太田述正コラム#10834(2019.10.1)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その32)>(2019.12.22公開)

 「・・・一方では、幕府は外国人を落着かせ、他方、国民に対し、幕府が強固であり、やがて外国人を放逐するとの印象を与えることを同時に試みていた。
 結果的に見て、西欧文化に衷心から反対した幕府の敵対者にとどまらず、国民一般に排外感情を鼓舞したのは、実にこの幕府の不正直さであった。

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[幕末の国民大衆と排外感情]

 ええじゃないか、が仮に(下出のように)討幕派の陽動作戦だったとしても、騒動に参加した民衆が歌った歌詞に、攘夷的なものは皆無(引用しなかったが、下掲典拠参照)であることだけをとっても、サンソムが記したように、「国民一般<が>排外感情を鼓舞<されてい>た」とは、私には思えない。↓

 「慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで・・・ええじゃないか・・・騒動<が>・・・発生した<が、>「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。・・・
 <これは、>世直しを訴える民衆運動であったと一般的には解釈されている<が、>これに対し、倒幕派が国内を混乱させるために引き起こした陽動作戦だったという噂を紹介するものもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%88%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B

 では、サンソムは、「民衆」ではなく、「草莽」、という言葉を使えばよかったのかと言えば、松陰自身が国禁を犯し、プチャーチンやペリーの艦艇に乗せてもらってまでして欧米留学を果たそうとした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0
ことが示すように、松陰自身は、開国論者とまでは言わないとしても、少なくとも字義通りの意味での攘夷論者ではなかったことは明らかであり、草莽崛起論は、そんな吉田が、倒幕のために草莽のカネとマンパワーを利用しようとして、草莽を煽って唱えたものである、と私は見ている。↓

 「草莽(そうもう)は、民間にあって地位を求めず、国家的危機の際に国家への忠誠心に基づく行動に出る人(草莽之臣)を指す<が、>・・・18世紀後半以後、在野もしくはそれに準じた豪農・知識人層(江戸幕府に対して直接意見を進言できるルートのない人々)の中に、自らを「草莽」になぞらえ政治的主張をする者が出現した。それが19世紀に入ると尊王論や攘夷論と結びつき活発化する。
 黒船来航など西洋からの圧力が大きくなった1850年代に入ると、吉田松陰らによって「草莽崛起」論が唱えられた。吉田らは武士以外の人々、すなわち豪農・豪商・郷士などの階層、そして武士としての社会的身分を捨てた脱藩浪士を「草莽」と称し、彼らが身分を越えて、国家を論じて変革に寄与して行くべきであると主張した。これを受けて、1860年代にはこうした草莽が尊王攘夷運動や討幕運動に参加していくことになる(奇兵隊・天誅組・生野組・真忠組・花山院隊・赤報隊など)。結果的に、明治政府へ組み込まれた者はごく一部であり、大半は政治的敗者として姿を消すことになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E8%8E%BD

 付け加えれば、そんな吉田の薫陶を受けて形成された長州藩の、尊王攘夷なるタテマエを掲げたところのホンネは倒幕、の藩論、を、更にその上前をはねる形で利用して、倒幕を実現したのが薩摩藩だった(コラム#省略)、というわけだ。
 いずれにせよ、民衆にはもとより、草莽にも、主体的な攘夷感情があったなどとは言えそうもない、と私は思う。
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⇒サンソムは、幕府は、「国民に対し、幕府が強固であり、やがて外国人を放逐するとの印象を与えることを・・・試みていた」としていますが、すぐ上の囲み記事からも分かるように、それは「国民に対し」てではなく、私見では、御三家の一つで、しかも、藩主が江戸に常駐して、幕政に影響を与え続けていたところの、「水戸藩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6
に対し」てだった、というのが私の所見です。
 というのも、「水戸藩を中心に朱子学の影響を強く受けた水戸学が隆盛し、1820年代から1830年代にかけては水戸学における攘夷論が確立した<ところ、>これは、儒学における華夷思想を素地としており、欧米諸国は卑しむべき夷狄であるから、日本列島にその力が及んだ場合、直ちに打ち払うべきだとする考えであ<り>、こうした考えの根底にあったのは、西洋諸国との交わりはキリスト教その他の有害思想の浸透につながるという、一種の文化侵略に対する危機感であった。江戸幕府が文政8年(1825年)に発した異国船打払令も、こうした危機感の現れであった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%98%E5%A4%B7%E8%AB%96
という次第であり、この水戸藩、具体的には、その事実上の藩主であり続けていた徳川斉昭、を宥めすかしつつ政策転換するにあたって、幕府が細心の注意を払う必要があったのは当然でしょう。(太田)

 国民大衆の側では、幕府の原動力となっているのはこの排外感情であると信じ込まされていたのである。

⇒そうではなく、草莽は、長州藩の志士達等、討幕派の武士達によって、幕府の原動力となっているのは幕府の存続であり、そのために幕府は偽りの攘夷感情を弄している、と信じ込まされていた、のです。(太田)

 こうした二重操作の慣習は、その後の国内政治史を複雑化させる結果となり、その理解を極度に困難としている。

⇒勝手に「複雑化させ」ていたのは、(現在でも同じだが、)当時の日本の近現代史家達や政治学者達なのであって、サンソムは、単に、彼らの幕末・維新観を鵜呑みにしていただけである、ということです。(太田)

 とはいえ、文化交流の病理解剖学的研究上からだけでも、幾分これは注目に値する。・・・」(21)

⇒「病理解剖学的研究」の対象とすべきは、むしろ、サンソムを含む、これらの人々でしょう。(太田)

(続く)