太田述正コラム#10881(2019.10.24)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その1)>(2020.1.14公開)

1 始めに

 HHさん提供の表記をお送りします。
 関岡英之<(注1)>氏については、何度も取り上げた記憶はあった(コラム#827、2358、3604、3689、3927、4169、4303、4401、4599、5155、5257、6672、8102)のですが、この本自体が話題に上ったことがあった(コラム#6672)ことまでは忘れていました。

 (注1)1961年~。慶大法卒、東京銀行勤務、早大院(建築)修士。拓殖大学日本文化研究所客員教授。著書:『拒否できない日本–アメリカの日本改造が進んでいる』(2004年)、本書(2010年)、『国家の存亡 「平成の開国」が日本を亡ぼす』(2011年)、等。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%B2%A1%E8%8B%B1%E4%B9%8B

 ねこ魔人(猫魔人)さんが取り上げていたのですね。
 
2 帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」

 「・・・ロシアは、ドルジエフというブリヤート・モンゴル人のラマ僧をラサに派遣して親露化工作を展開し、チベットへ触手を伸ばした。
 これに対抗し、英国のヤングハズバンド<(注1)>大佐が率いる遠征隊がインドからチベットに侵攻、一時ラサを占領して英蔵通商条約<(ラサ条約)>を締結したのは1904年、日露戦争のさなかだった。

 (注1)Sir Francis Edward Younghusband(1863~1942年)。英領インド(現パキスタン)の夏の首都マリー(Murree)で生まれ、英陸士卒、陸軍に入る。英領インドで活躍。1919年になると王立地理協会の会長に就任。
 「1903年から翌年にかけて、・・・カーゾン総督の命で、・・・チベット探検に乗り出した。しかしこれはシッキム=チベット間の国境問題を解決するための、中央の指示を超えた「侵攻」[・・British expedition to Tibet・・]になってしまった 。チベット国境から100キロほど行ったギャンツェへの道中、探検隊は地元のチベット人と対立し、チベット人民兵600から700人(多くは僧侶)を虐殺する惨事へと発展した。死傷者の数には諸説あり、イギリス側の犠牲者5人に対して5000人のチベット人が殺されたとする推計もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%8F%E3%82%BA%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E9%81%A0%E5%BE%81 ([]内)

 日本の猛攻にたじろいでいたロシアは英国のチベット侵攻を拱手傍観するほかなかった。
 英国はチベットを植民地として領有したわけではないが、広大な英領インドに隣接するチベットを緩衝地帯化することに成功し、以後、北方からのロシアの脅威を永久に封じ込めることができた。
 チベットにおける橋頭保を失ったロシアはその後、モンゴルへ矛先を集中するようになり、ソ連時代になってついに外モンゴルを衛星国化したわけである。・・・
 英国当局の監視をかいくぐってチベットへ潜入し、ダライ・ラマ13世<(注2)>との再会を果たした・・・青木文教<(注3)>・・・は、ラサの貴族の邸宅に住み込みで、専属の家庭教師ををつけられるという破格の厚遇で3年間、上流階級のチベット語を学んだ。・・・

 (注2)Dalai Lama 13(1876~1933年)。「ラサ条約に調印するが、清がチベットへの主権を主張して対立。13世は北京に避難し清朝廷の庇護下に入るが、1908年にラサへ帰還した。
 1910年に今度は清軍が、<英国>の影響を排除するためとしてチベットに侵攻。13世はシッキム、ネパールと転々としインドに向かった。清は13世の廃位を宣言するが、1911年の辛亥革命により清は滅亡。しかしその後も清軍の勢力が残り、チベットの民族政権が清軍を駆逐するには1912年までかかった。清に代わった中華民国は13世の地位を保証したため、1913年1月にラサへ帰還。1914年に英国とシムラ条約と締結する一方で、インド亡命中から近代化に着手した。欧米の議院内閣制に倣ってカシャグ(民会)を基盤として大臣を選出するシステムを確立し、郵便切手や紙幣の発行・西洋式病院の設置などを行った。また今日広く使われているチベット旗を正式に定めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E13%E4%B8%96
 (注3)1886~1956年。「浄土真宗本願寺派末寺・・・の生まれ。旧名・仏教大学(現・龍谷大学)在学時の1910年(明治43年)、西本願寺法主・大谷光瑞の命でインドで仏教遺跡調査、1911年(明治44年)、ロンドンで教育事情調査に従事する。同年、清国のチベット進軍を逃れてインドのダージリンに亡命していたダライ・ラマ13世に謁見し、学僧ツァワ・ティトゥーを日本への留学生として同行する。
 1912年(大正元年)にインドにて再度ダライ・ラマ13世に謁見し、・・・チベットへの入国を許され、ラサ入りを果たす。
 ・・・ラサの街に居住し、・・・<ラサ帰還を果たした>ダライラマ13世の教学顧問として近代化のための助言を行った。<チベット「国旗」の>雪山獅子旗のデザインもする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E13%E4%B8%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%96%87%E6%95%99

 当時の日本政府は同盟国英国を刺激することを恐れるあまり、ひたすらことなかれ主義に堕していた<ようだが、>・・・青木は、兵制の近代化に取り組むダライ・ラマ13世の求めに応じて、日本から陸軍の教範操典類を取り寄せチベット語に翻訳してやるなど、仏教という自分の専門の枠を超えて、できる限りの協力をし<た。>・・・」(34~36)

(続く)