太田述正コラム#10844(2019.10.6)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その37)>(2019.12.27公開)

 「・・・ところが・・・維新後の日本人は進歩の観念を歓迎したばかりか、・・・精神的な啓蒙の意味にではなく、物質的な蓄積へのうながしとして解釈した。・・・もっと富を、もっと強さを、もっと製造所を、もっと人と船と鉄砲を、というわけである。・・・
 ここでごく一般的な観点から、なぜ日本文化は新しいさまざまの思想に対して、シナやインドの文化ほどの抵抗を示さなかったかを考察しておくのは、所をえないことになるまい。・・・
 手がかりのひとつはおそらく、日本文化が、特にその政治上の特色のうちに、数多くの時代錯誤でしかも非合理でさえある要素を含んでいたという事実にみいだされよう。
 日本文化が初期神道–原始的な神政信仰で、仏教によって変質され封建思想がその上にかさなった初期神道–の考え方にもとづいているかぎり、それはさまざまの矛盾をはらんで錯綜し、儒教やヒンズー教のような大きな体系の力強さも統一性ももちあわせなかった。
 実際、日本人はこれまで政治生活の満足のゆく安定した体系をつくりあげたためしがなく、しょっちゅう実験ばかりしていたといえるかもしれない。
 この見解はかれらの争乱と変化に富んだ国内史をみれば、さらに確かめられる。・・・

⇒ここでも、サンソムは、当時(そして現在)の日本の通説における、私の唱えてきたところの、日本における、主たる縄文性と従たる弥生性の併存、と、縄文、弥生モードの交替史、的な発想の欠如に毒されている、と言わざるをえません。(太田)

 <さて、明治期、>政治権力は薩長等の藩閥出身者によって握られており、かれらはたしかに傑出した指導者たちだったのだが、その権力をすみやかに成功裡に執行するには、幕府の下で実務を身につけ、鍛えあげられた行政官の支援をまたなければならなかった。
 こうして、逆説的なことだが、幕府制度を破壊した有能な働き手のかなりの数は、幕府そのものによって供給されたのである。・・・

⇒必ずしも間違いではありませんが、こういうことを言うのであれば、サンソムは、幕臣達が行政官化した、つまりは、非武士化した、ことによって、幕府は、行政官化しなかったところの、外様を中心とする諸雄藩の武士達によって倒された、というところから話を始めるべきでした。(太田)

 1868年・・・6月(<明治元年>閏4月)、新政府の目標が「天皇布告」[政体書]として公示さ・・・れた。
 この『政体書』<(注42)>は重要な資料であって、詳細な研究を要する。

 (注42)「慶応3年旧12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が出されると、・・・幕府・征夷大将軍・摂政・関白に代わるものとして、総裁(有栖川宮熾仁親王)、議定(皇族2名・公卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)、参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)の三職が任命された。・・・翌2月には、・・・総裁局に・・・副総裁を置き、議定の岩倉具視と三条実美をこれに任命して、熾仁親王を補佐することとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%AE%98
 「<旧佐賀藩士の>副島種臣と<旧土佐藩士の>福岡孝弟が<米>国憲法および<福澤諭吉の>『西洋事情』等を参考に・・・政体書<を>・・・起草し、慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に発布された。同年4月27日頒布。・・・
 奥羽・北越地方では交戦が続いていたが、関東地方以西をほぼ掌握した新政府が、それまでの臨時政府的な三職体制に代えて新たな官制を定めたものである。
 冒頭に五箇条の御誓文を掲げてこれを政府の基本方針と位置づけ、国家権力を総括する中央政府として太政官を置き、2名の輔相[・・三職のうち総裁が廃止されて(当時熾仁親王は江戸に滞在中)、副総裁2人が輔相と称して事実上の政府首班に就いた・・]をその首班とした。太政官の権力を立法・行政・司法の三権に分け、それぞれを立法の議政官、行政の行政・神祇・会計・軍務・外国の5官、司法の刑法官の合計7官が掌る三権分立の体制がとられたが、実際には議政官に議定・参与で構成する上局[・・輔相は議定の資格で議政官(上局)の構成メンバーでもあった・・]の実力者が行政各官の責任者を兼ねたり、刑法官が行政官の監督下にあったりして権力分立は不十分なものであった。地方は府藩県の三治(府藩県三治制)。
 戊辰戦争終結後の政治状況の変化に伴う若干の変更の後、明治2年7月8日(1869年8月15日)に新たに発布された職員令によって、太政官は二官六省体制に改められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E4%BD%93%E6%9B%B8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%AE%98 前掲([]内)

⇒「注42」で引用した2ウィキペディアは、どちらも、政体書の政体を不十分な三権分立、としていますが、副島と福岡は英国の政体である議会主権制を主として参考にしたと思われるのであって、そのような評価は筋悪である、と、私は思います。(太田)

 なぜならこれは–別にこう呼ばれていたわけではないが–近代日本の最初の憲法だからである。
 それは冒頭に『五箇条御誓文』・・・1868年4月6日(明治元年3月14日)天皇によって採択された・・・を全文引用している。」(46~48)

(続く)