太田述正コラム#10866(2019.10.17)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その48)>(2020.1.7公開)

 「おおよそ1868年(明治元)から1888年(明治21)までつづく「文明開化」期の日本で、人々に説いて成功をおさめうる唯一の教えといえば、それは功利論哲学だったのである。
 それは国民全体と各個人の物質的発展をめざしていた国にとって、まさにふさわしい教えであった。・・・

 (注58)「ベンサムの倫理思想を日本に最初に導入したのは・・・西周(1826-94<年>)である。彼は1862-66の間オランダに留学し政治学・法律学を学んだが,・・・ベンサムとミルの実利に基づいた倫理説に大いに興味をもち,帰国後,その思想を根幹として自己の倫理説を立て,明治8年6月に,明六雑誌第38号に「人世三宝説」という論文を発表した。それは「幸福論」である。三宝とは,健康(マメ)・智識(チエ)・富有(トミ)であって, これなくしては人間は幸福に生きることができないことを力説したものである。徳川時代 に武士階級が金銭を重んじなかったのに対し,富有が幸福の一源泉であることを強調したのは当時としては世人を驚かした新思想であった。
 明治10年に西はミル著Utilitarianismを漢訳して「利学」という書名で出版している。・・・
 明治13年,渋谷啓蔵という人が同書を<改めて>和訳し「利用論」という書名で出版している。中村正直が序文を書き「原名ユチリタリアニズム蓋公利幸福ヲ以テ道徳ノ目的トナス所ノ教ヲ謂フ云々」と述べている。
 明治16年11月ベンサムのAn introduction to the principles of morals and legislationが陸奥宗光によって日本語に訳され「利学正宗」として出版された。この書名は「道徳及び立法の原理序論」が正訳であるが,ミルのユーティリタリアニズムが「利学」とされたので,彼の師であるベンサムの著作で,しかも「利学」のもとをなす本であるという意味から「利学正宗」という全く原書名と異った書名としたものと思われる。
 当時は,徳川時代にとかく蔑視された「利」を寧ろ重んずべきで,これによって西洋文明に追いつこうとする意図が強かつれものと思われる。
 丁度この頃,新進学徒である井上哲次郎が日本で最初の倫理学書を世に出した。これは「倫理新説」という書名で明治16年3月出版で63頁の小冊子である。・・・
 <その中で、井上は、>ユーティリタリアニズムとは共同主楽であって,最大快楽又は最大幸福を善とするもので,功利教或は愛他教であり,功利とは幸福の獲得の意味であることが明らかである。
 これを要するに当時の人々の「利」は人生を利するもの,幸福を増進するものを意味し, 功利と幸福とは同意義に用いられていた。井上は漢学の素養の高い学者であったので,功利という訳語を用いたが彼の博学がかえって後世に禍根を残した。・・・
 <すなわち、>,英米人は功利主義者であると<の観念を日本人に植え付け>,戦時中は特に英米人を鬼畜英米と軽蔑し,道義を知らぬ者という風潮<が>日本<で蔓延っ>た」
http://www.teikyo-jc.ac.jp/app/wp-content/uploads/2018/08/journal1979_111-119.pdf

⇒「功利主義は「万人の利益」となることを善とする立場を指し、「私利」のみを図ることをよしとする利己主義とはむしろ矛盾すらし得る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9F%E5%88%A9%E4%B8%BB%E7%BE%A9
ので、戦時中の功利主義観は(意図的?)曲解に近かったわけです。(太田)

 <また、>キリスト教の教えは西洋諸国の諸事業運営の成功と密接に結びついている、さらにはその原因とさえ考えられるものかもしれぬ、との印象が、一般にひろまっていた・・・。・・・

⇒にもかかわらず、明治期においては、安土桃山時代とは違って、キリスト教信者は余り増えなかったよう(注59)ですから、面白いですね。(太田)

 (注59)キリスト教信者については、明治期については、1898(明治31)年を下らない時期に、127,227名ないし127,275名であった、ということしか分からない。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000140864
 幕末の隠れキリスタン数とこの数字との差が明治初期におけるキリスト教信者数の増加ということになるが、隠れキリスタン数も分からない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%82%8C%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3
 いずれにせよ、当時の日本の総人口は現在より遥かに少なかったとはいえ、この数は大したものではない。

