太田述正コラム#10875(2019.10.21)
<サンソム『西欧世界と日本』を読む(その52)>(2020.1.11公開)

 「・・・賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤のような国学者が、純粋神道の主張者として、徳川時代のきわめて長い時期にわたって仏教を攻撃し続けたのに、仏教指導者の間に自分たちの信仰を護るための努力の徴しがほとんどみられなかったというのは、奇妙な事実である。・・・
 法律によって義務づけられていたから、そのとおりに僧侶たちは檀家の人々をみな登録し、宗教儀式も少し行なったが、その中でもっとも重要な儀式は葬式であった<(注64)>。・・・

 (注64)「江戸幕府<における、>・・・寺院の住職<に>・・・自らの檀家である<・・すなわち、キリシタンや不施不受派ではない・・>という証明として寺請証文を発行<させるところの、>・・・寺請制度<(檀家制度)>は、事実上国民全員が仏教徒となることを義務付けるものであり、仏教を国教化するのに等しい政策であった。・・・
 檀家<は>・・・、寺院伽羅新築・改築費用、講金・祠堂金・本山上納金など、様々な名目で経済的負担を背負った。・・・これらは、寺院の安定的な経営を可能にしたが、逆に信仰・修行よりも寺門経営に勤しむようになり、僧侶の乱行や僧階を金銭で売買するということにも繋がっていった。新規寺院建立<は>禁止<されていたが>、廃寺の復興といった名目で行なわれ、末寺を増やしていった。また、「家」「祖先崇拝」の側面が先鋭化し、本来の仏教の教えは形骸化して、今日に言われる葬式仏教に陥った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E5%AE%B6%E5%88%B6%E5%BA%A6
 「それまでの民衆の葬式は、一般に村社会が執り行うものであったが、檀家制度以降、僧侶による葬式が一般化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%AC%E5%BC%8F%E4%BB%8F%E6%95%99

⇒これについては、プロト日本型政治経済体制における、柔らかい組織(エージェンシー関係の重層構造)による行政、の一典型例・・寺による宗教・戸籍行政の下請け・・、という捉え方もできるわけです。(太田)

 このように日本の仏教は、明治維新以前にすでに弱体化していたので、仏教はその威信をついに挽回しなかったのである。・・・

⇒改めて、サンソムが、幕末以降現在に至るまで、日蓮宗の「威信」が「挽回しなかった」どころか、猛威を振るったことを完全無視していることを、批判せざるをえません。(太田)

 しかしながら、・・・本願寺大谷派の僧侶で、キリスト教にたいする文筆による攻撃の指導者、碩学井上円了<(注65)(コラム#9610、10862)>・・・は言った、「もしわれわれが東洋文化を廃して、独立を失うべきだというのならば、何をかいわんやである。

 (注65)1858~1919年。「越後長岡藩領の・・・寺に生まれる。・・・16歳で長岡洋学校に入学し、洋学を学んだ。1877年(明治10年)、東本願寺の教師学校に入学する。1878年(明治11年)東本願寺の国内留学生に選ばれ上京し、東京大学予備門に入学する。その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。1885年(明治18年)に同大学を卒業した後、文部省への出仕を断り、東本願寺にも戻らなかった。そして、著述活動を通じて国家主義の立場からの仏教改革、護国愛理の思想などを唱え、迷信打破の活動を行った。また、哲学普及を目指し、哲学館(本郷区龍岡町の麟祥院内。その後哲学館大学を経て現在は東洋大学として現存)を設立する。・・・その後は豊多摩郡野方村にみずからが建設した・・・四聖堂を当初哲学堂と称し・・・ソクラテス、カント、孔子、釈迦を祀<り、>・・・<ここを>生涯を通じておこなわれた巡回講演活動の拠点とした。・・・
 キリスト教や迷信を批判する一方で、仏教が同様に否定されることには抵抗しており、様々な理屈をつけて反駁を続けた。そのため、円了自身の著作にも今日においては迷信的とされる説(霊魂の存在、宇宙飛行不可能説、進化論的な生命の起源の否定など)が散見される。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%86%86%E4%BA%86

 しかし、もしわれわれがわれわれの文化を維持し、われわれの独立を押し通そうとするならば、その時は仏教に活力を与えるべく努力しなければならぬ。」
 井上は三宅雪嶺によって指導された保守主義の運動に参加し、その機関誌『日本人』の編集陣に加わった。・・・」(250~251)

⇒残念ながら、四聖といい、四聖堂と共に建設された六賢堂の六賢(日本の聖徳太子、菅原道真、支那の荘子、朱子、インドの龍樹、迦毘羅)といい、同じく三祖苑の三祖(支那の黄帝、インドの足目仙人、ギリシアのタレス)といい、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E5%A0%82%E5%85%AC%E5%9C%92
井上の頭の中が整理されていたとは想像し難いものがあります。
 仏教自体の理解も、お寺の出身にも関わらず、それが(仏教と言えるかどうか微妙であるところの)真宗のしかも(幕府べったりであった)お東さんであったことを考えれば無理からぬものがあるのかもしれませんが、極めて浅薄であったと言わざるをえません。
 彼だけではなく、彼が学んだ東大(哲学科)の教授陣だって五十歩百歩だったのでしょうが・・。
 蛇足ながら、私なら、さしずめ、人間主義の釈迦、演繹科学のソクラテス、帰納科学のグロステスト、の三聖、ですね。(太田)

(続く)