楽帝の、対遊牧民集団に対する攻勢という事績がアポリアの第二です。
 これも苦し紛れの仮説ですが、永楽帝(1360~1424年。皇帝:1402~24年)が燕王時代に、モンゴルとの累次の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%A5%BD%E5%B8%9D
を通じて、遊牧民的な戦略や戦術を身に着けた、というものです。(太田) 

 一方このころ、モンゴル高原では西モンゴルのオイラトが力をつけ、モンゴルを制圧したオイラト族長エセン・ハーンは明へ侵攻してきた。1449年、英宗は側近の宦官王振の薦めでオイラトに親征を行ったが、自ら捕虜となる大敗を喫した(土木の変)。

⇒ところが、永楽帝死後、わずか四半世紀にして、ここまで、明の皇帝は軍事音痴になってしまっていた、というわけです。(太田)

 エセン・ハーンは内紛で殺され危機を免れたが、後に帰還して奪門の変で復位した英宗以来、歴代の皇帝は紫禁城から出ることを好まず、また政治を顧みない皇帝も多く、国勢はしだいに低調となった。また、同時期1448年、小作人鄧茂七が地主への冬牲や小作人負担による小作料運搬の免除を求めて反乱を起こし、鎮圧には成功したものの最終的に叛徒は数十万人に膨れ上がっている。
 16世紀に入ると倭寇が<支那>人の密貿易商人と結びついて活動を始め、沿岸部を脅かすようになった(後期倭寇)。さらにモンゴルではクビライの子孫とされるダヤン・ハーンが即位し、オイラトに対抗してモンゴルの再統一を成し遂げた。オルドス地方に分封されたダヤン・ハーンの孫アルタン・ハーンは16世紀中ごろに頻繁に<支那>に侵入し、1550年には北京を攻囲する(庚戌の変)など明を悩ませた。この時代の倭寇とモンゴルを併称して「北虜南倭」と呼ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E

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[北虜南倭]

 いわゆる北虜南倭中の北虜については、新しい話は何もない。
 四夷、とりわけ、遊牧民集団に対しては、軍事力の行使は極力回避し、通常の交易も行わず、朝貢制なる贈賄制度によって懐柔、篭絡する、という、前漢の武帝が始めた対外戦略・・但し、武帝自身は遊牧民集団に攻勢戦略をとった・・一つとっても、それを、ただただ墨守してきたところの、漢人文明の歴代王朝には、呆れるほかない。↓

 「洪武帝によって北方の草原地帯に追われた元の残存勢力は北元となったが、後に分裂してオイラトとタタールの二部を形成した。初期はタタールが衰退してオイラトが覇権を握り、<支那>北辺の最大の脅威となった。 1449年、オイラトのエセン・タイシ(後のエセン・ハーン)が明と戦い、正統帝を捕虜とする大勝利を挙げた(土木の変)。その後モンゴル人は一世紀にわたり長城の内側に勢力を保った。その間にタタールがオイラトから主導権を奪い、その中のトゥムド部のアルタンが嘉靖年間に大勢力を築き、中原に進出して明を脅かすようになった。
 ・・・1546年・・・、アルタンはハーンを称し、明に和平を結び明への入貢を認め、互市を開くよう要求した。朝貢貿易は<支那>王朝である明側が一方的に損をする貿易であり、各代のモンゴルの指導者はこれを利用して莫大な富を明から奪ってきたのである。嘉靖帝が要求を拒絶すると、・・・1550年・・・6月、アルタン・ハーンは大同を蹂躙し、北京を包囲するに至った(庚戌の変)。この時は脅しだけで撤退したものの、翌年には明と再交渉して市を開かせることに成功した。・・・1553年・・・以降、明の北辺の薊や遼寧といった地域はしばらく平穏な状態になった。
 ・・・1570年・・・、アルタン・ハーンは明軍に投降した孫のバガンナギを救うため、明朝と交渉を行った。翌1571年に合意に至り、明朝はアルタン・ハーンを順義王に封じ、北辺に11の市を開いて貿易することを認めた(俺答封貢)。これ以降、明とタタールは正式な君臣関係と貿易関係を保ち、明の北部・西部辺境は安定期を迎えた。これ以降、「北虜」と呼ばれた北辺の騒優は一世紀の間沈静化した。次に九辺鎮と呼ばれる長城の諸砦に狼煙が上がるのは、女真が勢力を強め清朝が勃興したときのことである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E8%99%9C%E5%8D%97%E5%80%AD 

 南倭については、北虜に対してすら軍事力の行使を極力回避し、騎兵中心の部隊の整備にも注力しなかったところの、漢人文明の歴代諸王朝が、海からの脅威にまともな対処を行うはずがないのであって、倭寇の脅威を絶つには、根拠地の島嶼等及びその後背勢力を威嚇ないし攻撃する必要があるところ、そのための領域外諜報能力や海軍力の整備を試みた形跡はない。↓
 
