太田述正コラム#10887(2019.10.27)
<関岡英之『帝国陸軍–知られざる地政学戦略–見果てぬ「防共回廊」』を読む(その4)>(2020.1.17公開)

 「・・・1916年に帰国した青木文教は、・・・1941年11月に外務省調査局に嘱託として採用され、終戦までチベット工作を担当した。・・・
 大東亜戦争中の1942年、外務省はチベット工作の一環としてチベット政府代表団を極秘に日本へ招いていたのだ。
 チベット政府代表団と言ってもラサの法王庁ではなく、在北京チベット政府代表のジャサク・ケンポ(タンパダチャ・カンプ)の一行を招いたものである。・・・
 これは外務省と陸軍参謀本部の協議のもとに進められた工作だったが、外務省の委託を受けた真言宗が応対にあたり、表面上はあくまでも宗教上の私的使節として扱われたうえ、新聞報道も一切禁止された。・・・
 大東亜戦争中、チベットが・・・インドのダージリンからチベットに入り、ラサから東チベット(当時の西康省)を通って重慶に至る新たな・・・援蒋ルートの建設を認めず、中国への協力を断固拒否したことを私たち日本人は忘れてはならないだろう。・・・
 大東亜戦争中、・・・チベット現地へ潜入していた諜報員もいた。
 西川一三<(注7)>(かずみ)と木村肥佐生<(注8)>(ひさお)である。

 (注7)1918~2008年。「山口県阿武郡地福村(現山口市)に生まれる。1936年、福岡県中学修猷館を卒業後、南満州鉄道(満鉄)大連本社に入社するが、1941年、「西北」への憧れから満鉄を退社し、駐蒙古大使館が主宰する情報部員養成機関である興亜義塾に入塾する。1943年、同塾を卒業後、駐蒙古大使館調査部情報部員となるや、東條英機首相より、「西北支那(中国)に潜入し、支那辺境民族の友となり、永住せよ」との特命を受ける。・・・そのため、・・・内蒙古を発ち、寧夏、甘粛、青海を巡って、1年10ヶ月に及ぶ単独行の後、1945年にチベットの都ラサに潜入することに成功する。・・・その後、日本の敗戦を知るも、地誌と地図を作成する任務を放棄せず、外務省からは送金も援助も無い孤立無援のまま続行。モンゴル僧としてデプン寺に入り、1年間にわたって本格的な仏教修行と、猛烈な語学の学習を行い、蒙古人ラマとしての信頼を獲得し、ようやく平穏な時を持つ。・・・<その後、>ラサを発ち、再び修行僧や商人と身を偽って、ブータン、西康、シッキム、インド、ネパール各地を潜行する。その後、ビルマに潜入する計画であったが、1949年、インドで日本人の密告により逮捕され、翌年帰国。・・・<GHQに綿密な聴取をされた後、>・・・盛岡市で理美容材卸業を営<んだ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B7%9D%E4%B8%80%E4%B8%89
 (注8)1922~89年。「長崎県佐世保市生まれ。1940年: 興亜院モンゴル語研修生、41年蒙古善隣協会職員。1942年: 大東亜省内蒙古張家口大使館調査課。1943年: チベットに潜行し諜報活動に従事。1950年: インド経由で日本に帰国。1951-76年: 駐日<米>大使館勤務。1977年: 亜細亜大学アジア研究所教授。」
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%DA¼%C8%EE%BA%B4%C0%B8

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[プンツォク・ワンギャルについて]

 1922~2014年。「長征中にチベット東部(カム地方)を通過した中国共産党の影響を受け『東チベット自治同盟』を結成、雲南との国境地帯で中華民国の支配に対する武装蜂起を起こした後、中国支配に抵抗した英雄として、チベット貴族支配下にあるラサで公然と反体制的な活動を行う。この時すでに中国共産党員であり、民族派的マルキストだったという。
 ・・・木村肥佐生の著書に登場することで知られ、木村とは親しく交流していたようである。木村は明治維新を革命モデルとしてチベットに適用するアイディアを彼に提案し、彼は明治憲法をモデルにチベットの新憲法の草案を練っていたという。
 1949年、保守派貴族によってインドへ追放される。帰国後、中国共産党の下部機関に組み込まれるが、文化大革命では民族主義者として弾圧を受け、18年間投獄される。
 文化大革命の終焉とともに政治の表舞台へ復帰し、全国人民代表大会常務委員、中央民族委員会副主任などのポストを歴任する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A9%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%AB
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 二人は内蒙古の厚和(現在のフフホト)にあったモンゴル工作要員の養成機関、興亜義塾<(注9)>の出身で、木村はその二期生、西川は三期生だった。・・・」(38~41)

 (注9)「「帝国ノ大陸国策ノ遂行ヲ完カラシメンガ為‥‥‥工作ニ従事スル志士的青年ノ養成ヲ使命トスル」学校で、学費無用で募集十五名、「蒙、中、露各語と西域地理・歴史ナド」を一年間学んで、「第一線ノ任務ニ服スルモノトス」。」
http://www.gesanmedo.or.jp/uli077.html

⇒日本帰国後の経歴の違いからしても、西川よりも木村の方が格段に優秀であったと思われ、西川は全く独力で長期間をかけてラサに赴かされたのに対し、木村は恐らくは帝国陸軍と中国共産党の合意の下で短期間でラサに「赴任」し、現地で、中国共産党のチベットにおける工作員であったブンツォク・ワンギャルと共同で反中国国民党工作を行った、ということではないでしょうか。(太田)

(続く)