太田述正コラム#10885(2019.10.26)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その3)>(2020.1.16公開)

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[大谷光瑞と島津斉彬コンセンサス]

 大谷光瑞のウィキペディアには、「浄土真宗本願寺派第22世法主・・・妻は大正天皇の皇后・九条節子の姉・籌子(かずこ)。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E7%91%9E
とあるが、この彼の皇室との関係は、直接、彼が島津斉彬コンセンサス信奉者であったことを裏づけるものではないので、少し調べることにした。

 彼の父親の大谷光尊は、「・・・西本願寺21世門主。・・・ 裏方は徳如(光威)長女、枝子(しげこ:大谷光勝養女)。 実子に大谷光瑞(鏡如)、・・・九条武子・・・などがいる。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%B0%8A
という人物だが、光瑞の母親が、お西さんならぬお東さんの法主の光勝の長女であることが分かった。
 この大谷光勝(1817~94年)は、「・・・東本願寺第二十一代法主・・・東本願寺第二十代 達如の次男として誕生。近衛忠煕の猶子となる。・・・
嘉永元年(1848年)12月16日 には、伏見宮邦家親王の四女・嘉枝宮和子女王を室に迎える。・・・
明治元年(1868年)、近代に入ると、親密であった東本願寺と江戸幕府との関係を払拭し、明治新政府との関係改善を図るため、勤皇の立場を明確にする。そのため、北陸や東海地方へ巡教・勧募し、軍事費1万両・米4千俵を政府に献上する。
明治2年(1869年)、政府の北海道開拓事業を請け負うことを決定する。
明治3年(1870年)、法嗣である第5子(四男)・現如(大谷光瑩)を北海道に派遣した。・・・
同年、大谷英麿と大谷温唐、東本願寺派関係の僧侶数名と共に慶應義塾入塾。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%8B%9D
という経歴であり、「近衛忠煕の猶子」、幕末から維新にかけての薩摩藩への全面協力、更には明治黎明期における「慶應義塾入塾」から、彼は熱烈な島津斉彬コンセンサス信奉者であった、と断定できよう。
 で、光瑞は、この熱烈な島津斉彬コンセンサス信奉者の実孫だったわけだ。

 (ちなみに、猶子とは、「養子との違いは、家督や財産などの相続を必ずしも目的の第一義とはせず、実力や「徳」に優れた仮親の権勢を借りたり、一家・同族内の結束を強化するために行われた。具体的には、官位などの昇進上の便宜、婚姻上の便宜、他の氏族との関係強化が図られる場合に組まれるようである。そのため、子供の姓は変わらない場合があったり、単なる後見人としての関係であるなど、養子縁組と比べて単純かつ緩やかで擬制的な側面が大きい。ただし、相続に関しての実際は明確な区別はなく、猶子であっても相続がなされる場合も多い。ときに両者をまったく同義で使用している場合がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%B6%E5%AD%90 )

 それにしても、こんなところにまで、あの近衛忠煕が登場したのには驚いた。
 肝心な個所をご紹介しておく。(**にも注目。)↓

 「・・・養子・・・女子:藤原敬子 – 島津斉彬養女、島津忠剛の娘、徳川家定正室・天璋院篤姫・・・       女子:寧子 – 寧姫、島津斉彬の五女、島津忠義後室 **
     猶子 男子:大谷光勝 – 達如の次男、東本願寺法主・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95

 ひょっとして、もっとあるかもしれないという気がしてきて、光瑞の妻の籌子のラインも調べてみた。
 籌子の父親、すなわち、光瑞の義父である九条道孝(1839~1906年)だが、「・・・父は九条尚忠、母は唐橋姪子。孝明天皇の女御・夙子[・・孝明天皇の女御。明治天皇の嫡母(実母ではない)として皇太后<(英照皇太后)>に冊立された・・]は姉。・・・ 
 明治元年(1868年)・・・、摂政関白廃止後、<最後の>藤氏長者に任じられ、新政府軍の奥羽鎮撫総督に就任。戊辰戦争では東北地方を転戦した。
 子 道実、範子(山階宮菊麿王妃)、良政、籌子(大谷光瑞妻)、節子(大正天皇皇后)・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E5%AD%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E7%85%A7%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%90%8E ([]内)
という人物だ。
 彼の母親、すなわち、光瑞の義祖母の唐橋姪子(1796~1881年)は、「九条尚忠の妾のちに正室。九条道孝の母。・・・北野天満宮社僧(北野三院家(松梅院・徳勝院・妙蔵院)の一つ、松梅院禅泰の長女として誕生・・・唐橋在煕の養女。昭和天皇の曾祖母、上皇の高祖母にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%A9%8B%E5%A7%AA%E5%AD%90
という人物であるところ、彼女の養父である唐橋在熙(1758~1812年)は、「母の黒田長貞娘との間に生まれた実弟・黒田豊熈は跡継ぎが居なかった実家の秋月藩黒田家の養子になる予定だったが中止になり、京都にて母実家秋月黒田家、兄の在熙の庇護を受け別家を起てて独立した。なお、嫡男・在経も母と同じく秋月藩黒田家から正室を迎えて<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%A9%8B%E5%9C%A8%E7%86%99
と、秋月黒田家、ひいては黒田本家、の一族と言ってもよい人物だ。
 どうして、「ひいては黒田本家」と言えるかというと、福岡藩の支藩秋月藩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E8%97%A9
の秋月黒田家と福岡藩の黒田本家とは、江戸時代を通じて一体的関係にあり続けたからだ。
 二つだけ例示する。↓

 黒田長貞(1695~1754年)は、「福岡藩重臣・野村中老家当主である野村祐春の次男<・・母方が黒田氏・・>として福岡にて誕生し・・・正徳5年(1715年)・・・<秋月藩>先代藩主・黒田長軌が嗣子無くして死去したため、その養嗣子となって<秋月藩主になった>。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E8%B2%9E
 黒田斉清(1795~1851年)は、「筑前福岡藩の第10代藩主。蘭癖大名のひとりとして知られる。・・・福岡藩第9代藩主・斉隆の長男(一説に筑前秋月藩主・黒田長舒の四男)として福岡城にて誕生した。・・・斉清は若年ながら眼病を患い、薩摩藩主・島津重豪の九男・<長溥(後の斉溥、長溥)を娘・純姫と婚姻させ、婿養子という形で迎え養嗣子とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%96%89%E6%B8%85

 黒田斉清の養子の、既に太田コラムではお馴染みの黒田長溥(1811~87年)の話がすぐ上に出て来るが、彼は、「文政5年(1822年)、第10代福岡藩主・黒田斉清<の>・・・婿嗣子となる。・・・2歳年上の大甥・斉彬とは兄弟のような仲」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%BA%A5
という人物なので、九条道孝は、物心がついてから、実母を通じて黒田長溥とも親戚づきあいをし、長溥から島津斉彬の話をさんざん聞かされ、島津斉彬コンセンサスを吹き込まれた可能性が高い。

 で、結論だが、大谷光瑞は、実母の実父(母方の祖父)、からに加え、結婚後は、義父/義父の実母、からも、島津斉彬コンセンサスを注入されたに違いない。
 だから、光瑞がアジア主義者になったのは当然だ。
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(続く)