 19世紀中葉、国内の美術工芸や文学は、伝統的哲学の諸流派とともどもに、ほとんどその生命力を失ってしまっていた・・・。・・・
 <とはいえ、>美術の火花は完全に消え失せてしまっていたわけではない。
 しかし文学は維新当時その最低位に達し、そこにそのまま20年間もとどまった<(注60)>。・・・」(137~138、145)

 (注60)「明治維新から1885年に坪内逍遥が日本で初めての近代小説論『小説神髄』を発表するまでの期間の文学は、戯作文学、翻訳文学、政治小説の3つに分類される。
戯作文学は、江戸時代後期の戯作の流れを受け継ぎつつ、文明開化後の新風俗を取り込み、人気を博した。仮名垣魯文は、文明開化や啓蒙思想家らに対して、これらを滑稽に描いた『西洋道中膝栗毛』(1870年)、『安愚楽鍋』(1871年)を発表した。
 翻訳文学は、明治10年代(1877年~1886年)になってさかんに西欧の文学作品が移入され広まった。代表作は川島忠之助が翻訳したヴェルヌの『八十日間世界一周』(1878年)、坪内逍遥がシェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』を翻訳した『自由太刀余波鋭鋒』(1884年)である。
 国会開設や、自由党、改進党の結成など、自由民権運動の高まりとともに明治10年代(1877年 – 1886年)から政治小説が書かれるようになる。政治的な思想の主張・扇動・宣伝することを目的としているが、矢野竜渓の『経国美談』(1884年)、東海散士の『佳人之奇遇』(1885年)といったベストセラーになった作品は、壮大な展開を持った構成に、多くの読者が惹きつけられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%A6%E5%8F%B2
 「経国美談<は、>・・・翻訳と創作の中間的な作品で、雅俗折衷体の文体による。本の「凡例」には参照したギリシャ史の書名を挙げ、史実に価値を置く姿勢を表明しているが、登場人物に「智」「仁」「勇」の観念を当てるなど、読本(具体的には曲亭馬琴『南総里見八犬伝』)の系譜にも連なっている。・・・作者自身が属する立憲改進党の理想も盛り込まれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E5%9B%BD%E7%BE%8E%E8%AB%87
 「佳人之奇遇<は、>・・・会津の遺臣である東海散士がアメリカにわたり、フィラデルフィアの独立閣でアイルランドの美女紅蓮、スペインの貴女幽蘭にめぐりあうのが発端で後に中国の明朝の遺臣も加わる。いずれも亡国の憂いを抱き、権利の回復運動に進もうとするかれらの交情が描かれる。なお、この話の中でハンガリーのコシュートが亡国の代表として各編に登場する。
 東アジア経営にかんする意見、世界の地誌、世界史への注釈などが加わり、前半では小国が大国に依存した状態では民族的解放ができないこと、小国の国民は国を守る気力を持たなければならないこと、小国同士が手を取り合って協力すべきことが説かれている。
 後半になると、作者自身が谷干城に随行して<欧州>を視察したときの体験が混ざり、また金玉均との交友から朝鮮半島をめぐる議論や日清戦争後の三国干渉をめぐる議論が作品の主軸を占めるようになり、佳人の面影は作品からは遠ざかっていく。
 梁啓超は、日本亡命中に横浜で創刊した『清議報』の1898年の創刊号から<漢>語(文語)訳を『佳人奇遇』の題で連載した。
 ファン・チュー・チンは、ベトナム語の韻文に翻訳した『Giai Nhân Kỳ Ngộ Diễn Ca』(佳人奇遇演歌)をクオック・グーで記し、1926年に公刊した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%B3%E4%BA%BA%E4%B9%8B%E5%A5%87%E9%81%87

⇒何が「文学」かの定義にもよるとは思いますが、私は、「注60」をも踏まえ、サンソムの主張には、全くもって不同意です。
 私は、むしろ、「美術」に関してこそ、サンソムの「文学」についての主張が当てはまるように思う・・明治初期には、日本画、洋画、彫刻、建築、のいずれについても、これといった作品に乏しいゆえ・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%8F%B2
のですが、深入りしません。(太田)

(続く)