 「後期倭寇の構成員の多くは私貿易を行う<支那>人であったとされる。後期倭寇の活動は交易と襲撃の両方、いわゆる武装海商である。主な活動地域は広く<支那>沿岸であり、また台湾(当時未開の地であった)や海南島の沿岸にも進出し活動拠点とした。また当時琉球王国の朝貢貿易船やその版図(奄美、先島含む)も襲撃あるいは拠点化しているが、しばしば琉球王府に撃退されている。また当時、日本の石見銀山から産出された純度の高い銀も私貿易の資金源であった。
 『明史』日本伝には「(<支那>人)賊首毛海峰自陳可願還,一敗倭寇於舟山,再敗之瀝表,又遣其黨招諭各島,相率效順,乞加重賞」。また大太刀を振りかざす倭寇の戦闘力は高く、後に戚継光が『影流目録』と倭刀を分析し対策を立てるまで明軍は潰走を繰り返した。
 この時期も引き続いて明王朝は海禁政策により私貿易を制限しており、これに反対する<支那>(一説には朝鮮も)の商人たちは日本人の格好を真似て(偽倭)、浙江省の双嶼や福建省南部の月港を拠点とした。これら後期倭寇は沿岸部の有力郷紳と結託し、さらに後期には、大航海時代の始まりとともにアジア地域に進出してきたポルトガルやイスパニア(スペイン)などのヨーロッパ人や日本の博多商人とも密貿易を行っていた(大曲藤内『大曲記』)。
 後期倭寇の頭目には、<支那>人の王直や徐海、李光頭、許棟などがおり、王直は日本の平戸や五島列島、薩摩の坊津港や山川港などを拠点に種子島への鉄砲伝来にも関係している。鉄砲伝来後、日本では鉄砲が普及し、貿易記録の研究から、当時、世界一の銃の保有量を誇るにいたったとも推計されている。
 1547年には明の将軍である朱紈が派遣されるが鎮圧に失敗し、53年からは嘉靖大倭寇と呼ばれる倭寇の大規模な活動がはじまる。こうした状況から明朝内部の官僚の中からも海禁の緩和による事態の打開を主張する論が強まる。その一人、胡宗憲が王直を懐柔するものの、中央の命により処刑した。指導者を失ったことから倭寇の勢力は弱まり、続いて戚継光が倭寇討伐に成功した。しかし以後明王朝はこの海禁を緩和する宥和策に転じ、東南アジアの諸国やポルトガル等との貿易を認めるようになる。ただし、日本に対しては後期倭寇への拠点提供など不信感から貿易を認めない態度を継続した。倭寇は1588年に豊臣秀吉が倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた。
 一方、朝鮮半島では1587年には、朝鮮辺境の民が背いて倭寇に内通し、これを全羅道の損竹島に導いて襲わせ、辺将の李太源が殺害されるという事件が起こった。1589年、秀吉からの朝鮮通信使派遣要請の命を受け朝鮮を訪れた宗義智は朝鮮朝廷からの朝鮮人倭寇の引き渡し要求を快諾、数カ月の内に朝鮮人倭寇を捕らえ朝鮮に引き渡した。この朝鮮からの要求は朝鮮通信使派遣要請に対する引き伸ばし策でもあったが、あっさりと解決を見たことにより翌1590年、正使・黄允吉、副使・金誠一が通信使として日本に派遣された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%AF%87#%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E5%80%AD%E5%AF%87
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 (7)清(1644~1911年)–しんがり

 清は女真人が建てた支那王朝・・最後の支那王朝・・です。
 女真人はツングース系民族であるところ、ツングース系民族は、「狩猟は家畜の飼養,農業,馴鹿の飼養に適した地方を除くすべての地方において、ツングースの主要な生業である。獲物は主に食用として、毛皮の供給源として利用する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%B3%BB%E6%B0%91%E6%97%8F
というのですから、「女真は満洲に居住していた黒水靺鞨と呼ばれた集団の、彼ら自身の自称を当て字したものとされる。主に農耕・漁労・牧畜・狩猟に従事し・・・ていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E7%9C%9F
というけれど、やはり、その主要な生業は狩猟であったと言えそうです。
 しかし、そうだとして、女真人は遊牧民集団ではなかったということになってしまうのでしょうか?
 まず、下掲に目を通してください。↓

