太田述正コラム#10868(2019.10.18)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その49)>(2020.1.8公開)

 「・・・<翻訳作品としては、>ロビンソン・クルーソー<のように、>・・・政治道徳を盛りこんだ作品に対する要求・・・<ロビンソン・クルーソーの場合、>自分の島を豊かで強い王国にしようと望む日本の政治改革者たちを養成する上で、手引書として学ぶべきものだと<された>・・・と結びついて、もう一つ、冒険譚・探検譚に対する要求があったが、これはジュール・ヴェルヌの科学小説によって十分に満たされた。
 当時は進歩に対する信仰がその楽観主義の極に達していた時代であり、『八十日間世界一周』とか『月世界旅行』とかは、長い鎖国の後にいまようやく開けた新しい地平線を凝視する日本人に、まさにお誂えのものだった。
 これらの作品は、冒険精神と適切な科学知識とがありさえすれば、なにごとも不可能ではない、との信念を強めさせるものだったからである。・・・
 栗本鋤雲<(注61)(コラム#10238)>・・・のいうところによれば、日本の読者たちは、登場人物を七難八苦にあわせ、神霊や悪霊の力によらなければ助からぬような危難に陥らせる、昔風のシナや日本の小説に飽きてしまっていた。

 (注61)くりもとじょうん(1822~97年)。幕府の典医の家に生まれ、昌平坂学問所に学び、家督を継ぎ奥詰医師になり、「医籍から士籍へ格上げされて箱館奉行組頭に任じられ、樺太や南千島の探検を命じられ・・・<、やがて>昌平坂学問所の頭取、ついで目付に登用され・・・<、>さらに製鉄所御用掛を経て、外国奉行に昇進し勘定奉行、箱館奉行を兼任した。1866年(慶応2年)・・・には従五位下・安芸守に叙任されて諸大夫とな<る。>・・・徳川昭武の一行が1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会<を>訪問し・・・たときには、その補佐を命じられ・・・鋤雲もフランスに渡った。・・・1868年6月・・・(慶応4年・・・)にフランスより帰国する。・・・新政府から・・・出仕の誘いがあったが、幕臣として幕府に忠義を誓い、重用された恩があった鋤雲は新政府に仕えることを潔しとせず、それを謝絶して隠退した。仮名垣魯文の推薦で、1872年(明治5年)、「横浜毎日新聞」に入り、翌年1873年(明治6年)に、「郵便報知新聞」の主筆を務め、福沢諭吉を訪ねてその門下生を記者に加えるなど貢献した。以降はジャーナリストとして活躍した。・・・晩年、旧幕臣の会合で同席した<ところの、新政府の栄爵を受けた>勝海舟に対して、「下がれ」と怒鳴りつけ、その場は凍りついたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%97%E6%9C%AC%E9%8B%A4%E9%9B%B2

 そのような神がかりの解決法は、この「自助(セルフ・ヘルプ)」の時代の人間の問題を解決するのにふさわしくない。
 それで、新時代的傾向をもつ日本人は、ジュール・ヴェルヌがよい見本を示しているような、主人公が金の力で難題苦境をつぎつぎに克服してゆく、現代の西欧の型のものを好むようになるのだ、というのである。
 ここで栗本がいっていることは文芸批評ではない。
 だが当時の日本に起っていた社会変化を深くみぬいた言葉である。

⇒私は、必ずしもそうとは思いません。
 勝海舟よりは、鋤雲の一徹さを私は評価しますが、その生きざまからして、幕府の時代への懐旧の念から、新時代にいわれなきケチをつけた、という程度の話ではないでしょうか。(太田)

 一代前の日本精神は、軍人であろうと学者であろうと、金銭をさげすんだ。

⇒いやなに、「「江戸っ子」はいわゆる町の表通りに住む「町人」とは異なり、裏店の長屋に住む火消し、武家奉公人、日雇いの左官・大工などが江戸っ子の頭分にあたると<され>ている<ところ、>・・・<その>性格として<、>・・・「江戸っ子の生まれ損ない金を貯め」<や>・・・「江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ」という金離れの良さを<表わ>した言葉がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%A3%E5%AD%90
ように、「金銭をさげすんだ」庶民も「一代前」には多かったようですよ。
 これについて、例えば下掲は、幕府の朱子学奨励の結果だとしています
https://nagoya301.at.webry.info/201801/article_3.html
が、私は、人間主義に根差す、多くの日本人達の感覚だと思っています。
 だからこそ、今に至っても、日本の金持ちは顕示的消費を極度に控えますし、(上掲にも登場しますが、)「清貧」なんて言葉がいい意味で使われ続けている、と。
 まあ、ここでは、このくらいにしておきましょう。(太田)

 ところが彼らの息子たちが生れでたのは、金が物をいう世界だったのである。
 このようなわけで、ジュール・ヴェルヌの人気のうちに示されているのは、日本人の文芸上の趣味に対する影響力ではなく、むしろ、新しい商業時代の精神がどれほど伝統的な道徳規準を侵食するにいたっていたかの、明白な証拠なのである。
 [ジュール・ヴェルヌの話のなかで]「改革(リフォーム)クラブ」のフィリアス・フォッグ氏が世界早廻りをやり、1872年(明治5)、横浜で手間どったのは是非もないことだったとはいえ、結局賭金を手に入れることができたのも、彼のポケットが豊かだったからなのである。」(149~150)

⇒本を読んだり、映画を見たりして、この物語のテーマが「象に乗り、隣の駅へと向かう途上で、彼らはサティー(インド古来の、未亡人の女性が夫の後を追い殉死する儀式)の儀式へと向かう行列に遭遇し、その中に翌日儀式の生贄にされる若いインド人の女性、アウダを見かけ・・・<彼女>を運び去<り、>・・・彼女を<イギリス>まで一緒に連れて行くことにした。・・・<しかし、80日でなければならないのに81日間かかってしまい、彼は>・・・賭けに負け、全財産を失<ったと思った。>・・・<ところが、>アウダは、どのような苦境も2人なら分かちあえると言<い、>私を妻にしてほしい、と<答えた。>・・・<こうして、>彼<は>もっとも幸福な人間に<なっ>た・・・<。その後、彼は、>東回りで世界一周したため、日付変更線を横切り、丸1日稼いでいた<ことを知り、>・・・賭けに勝利したことを宣言した。・・・<しかし、そんなことはもはやどうでもよかった。>・・・そもそも人は<、>得られるものがもっと少なかったとしても、世界一周の旅に出かける<も>の<なの>だ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%8D%81%E6%97%A5%E9%96%93%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%B8%80%E5%91%A8
ということを御存じの方も多いと思いますが、サンソムは、この物語のテーマの何たるか・・それが、冒険の魅力と非金銭的な幸せであること・・を当然承知していたはずなのに、随分、当時の日本人の読者達の見識をバカにしてくれたものです。(太田) 

(続く)