 「・・・<女真には>様々な部族が在り、長く統一される事がなかった。・・・
 12世紀はじめに完顔部の阿骨打が出て女真の統一を進め、1115年に遼から自立して金を建国した。金は、遼、北宋を滅ぼし<支那>の北半分を支配した<が、>・・・モンゴル帝国に滅亡させられ<、>・・・故地に残って集団を保っていた女真は、モンゴル、元に服属することになった。・・・
 <ここまで↑では、女真、とりわけ、金、の軍事事情がよく分からないのだが・・。(太田)>
 元の滅亡後、女真はモンゴルから離れ、小集団ごとに明に服属した。・・・
 明は女真を部族ごとに衛所制によって編成し、部族長に官職と朝貢の権利を与えて間接統治を行った。・・・
 16世紀末に・・・ヌルハチはこれら<の>部族を統一して、1616年に後金を建て・・・1635年にホンタイジがモンゴルのチャハル部を下して元の玉璽を入手すると・・・1635年11月22日・・・に民族名を満洲族に改めさせた。また、・・・翌1636年に国号も「清」に改めた。」(上掲)
 <そして、ここまで↑では、後金/清の軍事事情もよく分からないのだが・・。(太田)>
 「新たに「満洲」という民族名で呼ばれるようになった女直人は、みな8個のグサ(旗)のうちいずれかの旗に所属させられたので、八旗は軍事組織であると同時に社会組織・行政組織であった。 ・・・
 <以上↑から、清初期は、ゲルマン人社会の有事の姿を少しだが思い起こさせる。(太田)>
 皇帝自身は正黄旗・鑲黄<(じょうおう)>旗・正白旗3旗の王で、八旗による社会組織は、皇帝の領する3旗(・・・上三旗)と諸王の領するその他の5旗(・・・下五旗)による部族連合国家という側面もある。下五旗の各旗の旗王は1人ではなく複数人おり、その中では爵位を元に序列が存在し、最も爵位の高い旗王が旗全体を代表していた。・・・
 <しかし、以上↑から、後金/清初期の社会は、平等なゲルマン人社会とは全く異なるところの、序列社会で奴隷もおり、この奴隷や女・子供・老人達は有事後方に残る、というものだったことが分かる。(太田)> 
 <このように、>八旗は当初、・・・後金・・・に属するすべての軍民が所属する軍事組織であったので、女直以外にもモンゴル人や漢人で後金に服属した軍人も八旗に編入されることになった。・・・
 各旗の内部は・・・満洲人・モンゴル人・漢人<たる>・・・旗人<たち>・・・と、奴僕で家政を担う下級旗人のボーイ・・・に分かれる。・・・ボーイは戦争捕虜や拉致、困窮による身売りにより満洲人の元に連れてこられ使えた漢人、高麗・朝鮮人が元になっており、・・・旗人たちは、平時は農耕・狩猟<・交易>に従事しつつ<有事には>要地の警備や兵役・・・を担うのに対し、<平時、有事を問わず、>家政、農業、牧畜を担<った。>・・・
 ヌルハチの後継者ホンタイジの時代には、清に服属して八旗に編入されたモンゴル人や漢人が次第に増えてきたため、彼らを新たに蒙古八旗及び漢軍八旗(ujen cooha)に編成した。これにより従来の満洲人の八旗はこれと区別するため、満洲八旗と呼ばれるようになる。・・・
 旗人<は、そ>の人口が増大するとともに、支給される土地の窮乏や貧困が慢性化した。特に旗人の中核を占める満洲人は満州語や民族文化を失って武芸を衰えさせた。18世紀末に起こった白蓮教徒の乱以降、各地で反乱が多発し国庫が窮乏して軍事訓練を行う余裕が失われたことや、人口増加に伴ってかつて騎射訓練などを行っていたモンゴル高原の南端まで華北の農民が入植して演習場が失われていったことなど<から>・・・、清末までに八旗制は形骸化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%97%97

 以上と、上掲に掲載されている三葉の旗人達の絵から、後金/清の初期の軍隊そのものは、セミプロの騎兵と歩兵からなっていて、火縄銃を用いており、平時には巻狩り等ならぬ騎射訓練等を行っていたというのですから、戦国時代末期の日本の戦国大名の軍隊と比較的よく似ていた、と言えるでしょう。
 しかし、日本の戦国大名と違って、(日本には奴隷はいなかったけれど、奴隷を除く)全適齢期住民が、後金/清の場合、遊牧民諸集団と同様、兵士となったわけです。
 そういう意味では、女真人は、遊牧民集団「的」であったとは言えそうです。
 明が、この清に征服されたのは、単純化して言えば、軍隊の編成装備は似通っていたけれど、訓練練度において、清が明をはるかに上回っていたからだ、そしてそれは、清の兵士達の相当部分が蒙古人なる遊牧民集団出身者達であったこと、そして、この蒙古人達、それに漢人と満州人(女真人)からなる兵士達の平時における生業の主たるものが狩猟であり、この生業に従事することが即兵士や部隊としての訓練であったことの賜物だった、ということではないでしょうか。

 ところが、このような意味で弥生性が明に比して十全であった清の弥生性は、明を征服した瞬間から劣化を始めてしまいます。
 平時の生業が広義の行政になってしまい、訓練のためには、特定の期間、特定の訓練・演習地に赴く必要が生じたところ、そのための時間を割くことが困難になり、上の引用文中に出てきたように訓練・演習地が確保できなくなるとともに、訓練のためのカネの確保もままならなくなったからです。
 (なお、編成装備についても、抜本的変化が加えられることはありませんでした。
 一番端的な例を挙げれば、海軍力の整備は殆どなされませんでした。)
 そうなってしまった以降の清、更には、清にとって代わった中華民国、がどんな運命を辿ったかは、皆さん、よくご存じでしょう。
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太田述正コラム#10983(2019.12.14)
<2019.12.14東京オフ会次第(その1)>

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